中部

踏めば音するお勝山【1908.7.5 東京日日】

西濃赤坂にお勝山という丘がある。関ケ原の戦いで亡くなった将兵を埋葬し、その甲冑が地中にあるので、この山を踏むと、地下から太鼓を打つような音がするという。

●踏めば音するお勝山

大理石産地として無尽蔵の宝庫なりと伝へられたる西濃赤坂山(一名金生山)裏手に一小丘あり松杉欝蒼として山点より四顧すれば南方に杭瀬川を隔てゝ大垣城と相対し風光絶佳なれば四季共に杖を曳<ひ>く者多し此の山は慶長五〔1600〕年九月十四日徳川家康〔(1543-1616)〕西上して赤坂に入り同山に陣地を布きたる旧趾にて家康の戦捷に因みお勝山(本名勝山)と俗称し頂上は南北凡そ六十間〔約109メートル〕東西約卅間〔約55メートル〕にて今猶幾分陣趾の形を存せる由にてその昔<かみ>の役に敵味方の死屍累々たりしを戦捷後家康令して悉く之れを同所に埋葬せしめたるより戦歿将士の甲冑等地中に夥しき為め此の山を踏めば遥かの地下にて太鼓を打つが如き音を発すと伝へられたるが其の原因は他に何等かの理由あらんも一足毎に一種の音響を発するは事実なりと<ちなみ>に同山中には旧大垣藩士小原鉄心〔(1817-72)〕の碑及び江馬細香〔(1787-1861)〕の埋筆塚等ありと云ふ

東京日日新聞 明治41(1908)年7月5日(日)7面

蛙石祟を為す【1892.5.22 読売】

信州・蓼科山中に蛙形の大石がある。前山村の若者がその石を村社に奉納すると、暴風雨で周辺に大きな被害が出た。近隣の村々は祟りのせいとして石を元の場所に戻すよう求めている。

蛙石<かはづいし>祟を為す  古来より信州〔長野県〕蓼科山中に一の平地ありこれを称して蛙平<かはづだひら>と云ふ蛙平に蛙形の大石<たいせき>あり其状奇にして面理頗<すこぶ>る美なり<むか>し其の地方の豪農これを持ち来りて庭前に据えしに其後<そのご>変事十数回ありしかば其の祟りなるを悟りて再<ふた>たび蛙平に戻し鄭重に其所<そのところ>に安置せり〔/〕

<しか>るに此頃同郡前山村〔南佐久郡前山村(現・佐久市)〕の内字小宮山の若者等<わかものら>右の石を持ち来ツて村社に奉納せんと計りしかば古老之<これ>を止<とゞ>むること切なれども壮年の輩<はい>は之を聴かず、「御幣は昔こそ担<かつ>文明の今日<こんにち>何の恐るゝことあらんと数<す>十名隊を為<な>して蓼科山<たてしなざん>に登り遂に蛙石を担ぎ来り村社に奉納せしは去月二十五日のことなりしに翌二十六日より激雨洪水暴風等起り全郡の被害頗る多く今尚ほ降雨止<や>まず<こ>れ其の祟りなりとて近村近郷の有志者は小宮山若輩<わかもの>の処置を憤ほり、「速かに蛙平に戻すべしと掛合ひ目下大紛紜中の由

読売新聞 明治25(1892)年5月22日(日)5面

三洲の書に霊験あり【1892.12.11 読売】

飛騨・吉城郡船津町の旧家に長三洲の書を掛軸にしたものがある。狐狸や人の生霊に憑かれた人が枕元にこの軸を掛けて寝ると、すぐに治るといわれる。

三洲の書に霊験あり  飛州吉城郡<よしきごほり>船津町<ふなつまち>〔現・岐阜県飛騨市〕菱川増太郎所蔵の長三洲〔漢学者(1833-95)〕の軸は狐狸の人に憑きたる時又は該地の方言「ゴンボ〔ごぼう〕の種」即ち人の生霊<いきれう>が移りたりといふ時等すべて神経的難病に罹りたるものゝ枕頭<まくらべ>に懸くるときは其の病ひ立ちどころに癒ゆること実に神<しん>の如くなりといひ此の程も同地田中宇吉方親戚に該病を発したるもの有りしかば早速<くだん>の軸を借受けて形<かた>の如くなせしに果せるかな日を遷<うつ>さずして左<さ>しもの難病も拭ふが如く去りたるにぞ人々いよ/\其の霊能に感じ口々に名家<めいか>の筆に威徳備はれりといひ居<を>るよしかゝる妄信田舎にては珍しからねど三洲の書に霊験ありとはこれが始めて〔初めて〕なるべし

読売新聞 明治25(1892)年12月11日(日)3面

不可思議なる種族【1908.8.14 大阪朝日】

岐阜県吉城・大野両郡とその周辺に「牛蒡種」と呼ばれる種族が点在する。この種族の人ににらまれると、精神に異状をきたす。しかし同種族間や目上の人には奇怪な作用は及ばないという。

●不可思議なる種族
牛蒡種<ごばうだね>の如き人間◎睨まれると病む◎婚姻は禁物◎約一万人の種族

岐阜県飛騨国吉城<よしき>〔現・飛騨市・高山市〕、大野〔現・高山市・白川村・下呂市〕の二郡全部と益田郡<ごほり>〔現・下呂市・高山市〕及び東濃恵那郡〔現・恵那市・中津川市・瑞浪市・愛知県豊田市〕の一部に散在し、更に信州〔長野県〕西部に点在する俗に牛蒡種といふ種族がある。これは人に憑くと離れぬこと牛蒡種の如くであるから称するのださうな、久しく同地に居た岐阜警察署松岡警部の実地談に拠るとこの種族は一種不可思議の作用を持つて居るとの事で、鳥渡<ちよつと>聞くと事実とは思はれぬ程である、〔/〕

といふのは此の種族は男女を問はず不可思議の作用を以て<たちどこ>ろに他人<ひと>を魅して終<しま>ふ、例へば此種族の者が他人<たにん>を見て憎い人とか嫌な人だとか思つて睨むが最後、その睨まれた者は忽ち発熱する、頭痛が起<おこ>る、苦悶する、精神に異常を来す、果は一種の瘋癲患者の如くなつて病床に呻吟する、幸い軽ひ〔原文ママ〕者は数<す>十日で恢復するが<もし>重いものになると、それが原因<もと>で遂に死んで終ふといふ実に恐ろしい作用である、処で此の種族の人は他人を斯様に悩ましながら自分は更に何等の異状もないさうだ、何故<なぜ><そ>んな恐るべき作用を有<も>つて居<を>るかといふ事はまだ研究した者もないので<たしか>な説明は出来ぬが或は例の催眠術同様に精神作用が知らず識<し>らずの間に斯<かく>の如き現象を示すのではあるまいか、〔/〕

大野郡上宝村〔吉城郡上宝村(現・高山市)〕大字双六<すごろく>といふ部落は残らず此の種族であるから、他部落から排斥され<あたか>も蛇蝎の如く忌み嫌はれて居る、之<これ>に次いでは恵那郡坂下村〔現・中津川市〕字袖川地内であるが若し此の種族の女を妻に娶ると其の夫は妻に対して何等の命令をも下すことが出来ぬ、妻が嫌だとか腹が立つとか思ふと例の作用で忽ち夫は病人になる、それゆゑ此の種族の女を娶つた夫は一生洗濯もする、針仕事もするといふ風に妻の為に奴隷同様な悲惨<みじめ>な境遇に陥るさうだ、現に此の愍<あは>れな夫は松岡警部が目撃した事がある、〔/〕

<しか>るに茲<こゝ>に可笑<をかし>いのはこの種族は約一万人からの部落であるが同種族の間には此の奇怪なる作用を失ふのみならず、自分より目上の人<すなは>ち郡長とか警察署長とか又は村長とかに対しては更に此の作用を施すことが出来ぬさうである、同地方は山間の僻地で文化も開けて居らぬから当時の催眠術を学んだ訳ではなく昔から自然に伝はつて居<ゐ>る一種の魔力とでも言ふべきものであらう

大阪朝日新聞 明治41(1908)年8月14日(金)9面

人魚のミイラ【1937.9.5夕 読売】

佐渡島・河崎村の旧家の土蔵に昔から開けてはならぬと言われていた古い長持ちがある。主人が蓋を開けてみると、上半身が人間、下半身が魚の骨の形をした「人魚のミイラ」が出てきた。

人魚のミイラ
伝説の島佐渡河崎から現る

【相川電話】 詩の島伝説の島として幾多の怪奇譚をもつ“おけさの佐渡”に“人魚のミイラ”がこのほど河崎村〔現・新潟県佐渡市〕池甚吉(七〇)さん方土蔵の中から発見され島の涼み台を賑はしてゐる、同家は村の旧家で昔から「あけてはならぬ」制札を貼られた古長持があり一家の人も触らぬ神に祟りなしと長い間手も触れずほこりまみれになつたまゝ放つて置かれたところ、最近甚吉さんが

『儂も今年は七十歳、古稀の齢を重ねたからには仮令〔たとい〕祟りがあつて死んでも惜しくない命ぢや』

とばかり怖々ながら蓋をあけた、

あけて吃驚<びつくり>出て来たものは紛れ方なき人魚?の骨、上半身は人間の骨の形をして居り下半身は魚の骨これに肉をつけたら伝説物語りに出て来る“人魚”そつくりといふしろもの、高さ一尺二寸〔約36.4センチ〕長さ七尺〔約212.1センチ〕早速物識りや専門家に見せたが何しろ品物はやけに古びて汚れ黴まで生えてゐる代物であるためいまだに判断がつかない、或人は支那<しな>海に棲んでゐた『儒恨』だといひ或者は古いころ香具師が使つた練細工ではないかといひ、当の本人甚吉老も自分のものだが生れ落ちて七十年初めて見る怪物にこれまた見当がつかぬといふ、まさか人魚が居たとは思はれないが何としても奇怪なグロではある【写真は長持の中から現れた怪物】

読売新聞 1937(昭和12)年9月5日(日)夕刊

狸狩りの怪談【1895.4.17 東京朝日】

愛知県幡豆郡吹羽良村の男がオス狸を殺すと、妻はメス狸の復讐を恐れた。後日、男は養子を連れて外出。翌朝、近所の物置から互いに争って重傷になった2人が発見された。男の話では、帰路に立ち寄った家で見知らぬ女のもてなしを受け、もしや狸ではと殴りかかったら、応戦されていつしか失神したという。

●狸狩りの怪談  愛知県三河国幡豆郡<はづごほり>吹原村〔吹羽良村(現・西尾市)の往還の傍<かた>はらに年ふる大木ありけり此の大木の根に一個の穴ありて夫婦<めをと>の古狸こゝに住むと言ひ伝へ村民は此穴を狸穴とぞ唱へける今度<こたび>此辺の道を修繕するにつき件の大木を伐り崩したれば狸は棲居<すみか>を奪はれてこゝかしこを徘徊し毎夜穴の跡に来りて村民の無情を怨み嘆きけるよし噂<うは>さしけり〔/〕

同村の農野村源蔵といふもの此事を聞き、「そは一段と面白し<いか>で我れ其の狸を手取にして村民の惑ひを晴らしくれんと思ひ起<た>去る三月十五六日頃得物を携<たづ>さへ狸の在所<ありか>を尋ね求め遂に其の一疋を打ち殺し<これ>を家に持ち帰りて家内の者近所の者にも其剛胆を誇り女房に命じて狸汁を調理させんとなしたるに妻は昔<むか>しより狸は死後に於て悪祟りをするものなりと信じをれば容易に之に従はず、「由なき事をせられしものかな殊に此狸は牡狸<をだぬき>なれば跡に残りし執念深き牝狸<めだぬき>は必ず仇を報うべし責ては此の死骸を懇ろに葬<はう>むりて以て牝狸の怨みを晴らし玉へ〔給え〕と諫めけり源蔵女房の諫めを聞くより俄かに心憶し〔臆し〕けん狸汁にすることは思ひ止<とゞ>まり我家の裏手の畑を掘りて狸の死骸を葬むりけり〔/〕

同月廿八日は旧暦の三月三日に当り村民孰<いづ>れも着物を着替へ髪を飾り其日の業を休みけり源蔵も仕事を休み養子安次郎(十一)と共に我妹<いもと>の嫁入先なる隣村某方へ遊びに行き饗応を受けて泥酔し夜の九時頃我家をさして立ち去りぬ去れども源蔵は同夜我家に帰らざりしかば家内の者は心を痛め、「妹の家に一泊せしなればよけれども<も>し途中にて変事ありしにはあらずやなど取々噂さを為しをりしに翌朝同村の何がし〔某〕我家の物置小屋に到りしにこはそも如何に此小屋の中に源蔵親子倒れをり然も養子安次郎は全身十数ケ所の打傷を受け殊に其の肛門と陰茎との疵<きず>は頗る重傷と見えにけり又源蔵は満面爪にて掻きむしられ且つ血に塗れてをりけるなり何がし一見して打驚き此由巡査派出所へ訴へたれば間もなく警官医師を連れて出張し先づ二人に投薬せしに幸ひにも蘇生したり依て更に其疵を検<あらた>むるに源蔵の爪痕は獣物<けもの>などのかきむしりしには非<あら>ずして正しく人の爪にかゝりしものなり又安次郎の指を検むれば爪の間に人の肉らしきもの<はさ>まりをれば<こ>或ひは源蔵は安次郎の為にかきむしられたるも知るべからず去れども此の親子は日頃〔仲〕よき事なれば喧嘩などすべしとは思はれず。「<そ>も如何なれば親子はこゝに斯<かう>してありけるぞと源蔵に向ひて様子を聞くに源蔵は恥かし気に頭部<あたま>を掻き<さて>いふ様は昨夜倅と共に妹の家を出たるに道のほど五六丁〔約545-654メートル〕も歩みし頃俄かに道を踏迷ひ行けども/\本道に出でず兎角して但<と>ある家居を認めたれば是幸ひと内に入るにこゝに見馴れぬ女あり容態<かほかたち>も憎からず仇めきたる笑顔作りて頻りに我をもてなしけり<こゝ>に於て我は先の日の事を思ひ出で是ぞ正しく狸の所為<しわざ>ならんと思ひ定め在合ふ棒を持て打てかゝれば果して彼も爪を尖らしてつかみかゝり暫らく挑み戦ふうちいつしか気を失ひて倒れしなりとぞ〔/〕

茲に於て始めて〔初めて〕狸の祟りを恐るゝの余り親子とも神経狂ひしものなるを知り此旨西尾警察署長へ報告したれば同署よりも巡査部長一名出張し名古屋地方裁判所岡崎支庁よりも予審判事、検事出張して種々検証する所ありしも矢張り前記の次第の外<ほか>別に発見する所とてはあらず安次郎は目下病院に入りて治療中なりと同地の人より通信ありたり

東京朝日新聞 1895(明治28)年4月17日(水)

多数の人魂が勝山隧道をさまよふの噂に附近の部落民が戦々兢々【1922.2.28 読売】

雪崩が列車を襲い、多数の死者を出した新潟県・勝山トンネル付近に最近、多数の人魂がさまようとの噂があり、周辺住民がおびえている。

多数の人魂が
勝山隧道をさまよふの噂に
附近の部落民が戦々兢々

【金沢特電】 北陸地方では廿六日夜来寒気依然として募り加之<しかのみならず>降雪ありて過般大椿事〔2月3日に雪崩が列車を襲い、多数の死傷者を出す事故があった〕を惹起した北陸線親不知青海間には積雪尺余に及びし為<た>各列車は徐行をして居る結果発着共に大遅延を為しつゝある、〔/〕

尚惨劇のあつた勝山隧道<トンネル>附近には昨今多数の人魂が彷徨するとの噂ありて同地附近の各部落では戦々兢々の有様である

読売新聞 1922(大正11)年2月28日(火)

乃木大将の妖怪談【1909.8.7 東京日日】

学習院長・乃木希典は生徒に乞われ、妖怪に出逢った2度の体験について話した。1つは少年時代、深夜の萩の山道を歩く女を見たことで、後ろから追い越すと、消えて再び前方に姿を現した。もう1つは軍務で金沢の宿屋に泊まったときのこと。3階で寝ようとすると、枕元に若い女が現れて眠れない。後で聞くと、宿屋の主人の妻が3階で虐待されて死んだという。

乃木大将の妖怪談
△今までに二度出遭つた

学習院長伯爵乃木〔希典(1849-1912)〕大将が昨年来院内官舎に生徒と共に起臥し生徒を愛撫すること慈母の赤子に於けるが如きものあることは徧<あまね>く世に知られて居る事実だが生徒の方でも大将を敬慕し宛然<まるで>御父さんの様に考へて居ると見えて院長々々と附き纏<まと>〔/〕

つい先き頃の事だが一生徒が何処<どこ>で聞いて来たか大将は昔妖怪に出遭つたことがあるさうだと云ひ出したので寄宿生談話会のをり大将に其の話をして下さいと懇望した大将はさう/\若い時に其<そ>んな事もあつたよと徐<しづか>に語り出でたのは玉井山上の妖怪 一件で在た「自分は今でこそ余り恐<こは>いなどゝ思ふ事はないが少年時代には非常に臆病で朋友<ともだち>にも屡々<しば/\>侮られた程であつた何でも十五六の頃其時は尚<まだ>長門〔山口県〕の萩に居たが一夜<あるよ><にわ>かの用事で七八里〔約27-31キロ〕<へだゝ>つた町まで使を命ぜられた<いや>とも云はれんから恐々ながら一人夜道を辿つて玉井山まで行つたのは草木も眠る丑満時山気身に迫つて肌<はだへ>に粟を生じ風は全く落ちて動くものは樹<こ>の間<ま>を洩<も>る星の瞬きと自分許<ばか>心細くもトボ/\と猶山深く入<は>いつて行くと濃い靄が一面に降りて咫尺<しせき>も弁じなくなつた〔すぐ近くのものも見分けられなくなった〕<こ>れは困つたと思つて捜<さぐ>り足で進んで行く内突然自分の前一二間〔約1.8-3.6メートル〕<はな>れた処に蛇の目の傘を翳<さ>白足袋を穿<は>いた女がヌツと現はれた咫尺も弁ぜずと云ふ濃い靄の中で其の傘と白足袋だけが瞭然<はつきり>見えるのだから之は心の迷か狐狸の悪戯<いたづら>何にしても真実<ほんとう>の人間ではあるまいと身構へして右の方に避けて通らうとする其の女は傘で上半身を隠したまゝ行き違つてフツと消えてしまつた不思議な事もあるものと恐<おそろし>くなつて道を急いだが少時<しばらく>すると<また>其の女が自分の前へ現はれ今度も前の通り行き違ふやフツと消えた今になつても彼<あれ>は何<ど>う云ふ物か或は何うして見えたのか判らないで実に不思議だと思つて居る〔/〕

それからもう一度之は大分後だが軍務を帯びて加賀〔石川県〕の金沢へ行つた時三層楼の妖美人 に二日続けて悩まされたことがある其時泊つたのは三階建の宿屋で自分は見晴しの好い三階座敷に陣取つた<さて><よ>に入つて床を敷けと云ふと老人の下婢が二階に伸べてございますと云ふから変なことをすると思つてデは今夜は二階で寝るが明日の晩は三階に敷いて呉れと頼んで其晩は寝たところが其の翌晩も依然二階に床を伸べたので之は夜具を三階に運ぶのが辛いからであらうと婆さんを呼んで叱りつけ三階に移させトロ/\と寝たら誰か其室に入つて来た者がある枕許<まくらもと>に置いた有明灯<ありあけ>〔有明行灯(あんどん)〕は明又滅、薄暗い中を透して見ると奇怪千万、齢若<としわか>い女が悄然<しよんぼり>坐つて居るジツと見て居ると自分の枕許へ来て蚊帳<かや>越しに自分の顔の傍<そば>へ顔を寄せて来る之はと思つて跳ね起きたら誰も居ない夢でゞもあつたらうと復寝ると復来る寝さへすれば出て来るので到頭未<ま>だ夜の明けない内に起きたが其んな事には人に話せないから黙つて居たが其晩他処<よそ>から帰つて婆さんに床は敷いたかと訊<き>くと、『三階に伸べましたと云ふ少々閉口して渋々ながら寝ると果して復出て来た其晩もロクに寝ずじまひで夜が明けると婆さんが旦那は二晩ともロクに御寝<およら>ない様ですがもう今晩からは二階で御寝<おやす>みなさいと勧告したので遂に降参してしまつた後で聞けば其の旅館の主人が妻を虐待して三階の柱に縛<くゝ>りつけ妻は恨を遺して死んだのださうなが未だ其話を聞かないうちに幽霊を見たのだから之も今だに〔未だに〕不審に思つて居る

東京日日新聞 1909(明治42)年8月7日(土)

怪談“豆自動車”【1937.6.22夕 東京朝日】

山本薩夫の撮影隊が伊豆にロケに行く途中、崖から転落寸前の無人の自動車を見付けた。撮影後、一行は温泉宿で同宿になった山本嘉次郎の撮影隊から問題の自動車の運転手は崖下に転落死していたことを知らされる。その晩、同じ部屋に泊った女優2人が共に男に首を絞められる夢を見てうなされた。翌朝、宿の人に尋ねると、そこは自殺があった開かずの部屋だと知らされた。

「怪談“豆自動車”」
両ロケ隊員が
うなされの一夜
惨死の次には自殺の部屋へ
冷汗に湿るカメラ

初夏にふさはしいロケーシヨン綺譚――去る十日のこと、P・C・L〔現・東宝〕の山本薩夫〔映画監督(1910-83)〕組が伊豆ロケに向かふべく深夜の東京をロケ・バスで出発、午前三時頃熱海市門川地内〔正確には門川は神奈川県湯河原町に属する〕

海沿ひの県道

に差かゝると、高さ二尺〔約60センチ〕の石の柵をまたいで、一台の豆自動車〔小型自動車〕がライトをつけつ放しのまゝ停止して居る危機一髪の光景に遭遇した、不審に思つた一同、ヒラリ/\とバスから下りて近付いて見ると先づ目についたのが破損した運転台のガラス、続いて海岸側に開かれたドア、運転台には人影さへも見えない、で、尚よく附近を調べると、背広の上衣<ぎ>と帽子が石の柵の傍に落ちてゐたので、物好きな一同額を集めて評議の末

ともかく事故は事故に違ひあるまい、中央か左側かを走るべきものが、右側の石の柵に

乗りあげてゐる

ところを見ると、運転に馴れない素人か、さもなければ酔払ひだ。きつと自分の手に負へない事故なので、歩いて熱海あたりへ救ひを求めに行つたものだらう

といふことに意見が一致し、「武士は相見互ひ〔同じ立場の者は互いに助け合うべき〕」とばかりライトを消し、ドアを閉め、背広の上衣はたたんで帽子と一緒に車の中へ入れて立去つた、そしてその日の中にロケを終つて下田から○○温泉へまはり、某旅館に落付くとバツタリ出会つたのが同じくロケにやつて来たP・C・Lの山本嘉次郎〔映画監督(1902-74)〕

そして話すこと

に、

今朝八時頃熱海街道に、自殺か他殺か過失か判らぬ事件があつた

といふ、よく聞けばさつきの豆自動車の一件である、嘉次郎組は尚語りつゞけて

あの石の柵の下は百尺〔約30メートル〕余の崖になつてゐて、その下の波打際に一人の青年が死んでゐた、自動車の事故とすれば、過つて〔誤って〕石の柵にのり上げた拍子にドアが開いて墜落したとも考へられるが、それにしてはライトも消えて居り、上衣や帽子もキチンと車の中にあつてどうもをかしい、検視の係官も判断に迷つてゐた――

仰天した薩夫組

の面々、顔見合せて実は斯々<かく/\>しかじかと打開け、ハテ不思議な因縁の巡り合せもあるものと、一同胸に恐れを抱きつゝ寝についた、ところが、その夜も更けたうしみつ時、離れの一室から突如異様なうめき声が聞<きこ>え出した、さつきの一件でスツカリ神経を昂<たか>ぶらせてゐた連中、びつくりして調べてみると、うめきもうめき若い女の、しかも一人は霧立のぼる〔女優(1917-72)〕、一人は山県直代〔女優(1915-)〕のうめき声だ、早速一同ワイワイ集まつて起して見ると、お約束通り両女は

ビツシヨリ冷汗

をかいてゐる、わけを聞けば不思議や二人とも同じ夢を見てゐたのだ、その夢とは――

物凄い形相の男が重く/\のしかゝつて来て首をしめつける、いくら身体を動かさうと思つても動かばこそ――

『そんなことがあるもんか』と笑つた撮影部の元気者が、代つてその離れへ寝て見ると、やつぱり似たやうな夢にうなされて一晩中まんじりとも出来なかつた、翌朝宿の女中にこの事を話すと『やつぱり、さうですか』といふ返事

驚いて詰問する

と、これはしたり、その離れの一室こそ、数年前厭世自殺をした男があつて以来開かずの部屋になつてゐたのを、前夜あまりの満員に、仕方なく使用しました、どうぞお許し下さいと番頭以下総出の陳謝今更呶鳴<どな>つたところが始まらず、一騎当千の面々もほう/\の態<てい>でそこを逃げ出した……といふのである

危機一髪!  山本監督が撮した豆自動車遭難現場
東京朝日新聞 1937(昭和12)年6月22日(火)夕刊