広島・尾長村の国前寺の宝物に「稲生の妖怪槌」がある。住職によると、この槌は備後三次の武士・稲生武太夫がその豪胆に感心した魔王・山本五郎左衛門から与えられたものだという。
●稲生の妖怪槌
広島の尾長村〔現・広島市〕に東練兵場に接近して国前寺と云ふ日蓮宗の寺がある。往昔は暁忍寺と号したが、其の後<のち>、国前寺と改め、敷地建物一切を浅野家の加賀御前〔加賀藩主・前田利常の娘で広島藩主・浅野光晟の室・満姫〕が寄附されたので、同宗の中<うち>では階級のよい寺院である、此の寺には宝物<はうもつ>が非常に多いが、中にも「稲生の妖怪槌」と云ふのは頗る面白いお伽話的由来のある槌で、二十七、八年の戦役〔日清戦争(1894-95)〕の際、大本営を広島に進転遊ばされて間もなく、浅野侯〔浅野長勲(1842-1937)・侯爵〕の手を経て天覧に供したこともあるが、そもそも、其の槌の由来は代々の住職に言ひ伝へになつて居つて詳細に物語れば、なか/\長く、三十日間、昼夜話しても尽きぬ位ぢやと現住職の疋田英思師はいふ、故に極く簡単に聞くと、次の如くである、〔/〕
備後の三次に稲生武太夫と云ふ武士が居つた、幼名<えうめい>を平太郎と称して幼少の時から奇変を好む大胆者で、十六歳の時、即ち寛延二〔1749〕年七月一日の夜<よ>、三次の北方<ほくはう>にある比熊山の絶頂の千畳敷と云ふ原に友人と共に登つた、此処<ここ>で百物語と云つて化物話を百度すると、妖怪が現れると伝へて居<ゐ>るから、果して事実か否かを確<たしか>めんと妖怪の事を百度話した、ところが妖怪は更に出て来ぬから、家に帰つて寝処<ねどこ>に入<い>ると、直<たゞち>に妖怪が現れた、夫<そ>れから三十日間も夜々〔原文「夜々々<よ/\>」〕種々様々に形を変化<へんげ>して出る、けれども大胆不敵の武太夫は少しも恐れない、妖怪もとうど降伏して同月の晦日<つごもり>の夜、身の丈<たけ>が六尺余<あまり>もある大男となつて、浅黄小紋の裃<かみしも>〔原文は<衣へん+上>と<衣へん+下>の2字〕に帯刀の姿にて現れ、武太夫に向つて云ふには、「我れは三千世界の魔王であつてこれまで諸国を横行し、日本<につぽん>には此度で二度渡り、諸人を悩ましたが、当家に来てから、いろ/\化け変つて出ても貴殿は一向驚く模様がない。貴殿には勝つことが出来ないから、今晩は永々狼藉をした御断りをして立ち退く、自分の名は山本五郎左衛門と申すが、自分と同じ妖怪の王に信野<しなの>悪五郎と云ふものが居る、もし此の者が当家に来て禍害<わざはひ>する時には此の槌を以て西南の縁を三度叩かれよ、自分は即座に来つて悪五郎を退治して見せる。又何時<いつ>でも貴殿の一身が危<あやふ>いときは北方を三度叩かば、多数の護妖怪が現れて貴殿を守護すべし、今此の槌を貴殿に与へて帰るから、自分の帰る模様をよく見られよ」と云つて、庭に下りたと思ふうと、異類異形の怪物が数<す>百匹にて轎<のりもの>を舁<かつ>いで来た、大男はそれに乗るや否や、其内から大なる毛足をぬつと出した、数多<あまた>の怪物はこれを舁いで向ふの家の屋根の上から雲中に去つた、〔/〕
右の槌が即ち妖怪槌と云つて武太夫が生存中は片時も身辺より離さなかつた、ところが此の武太夫は日蓮宗の信者であつたから、死する時、三次の妙栄寺と云ふ国前寺の末寺の住職に遺言して其槌を国前寺に納めたので、宝物として永く保存されてゐるとの事である、今回、同寺にては鐘堂<つりがねだう>を改築した上棟式の祝<いはひ>に十六日より二十三日迄開帳して諸人の縦覧を許して居るが、毎日千人余の縦覧人で中には五里、六里〔約19.6-23.6キロ〕の遠方からわざ/\縦覧に来る人も少<すくな>くない、広島近辺では非常な評判である。
大阪朝日新聞 明治41(1908)年4月21日(火)9面