夢中に縊死せんとす【1908.3.16 大阪毎日】
愛媛県南宇和郡東外海村の理髪師が夜中に便所で首を吊っているところを妻が発見、一命を取り留めた。理髪師が寝ていると、耳元で誰かに「早く来い」と呼ばれ、家を出たところで記憶は途切れているという。
●夢中に縊死せんとす 人間が夢中で不思議なることをなす話は時々<じゝ>聞く所なるが、茲<こゝ>に夢中に死せんとせし奇談あり。
愛媛県南宇和郡東外海村〔現・愛南町〕、理髪業、岩本音弥(三十九)は暮し向きも貧しからず、夫婦の中〔仲〕も睦まじく、至極楽しき家庭を作り居り、又至て健康にて洒々落々たる男なるに、去る九日午前二時過、寝床を抜け出で、自宅の雪隠にて兵児帯<へこおび>もて縊死せんとし、苦悶せるを寝て居りし妻が不審の物音に目を覚し、夫の居らぬに其処<そこ>か此処<こゝ>かと尋ね、遂に雪隠にて今しも縊首して事切れんとする夫の姿を見て大に驚き、直ちに引下<ひきおろ>して介抱しければ、ヤツト蘇生なしたるが、同人は正気づきて妻より縊首の次第を問はれ、我と我身を疑ふまでに驚き、物語れるには、「何人なるやは定かならぬも、自分の寝て居る耳辺<みゝばた>にて『早く来い』と叫ぶものあるゆゑ、夢中にて何心なく、自宅を出<いで>たるを何でも面白き処へ往くやうな感じがあつたまでは幽かに覚え居るも、其後<そのご>の事は一向、知らず」と言ひ、「危かりし夢なり」と果は笑となりて其後、何事もなく、稼業を働き居ると云ふ。(松山来信)