九州

累々たる髑髏【1909.4.25 大阪毎日】

人骨を混ぜた薬を製造販売している疑いで熊本県長洲町の売薬商を警察が捜査した結果、長崎に共犯者がいることが判明、隠した大量の人骨が発見された。骨を保管していた者は毎晩、幽霊の夢にうなされていた。

●累々たる髑髏
人骨製の売薬=夢中の幽霊

熊本県玉名郡長洲町売薬商長谷川折吉の製造販売する売薬楽寿丸には人骨を混ぜ居<を>るやの疑<うたがひ>あり、同地警察署にて捜査の結果長崎に関係者ありて多くの人骨を貯へ居<ゐ>ることを探知し同地梅香崎警察にて探索の結果北村寅吉(水上警察の元小使)七迫孫太郎(強盗前科者)道上作太郎(長崎ホテル元ボーイ)田光喜作(肴小売人)の四名の関係者及び叺<かます>四俵に詰めある人骨(頭蓋骨<とうがいこつ>十九、下肢骨二十)其の他合せて百二十斤〔72キロ〕余を前記七迫方裏の物置小屋より発見し猶別に長洲海岸共同墓地の西の隅にも髑髏百余個を埋葬しある事を発見したり。その中には生々しきものもありし由なり〔/〕

長谷川は三十五年〔明治35(1902)年〕頃より売薬製造を企て当地にて人骨売買の利益多きを聞き長洲海浜墓地が砂地にて発掘に便利なるより北村と謀り<ひそか>に発掘にかゝり田光をして支那人〔中国人〕に売り込ましめんとせしも<うま>く行<ゆ>かず其儘と為<な>しありしに昨年当地県庁敷地にて髑髏発掘事件あり田光は以来恐怖心を生じ毎日幽霊に魘<おそは>発狂せんばかりとなりしより七迫に情を明し骸骨の保管を托したるに不思議にもその家族等<ら>毎夜<まいよ>骸骨の夢を見て眠る事出来如何なる悪徒も困<こう>じ居たる内今回の検挙に遇ひし旨を自白したり昨年県庁敷地より出<いで>しものも長洲地方より持ち来りしとのみにて関係者不明なりしが今回の事件によりその出所を明かにするを得<う>べし(長崎来電)

大阪毎日新聞 明治42(1909)年4月25日・11面

夢によつて危難を免かる【1895.10.24 読売】

霧島山に旅行した鹿児島の呉服商が夢で亡父に似た老人から速やかな帰宅を勧められた。翌朝、呉服商が帰途に就いた後、霧島山が噴火。呉服商は父が危険から守ってくれたと感激した。

●夢によつて危難を免かる

<さる>十六日日向〔宮崎県〕なる霧島山噴火の際登山者の一人<いちにん>にて鹿児島市中町呉服店の主人藤安仲之助といふが霊夢の為危難を免かれたる話を聞くに同人は兼て霧島神社〔霧島神宮〕の参詣旁々<かた/゛\>保養の為此の程より霧島嶽の温泉場に逗留中去る十五日の夜<よ>は昼の入浴<ゆあみ>の疲れを催ほし何時<いつ>ともなく寝床<ふしど>に就きしに夜半と覚しき〔思しき〕我が亡親<なきおや>の面影に似たる白髪の老翁忽然として仲之助の枕辺近く立ち顕はれ、「霧島滞留は身に取て宜しからざることあれば早々<さう/\>郷里に帰るべしと勧めて止まず〔/〕

夢醒めて仲之助は別に心にも止<とゞめ>翌十六日の朝も例に依て其処<そこ>らの温泉に入浴<にふよく>を試み居る際<な>んとなく心地悪しく其上手足まで麻痺するが如く覚えしは此の湯の身体に相応せざるに因るか兎に角不思議の事もあればあるものと心に思案の折こそあれ端なく昨夜の夢に動<うごか>されて益々不思議に堪へず、「僅か夢の為<た>めに進退を決するとにはあらざるも最早<もはや>神詣での事も済み居ればイザ是<こ>れより帰麑<きげい>せん〔鹿児島に帰ろう〕と早々に旅の用意を整へて温泉場を立退きしは早や十六日の午前八九時頃なりしが<それ>より予定の道程<みちのり>を経て正午過ぎ西国分村〔現・鹿児島県霧島市〕浜の市〔浜之市〕に帰着せしや忽ち轟然たる響は天地を動かして行<ゆく>人も為めに歩<ほ>を止めん計<ばか>地震か但しは山の鳴動かと立ち騒ぐ間<ま>もあらせず不図<ふと>東の方<かた>霧島嶽を望めば団々たる黒煙は天を衝<つ>蒸々として立ち上<のぼ>る凄じき有様を見て仲之助は深く前夜の奇夢に感じ、「今の今まで霧島山に在りし此の身が今は安<や>す/\と此地に在るとは夢とは云へ全く亡親の加護に因りたるものにて此の危難を免かれたるも亦<ま>た全く此力に因れりとて痛く心に打ち慶びつゝ間もなく住宅に帰着して見れば家内にても大に同人の身の上を案じ態々<わざ/\>人を差立てたる跡にて其の帰宅を見るや家人は一方<ひとかた>ならず其の無事を祝賀したりと云ふ不思議な事もあるもの哉<かな>

読売新聞 明治28(1895)年10月24日・3面

一種の妖怪病【1894.9.18 読売】

長崎県南高来郡では温泉山に登る際、「だらし」という飢餓病を予防するため握り飯を持つ習わしがある。実際に長崎高校医学部の学生が山中で倒れている男に出会ったり、自分自身、山道で「だらし」に襲われて手足が麻痺したことがあるという。

●一種の妖怪病  長崎県南高来郡〔現・島原市・雲仙市・南島原市〕諸村にては古来温泉山〔雲仙岳〕に登るときは必ず摶飯<むすび>と梅干とを携ふべし梅干は霧を払ふの妙薬にして摶飯は「だらし」を予防するが為<た>めなりとの言ひ習はせあり「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあつて未だ之<これ>を明白に実験したる者あらざりしが長崎高等学校医学部〔第五高等学校医学部(現・長崎大学医学部)〕生徒某氏は自ら之を実験し亦他人がこの怪病に罹るを見たりといふ、〔/〕

其話を聞くに右の学生は此頃暑中休暇を得て帰村せんとする途次右の村と小浜村〔現・雲仙市〕との間なる山中字小田山の頂上矢筈の下手辻<しもてつじ>と称する坂路<さかみち>に於て一人<にん>の男野に倒れ居<を>るを見たり其男学生を見るより<かす>かな声にて「だらし」に罹りて困り居<ゐ>る故摶飯あらば賜はれといふ、学生は兼ねて「だらし」の事を聞き居るを以て用意の摶飯を与へけるに男は喜びて之を食し終れば間もなく力付きて馳<はせ>下れり、〔/〕

さて右の学生が実験したるは去年十二月下旬午后〔午後〕四時頃の冬季休業の為帰村せんとて右の山路<やまみち>に来かゝりしに<たちま>ち空腹となりひもじさ弥増<いやま>して身体の疲労尋常ならず手足麻痺<しび>れてすくみたるが如く一寸〔約3センチ〕も動けず強ひて足を挙ぐれば其重さ千鈞〔18トン〕を曳<ひ>くが如く手を動かせば縛られたるに似たり困じ果てゝ石に腰打<うち>かくれば別に苦痛も感ぜざるが立てば身の重さ少しも減ぜず進退こゝに谷<きは>まりながら叫べども応ずる人なきに是非なく這ふが如くに坂を攀<よ>ぢ登り初め〔始め〕たるが忽ち昏絶倒臥して死生を弁ぜざるもの十数<す>其前<そのぜん>は時候にも似ず全身頗<すこぶ>る熱暖なりしが此時に至り始めて〔初めて〕野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし其れより千辛万苦して僅かばかり離れたる横道の茶店に辿り付き〔着き〕蕎麦<そば>数椀食したれば身心始めて〔初めて〕我に復<かへ>寒きも相応に感ずる如くなりて先<まづ><つゝが>なく郷里に帰着したり〔/〕

<こ>れ即ち「だらし」に取り付かれたるものなるが里俗には何か食物を携へ居<を>れば此魔にかゝからずといへど実際に於ては鰯売りの男が鰯の傍らに昏倒したる例あり其他数人の同行者<どうぎやうしや>が一時に犯されたるの例あり勇怯如何<いかん>に拘<かゝ>はらずといへば神経的の山怪にもあらずと見え結句<つまり>は空腹に乗じて人体内に一種強力の麻痺を与ふる空気の為めなるべしといふ

読売新聞 明治27(1894)年9月18日(火)3面

河童を捕ふ【1895.9.5 読売】

大分県日田郡夜明村の淵で村人が河童のような生き物を捕えたが、間もなく死んだ。

●河童を捕ふ

去月廿四日大分県日田郡夜明村〔現・日田市〕大字関有王神社〔有王社〕の下なる湯巻の淵<つぼ>といふ所にて村民某流木<ながれぎ>の下に小さき声にて頻りに悲鳴するものあるを聞き不審に思ひ件の流木を取退<とりのく>れば赤子の姿に似たるもの潜み居るより恐る/\捕へて蔓<かづら>にて縛り家に持帰りて盥に水を入れ其中<うち>に放ち置きしに程なく死せし由なるが右は丈<たけ>二尺〔約60.6センチ〕<ばか>りありて頭は瓢箪の如く一面赤色の毛生へ顔は人間に類して口尖り歯は鼠に似て稍<やゝ>小さく手足また人間に似て細長く水掻ありて指先は猫の如き爪生へ居るにぞ是全く世にいふ河童ならんと同郡豆田町警察署に持行きしに吉田何某<これ>を買求<かひもとめ>たりといふ

読売新聞 1895(明治28)年9月5日(木)3面

〔熊本で撮られた幽霊写真〕【1883.3.29 読売】

熊本の写真屋で兵士3人の写真を撮ったところ、その場にいない男の上半身が写った。兵士の1人が西南戦争で多数の死体を取り扱ったことから、その亡霊でないかと言われる。近所では幽霊の写真として評判になっている。

○怪力<くわいりよく>乱神〔理性で説明できないもの〕を語るは素<もと>より好まぬ事ながら両三年跡〔2-3年前〕に高輪〔東京都港区〕の坊主が写真を写した処其者の後<うしろ>へ茫然<ぼんやり>と婆さんの姿が写ツて居るをよく/\見ると其以前其坊主に殺された者で有たとかいふ話しを載せた事の有りしが<こゝ>にまた夫<それ>に似寄なるいと奇怪な話しが熊本の紫溟新報〔『熊本日日新聞』の前身の1つ〕に載せて有る〔/〕

其趣きは熊本魚屋町三丁目の写真師松永彦次郎といふ者が今月十四日幽霊の写真を取りしとの噂を紫溟新報の記者が聞き込み同月十八日右の写真師の許<もと>へ噂の実否を聞糺<きゝたゞ>しに趣き<とく>と写真を見られしに其写真は三名の兵卒を写せしものにて其うち一名は帽子を被りしまゝテーブルに凭<よ>跡の二名は椅子に掛ツて居る図にてテーブルに凭ツて立<たツ>て居る兵卒の後の二寸〔約6.1センチ〕ばかり上の処に五分刈の散発頭にて年の頃は三十以下とも覚<おぼ>しき男が左の腕へ白布の様な物(是は西南の役〔西南戦争(1877)〕に鹿児島人が用ひし合印の由)を附けたまゝ胸部<むね>より上がボンヤリと写ツて居り其面体<めんてい>は頬骨高く目眦<まなじり><あが>りて如何にも勢ひの無き顔附をして居るが主人松永の話しに此写真を写した日は水曜日にて天気もよかりしゆゑ兵卒は例の通り五人三人づゝ幾群も遊歩に出た中に其日の午後二時ごろ二人連の兵卒が此松永方へ来て写真を写して居た処へまた一人来て三人一途<いツしよ>に写した処最初位置を定めるとき眼鏡<めがね>にて見た時は何の変りも無く三人の兵卒のみなりしが玻璃板<がらすいた>に写し取ツて暗室へ持ち行き薬を掛て見るとアヽラ怪しや三名の兵卒の外<ほか>に別に一人写ツて居るに驚き、「<かゝ>る珍事を世間に沙汰するは宜しからず写し損ぜしと云ひ今一度写し直すこそ宜<よ>けれと其事は何とも云ず、「唯今のは少し写し損じましたから今一度写<う>つしませうといふを兵卒達はどんな塩梅<あんばい>に写ツたか一寸<ちよツと>見せよと達<た>ツて望むに否み兼ね実は云々<これ/\>と写真を出して見せると兵卒達も不審に思ひ頻りに其写真を見詰めて居る中にも後から一人の兵卒は何か身に覚えの有ると見え深く愧<は>ぢたる顔付にて其まゝ立ち帰りしが<あと>にて聞けば同人は西南の役に鹿児島勢の夫卒<ぶそつ>〔従軍して雑役を行う者〕に出で多くの死骸を取扱ひし事あれば夫等<それら>の亡魂が顕れたのでは有るまいかと云ふ者も有る由夫より続いて三度まで写したが其後は更に異条〔異状〕なかりしとぞ〔/〕

右の一件が早くも近所の取沙汰となり、「幽霊の写真を見せて呉<くれ>とぞろ/\押懸け奪ひ取り合ツて見るうち種板に焼き附<つい>て有る薬を少しばかり剥<はが>幽霊の胸の処を少し消したが其外は依然として未<ま>だ其写真師の許に有<ある>といふ

読売新聞 1883(明治16)年3月29日(木)