中国

蛇との恋【1926.7.29 大阪毎日】

下関の蛇商の娘が2匹の蛇を気に入り、日夜抱いていたが、2匹とも死んだ。娘が蛇を葬った裏山に頻繁に行くのを気にした家族が蛇の死骸を別の山に埋めかえると、娘は家出。新たに蛇を葬った場所に座り込んでいた。近所では蛇の死霊が娘に憑いたと噂している。

蛇との恋
蛇屋の娘の
もの狂ひ
死んだ子へびを
抱いて寝る

蛇屋の娘が蛇と恋に陥ちて発狂したといふ嘘のやうな本当の話

下関市田中町蛇商大助長女松山はな(二四)はこれまで降るほどある縁談に耳をかさず日常家業を手伝ってゐたが、いつしか二疋<ひき>の小蛇と馴れ染め昼は懐中に、夜は寝床の中に入れて寝てゐた。〔/〕

ところがこの程二疋の蛇が前後して死んでしまつたので同女は裏山に手厚く葬つた。それからといふものは精神に異状を来し、暇さへあれば裏山に登るので、親達はこれまで死んだ蛇を抱<いだ>いて寝たのを二晩も見たことがあつて心配し遂に廿七日朝同市田中町陸軍火薬庫附近の山に蛇の死骸を埋<うめ>かへたところはなはそのまゝ家出してしまつたので附近のもの総出で捜し廻つたところ、同日夜になつて前記火薬庫の蛇塚の側<そば>に坐りこんでゐたのを発見し連れ帰つた。〔/〕

附近では蛇の死霊が憑いたものであらうと評判してゐるが、蛇との間の性的秘密によるものであるといはれてゐる(下関発)

大阪毎日新聞 大正15(1926)年7月29日・7面

妖怪天井【1892.5.29 読売】

石見・美濃郡益田町の順念寺の庫裡の天井に直径1尺ほどの穴がある。夜、その下で寝る人は皆、夢にうなされるので、「化物天井」と恐れられている。

妖怪<ばけもの>天井  是を井上〔円了(1858-1919)〕文学士にでも聞かせたならば積年蓄へたる脳漿を絞りて研究するならんと思はるゝ怪談は石見国美濃郡〔現・島根県益田市〕益田町に順念寺といへる真宗仏光寺派の寺院あり此寺の庫裏<くり>は随分古き建物なるが<いつ>の頃よりとも知れず奥の間の天井に直径一尺〔約30センチ〕<ばか>りもある朽ちたる穴ありて此穴は先代より遺言<ゆゐげん>にてもあるやらん<かつ>て修理したることなく今尚ほ存在せり常にはさして異状もなけれど夜間此穴の下にて寝に就くものあれば誰彼の差別なく如何に強気<がうき>なるものにても夢に魘<おそ>はれて大声を発せぬはなし或人は是れ神経の作用ならんとて試みしに<ま>た同一の不思議ありしと云ふ〔/〕

さて其の不思議とは如何なることかといふに未だ眠らざる中<うち>は何ともなけれどやがて眠<ねむり>に就くや否や漸々<しだい/\>に遥か高き所に引き上げらるゝ心地し遂に到達する所を知らざるに至る此時心胸将<ま>さに塞<ふさ>がらんとするを耐へ兼て苦悶の余り発声するなりと故に近所の人皆怖ぢ恐れて之<これ>を妖怪天井と称<たゝ>へ居<を>るといふ

読売新聞 明治25(1892)年5月29日(日)3面

他郷の人と婚姻の出来ぬ地方【1892.12.18 読売】

備中・小田郡神島内村の骨皮道通宮に詣でて人を呪えば、その人は必ず病気になるといわれる。万一、道通宮に祈られては困るからと他郷ではその地域の人との婚姻を断る者が多い。

他郷の人と婚姻の出来ぬ地方  備中国小田郡神島内<かうのしまうち>〔現・岡山県笠岡市〕大字横島に鎮坐せる骨皮道通宮<だうつうぐう>と云ふは神威顕著<いやちこ>なる荒神を以て称せられ人に怨みを抱くもの茲所<ここ>に詣で頭髪を修めず爪をきらず以て朝な夕な一心不乱に祈念したる末社傍の樹幹に釘を打込めば其の咀<のろ>はれたる者必ず病に罹り重きは死に至ると言ひ伝へて無念を晴らさんとする者引きも切<きら>〔/〕

<かつ>其の氏子へは特別の加護ありとのことゆゑ<も>し婚嫁の事を他郡村の者に勧むるも他郷の者は頭部<あたま>を横に振り、「横島の人と婚姻するは可なるも万一<まんいつ>破縁の時になり道通宮に祈られては困るとて此を謝絶する者多く其の甚だしきに至りては下婢下男を雇ひ入るゝにも之<これ>を忌む者ありて横島には数多き出稼ぎ人あるも此を抱へる者なしと云ふ

読売新聞 明治25(1892)年12月18日(日)3面

稲生の妖怪槌【1908.4.21 大阪朝日】

広島・尾長村の国前寺の宝物に「稲生の妖怪槌」がある。住職によると、この槌は備後三次の武士・稲生武太夫がその豪胆に感心した魔王・山本五郎左衛門から与えられたものだという。

●稲生の妖怪槌

広島の尾長村〔現・広島市〕に東練兵場に接近して国前寺と云ふ日蓮宗の寺がある往昔は暁忍寺と号したが其の後<のち>国前寺と改め敷地建物一切を浅野家の加賀御前〔加賀藩主・前田利常の娘で広島藩主・浅野光晟の室・満姫〕が寄附されたので、同宗の中<うち>では階級のよい寺院である、此の寺には宝物<はうもつ>が非常に多いが中にも「稲生の妖怪槌」と云ふのは頗る面白いお伽話的由来のある槌で、二十七八年の戦役〔日清戦争(1894-95)〕の際大本営を広島に進転遊ばされて間もなく、浅野侯〔浅野長勲(1842-1937)・侯爵〕の手を経て天覧に供したこともあるがそもそも、其の槌の由来は代々の住職に言ひ伝へになつて居つて詳細に物語ればなか/\長く三十日間昼夜話しても尽きぬ位ぢやと現住職の疋田英思師はいふ、故に極く簡単に聞くと次の如くである、〔/〕

備後の三次に稲生武太夫と云ふ武士が居つた、幼名<えうめい>を平太郎と称して幼少の時から奇変を好む大胆者で十六歳の時即ち寛延二〔1749〕年七月一日の夜<よ>、三次の北方<ほくはう>にある比熊山の絶頂の千畳敷と云ふ原に友人と共に登つた、此処<ここ>で百物語と云つて化物話を百度すると妖怪が現れると伝へて居<ゐ>るから果して事実か否かを確<たしか>めんと妖怪の事を百度話した、ところが妖怪は更に出て来ぬから家に帰つて寝処<ねどこ>に入<い>ると<たゞち>に妖怪が現れた、夫<そ>れから三十日間も夜々〔原文「夜々々<よ/\>」〕種々様々に形を変化<へんげ>して出る、けれども大胆不敵の武太夫は少しも恐れない、妖怪もとうど降伏して同月の晦日<つごもり>の夜身の丈<たけ>が六尺余<あまり>もある大男となつて、浅黄小紋の裃<かみしも>〔原文は<衣へん+上>と<衣へん+下>の2字〕に帯刀の姿にて現れ武太夫に向つて云ふには、我れは三千世界の魔王であつてこれまで諸国を横行し日本<につぽん>には此度で二度渡り諸人を悩ましたが当家に来てから、いろ/\化け変つて出ても貴殿は一向驚く模様がない貴殿には勝つことが出来ないから、今晩は永々狼藉をした御断りをして立ち退く、自分の名は山本五郎左衛門と申すが、自分と同じ妖怪の王に信野<しなの>悪五郎と云ふものが居る、もし此の者が当家に来て禍害<わざはひ>する時には此の槌を以て西南の縁を三度叩かれよ、自分は即座に来つて悪五郎を退治して見せる又何時<いつ>でも貴殿の一身が危<あやふ>いときは北方を三度叩かば多数の護妖怪が現れて貴殿を守護すべし、今此の槌を貴殿に与へて帰るから自分の帰る模様をよく見られよと云つて、庭に下りたと思ふうと異類異形の怪物が数<す>百匹にて轎<のりもの>を舁<かつ>いで来た、大男はそれに乗るや否や其内から大なる毛足をぬつと出した、数多<あまた>の怪物はこれを舁いで向ふの家の屋根の上から雲中に去つた、〔/〕

右の槌が即ち妖怪槌と云つて武太夫が生存中は片時も身辺より離さなかつた、ところが此の武太夫は日蓮宗の信者であつたから死する時、三次の妙栄寺と云ふ国前寺の末寺の住職に遺言して其槌を国前寺に納めたので宝物として永く保存されてゐるとの事である、今回同寺にては鐘堂<つりがねだう>を改築した上棟式の祝<いはひ>に十六日より二十三日迄開帳して諸人の縦覧を許して居るが、毎日千人余の縦覧人で中には五里六里〔約19.6-23.6キロ〕の遠方からわざ/\縦覧に来る人も少<すくな>くない、広島近辺では非常な評判である

大阪朝日新聞 明治41(1908)年4月21日(火)9面

ポストと幽霊【1900.2.10 東京朝日】

山口で老婆が継子から虐待を受け、恨みを抱いて死んだ。その夜から近くのポストに老婆の幽霊が現れるようになったという。

▲ポストと幽霊 周防〔山口県〕山口の鰐石橋<わにいしばし>際に郵便切手売下をなす某なるものあり今年八十歳の継母<けいぼ>を虐待すること甚だしく継母は為<た>めに恨<うらみ>を呑んで死去せしが其夜<そのよ>より橋際のポストに老母の幽霊現はれ通行人も夜此処<こゝ>を通るものなしと幽霊も開化してポストより現はるゝに至る

東京朝日新聞 1900(明治33)年2月10日(土)3面 (「条風軽暖」より)

乃木大将の妖怪談【1909.8.7 東京日日】

学習院長・乃木希典は生徒に乞われ、妖怪に出逢った2度の体験について話した。1つは少年時代、深夜の萩の山道を歩く女を見たことで、後ろから追い越すと、消えて再び前方に姿を現した。もう1つは軍務で金沢の宿屋に泊まったときのこと。3階で寝ようとすると、枕元に若い女が現れて眠れない。後で聞くと、宿屋の主人の妻が3階で虐待されて死んだという。

乃木大将の妖怪談
△今までに二度出遭つた

学習院長伯爵乃木〔希典(1849-1912)〕大将が昨年来院内官舎に生徒と共に起臥し生徒を愛撫すること慈母の赤子に於けるが如きものあることは徧<あまね>く世に知られて居る事実だが生徒の方でも大将を敬慕し宛然<まるで>御父さんの様に考へて居ると見えて院長々々と附き纏<まと>〔/〕

つい先き頃の事だが一生徒が何処<どこ>で聞いて来たか大将は昔妖怪に出遭つたことがあるさうだと云ひ出したので寄宿生談話会のをり大将に其の話をして下さいと懇望した大将はさう/\若い時に其<そ>んな事もあつたよと徐<しづか>に語り出でたのは玉井山上の妖怪 一件で在た「自分は今でこそ余り恐<こは>いなどゝ思ふ事はないが少年時代には非常に臆病で朋友<ともだち>にも屡々<しば/\>侮られた程であつた何でも十五六の頃其時は尚<まだ>長門〔山口県〕の萩に居たが一夜<あるよ><にわ>かの用事で七八里〔約27-31キロ〕<へだゝ>つた町まで使を命ぜられた<いや>とも云はれんから恐々ながら一人夜道を辿つて玉井山まで行つたのは草木も眠る丑満時山気身に迫つて肌<はだへ>に粟を生じ風は全く落ちて動くものは樹<こ>の間<ま>を洩<も>る星の瞬きと自分許<ばか>心細くもトボ/\と猶山深く入<は>いつて行くと濃い靄が一面に降りて咫尺<しせき>も弁じなくなつた〔すぐ近くのものも見分けられなくなった〕<こ>れは困つたと思つて捜<さぐ>り足で進んで行く内突然自分の前一二間〔約1.8-3.6メートル〕<はな>れた処に蛇の目の傘を翳<さ>白足袋を穿<は>いた女がヌツと現はれた咫尺も弁ぜずと云ふ濃い靄の中で其の傘と白足袋だけが瞭然<はつきり>見えるのだから之は心の迷か狐狸の悪戯<いたづら>何にしても真実<ほんとう>の人間ではあるまいと身構へして右の方に避けて通らうとする其の女は傘で上半身を隠したまゝ行き違つてフツと消えてしまつた不思議な事もあるものと恐<おそろし>くなつて道を急いだが少時<しばらく>すると<また>其の女が自分の前へ現はれ今度も前の通り行き違ふやフツと消えた今になつても彼<あれ>は何<ど>う云ふ物か或は何うして見えたのか判らないで実に不思議だと思つて居る〔/〕

それからもう一度之は大分後だが軍務を帯びて加賀〔石川県〕の金沢へ行つた時三層楼の妖美人 に二日続けて悩まされたことがある其時泊つたのは三階建の宿屋で自分は見晴しの好い三階座敷に陣取つた<さて><よ>に入つて床を敷けと云ふと老人の下婢が二階に伸べてございますと云ふから変なことをすると思つてデは今夜は二階で寝るが明日の晩は三階に敷いて呉れと頼んで其晩は寝たところが其の翌晩も依然二階に床を伸べたので之は夜具を三階に運ぶのが辛いからであらうと婆さんを呼んで叱りつけ三階に移させトロ/\と寝たら誰か其室に入つて来た者がある枕許<まくらもと>に置いた有明灯<ありあけ>〔有明行灯(あんどん)〕は明又滅、薄暗い中を透して見ると奇怪千万、齢若<としわか>い女が悄然<しよんぼり>坐つて居るジツと見て居ると自分の枕許へ来て蚊帳<かや>越しに自分の顔の傍<そば>へ顔を寄せて来る之はと思つて跳ね起きたら誰も居ない夢でゞもあつたらうと復寝ると復来る寝さへすれば出て来るので到頭未<ま>だ夜の明けない内に起きたが其んな事には人に話せないから黙つて居たが其晩他処<よそ>から帰つて婆さんに床は敷いたかと訊<き>くと、『三階に伸べましたと云ふ少々閉口して渋々ながら寝ると果して復出て来た其晩もロクに寝ずじまひで夜が明けると婆さんが旦那は二晩ともロクに御寝<およら>ない様ですがもう今晩からは二階で御寝<おやす>みなさいと勧告したので遂に降参してしまつた後で聞けば其の旅館の主人が妻を虐待して三階の柱に縛<くゝ>りつけ妻は恨を遺して死んだのださうなが未だ其話を聞かないうちに幽霊を見たのだから之も今だに〔未だに〕不審に思つて居る

東京日日新聞 1909(明治42)年8月7日(土)

小倉沖の怪火【1913.1.16 都】

福岡県小倉沖に毎晩怪火が見えると山口県下で評判になっている。原因は溶鉱炉の火、佐々木巌流の怨霊、リン酸と諸説あるものの、不明。

●小倉沖の怪火<あやしび>  去る七日以降毎夕七時頃より未明にかけて福岡県小倉〔北九州市小倉北区〕方面より一団の大怪火<くわいくわ>顕はれてフラ/\と東西に浮動し間もなく煙<けむ>の如く消滅するを山口県山口町〔現・山口市〕附近及び厚狭郡<あつさごほり>宇部村〔現・宇部市〕方面より望見し得<う>べく山口県庁雇員及<および>宇部警察署員も之<これ>を実見したるが、「製鉄所の溶鉱炉の火煙ならんと云ひ、「厳流島〔巌流島。下関市の船島〕取除<とりよ>け工事の為<た>佐々木厳流〔巌流、通称・小次郎(?‐1612)〕の怨霊ならんと担ぐ老人あり、「気候上の関係より燐酸の燃焼するものなりとも云ひ浮説紛々兎も角山口県下を通じて専ら話の種となり毎夜望遠鏡を取出して騒ぐ者多きが正体不明

都新聞 1913(大正2)年1月16日(木)