関東

伊香保のお化【1929.9.7 読売】

6代・尾上梅幸と15代・市村羽左衛門が伊香保に行った。2人と懇意の婦人も行きたがったが、重病で同伴できなかった。梅幸や羽左衛門らがいる伊香保の旅館の部屋に婦人が姿を現したが、無言のまま出ていった。どこに行ったか旅館の中を探していると、東京から婦人の死を知らせる電報が届いた。

伊香保のお
梅幸羽左が麻雀の最中
戸を開けて返事せぬ人

伊香保〔群馬県渋川市〕にゐる梅幸〔6代・尾上梅幸(1870-1934)〕の部屋にお化けが出た凄話?がある、お化の本家音羽屋だからお化も親類つき合だらう位に笑つてもゐられない実話毎年梅幸や羽左衛門〔15代・市村羽左衛門(1874-1945)〕が伊香保に行く時に必ず誘ふ武桑といふ婦人がゐる

ところが| 今年は七月の半<なかば>頃から身体の具合が悪く音羽やの一行と同伴することが出来なかつた、羽左が、伊香保は不便だから俺の別荘にでも来てゐたらどうだと暗に沼津行<ゆき>を勧めたが、武桑さんは市村さんと寺島〔尾上梅幸の本姓〕さんと揃つて遊んでゐる所でもう一度遊びたいと大変心細いことをいつたり、年が年だからね、と大分悲観してゐるので力づけて別れ、八月となつて羽左が伊香保に行くといふ事を聞いて武桑さんは大変行きたがつたが病が段々重くなるので行かれず羽左に

言伝やら| 梅幸に土産物を届けるやらして病床に伊香保からの画<ゑ>ハガキを列<なら>べて自ら慰めてゐた、すると廿四日に容態が急変して死んで終つた、そんなことゝは知らないで千明では梅幸羽左、孝次郎など、麻雀大会を催してゐると障子が明いて〔開いて〕武桑さんが無言の儘元気のない顔で這入つて来た、梅幸が目敏く見付て、やあよく来たね、と言へば羽左が顔色が悪いぜ、と言つても一向に返事をしない、さうしてスウツとまた障子を閉めて廊下に

出たので| 梅幸夫人のお藤さんが後を追ふともう影も形も見えない、家中探してゐる所へ東京から電報で武桑さんの死を知らせて来たので一同は、ウムでは先刻のは……に女連は桑原々々と慄上<あが>つた音羽好みの湯治場の怪

(写真は梅幸)

読売新聞 昭和4(1929)年9月7日・10面

迷信から他人の娘を殺す【1908.12.26 東京日日】

横浜に住む少女が奉公先で病気にかかったが、迷信家の主人は祈祷を受けさせるばかり。母親が連れ帰ったときには治療は手遅れだった。少女は突然、自分は「おちか稲荷」だと名乗り、母に作らせた握り飯をつかんだまま亡くなった。

●迷信から他人の娘を
△握飯を掴んで絶息

横浜市神奈川青木町三千六百十七番地駒形辰五郎内縁の妻道正おまさの連子<つれこ>お園(十六)は同市花咲町五丁目七十三番地成瀬お豊(四十一)方へ五ケ年の年期〔年季〕奉公を為し去る八月にて年明<ねんあ>けとなりしかば明年<みやうねん>一月十五日までのつもりにて礼奉公を為し居たるに本月十二日頃より不図<ふと>病気に罹りしに主人お豊は大の迷信家にてお園も何時<いつ>しか其の感化を受け居<を>る為<た>病気に為りても医師に診て貰はんとは為さず日頃信仰せる中山鬼子母神<きじぼじん>に詣<もう>でゝ祈祷を受けたるが一向御利益なきよりお豊は大<おほい>に心配し<かね>て懇意にせる相生町五丁目人力車夫森田力蔵妻お鹿(三十三)に相談せるに同人は日頃信仰せる妙法経弁財天を守護神に戴かせ更に弁財天様の御託宣なりとて柳の枝、松の枝、艾<もぐさ>、燈心〔燈心草、イグサ〕、土筆<つくし>外二品<しな>を五合〔約902ミリリットル〕の水に煎じ詰めて飲ませ居<ゐ>たるが<こ>れ亦一向御利益なかりしかばお豊は十九日に至りて親元に知らせ遣<や>りたるに母のおまさは大に驚き<たゞち>に見舞に来りお園の窶<やつ>れたる姿を見て之れは容易ならざる事なれば一刻も捨て置く可<べ>からずと無理からお園を連れ帰りて平沼町の女医太田繁子に診察せしめたるに、「肺結核、腎臓結核、盲腸炎等を併発し居<を>りて最早治療<ぢれう>期を失したりとの事に尚念の為め最寄の平松医師にも診察を請ひたるが之れ亦同様の見立にて折角の治療も其の効なく遂に廿二日午後十時頃死亡したるがお園は死際<しにぎわ>に臨み俄に声を立て「我はおちか稲荷なるが只今帰る故梯子<はしご>の下に握り飯十個と菜漬を供へて呉<く>れ」と言ひしかばおまさは薄気味悪く思ひながらも「お飯<はん>は冷飯<ひやめし>でなければ無い」と言ひしにお園は「冷飯でも可<よ>し」と強いて頼むより余儀なく言ふが儘に握飯を作りて梯子の下に置きたるに斯くと見たるお園は俄破<がば>と起き上がりて二間〔約3.6メートル〕<ばか>り距<へだゝ>りたる梯子の下に駈行き握飯を両手に一個宛<づゝ>掴みたるまゝ敢なき最後を遂げたる由にて此の事遂に戸部署の耳に入<い>係官出張して一応お園の死体を検案し死因に就きては他動的の疑はしき点なかりしもお豊お鹿の両人は迷信よりお園の治療期を失せしめたる廉に依り本署に召喚して目下取調中なりと

東京日日新聞 明治41(1908)年12月26日・7面

『八幡の藪知らず』に入りたちまち気違ひとなる!【1930.9.20 読売】

神戸から来た男が千葉県八幡町の「八幡の藪知らず」に入り、竹を切って出て来ると、大声で訳の分からないことを叫んで暴れ出した。

『八幡の藪知らず』に入り
たちまち気違ひとなる!
昭和の世にテモ奇怪なグロ物語

【船橋電話】 水戸黄門記で馴染の深い例の千葉県八幡町〔現・市川市〕の竹藪『八幡の藪しらず』入<いり>込んで忽ち気違ひになつて仕舞つたと云ふグロテスクな物語――

▽……

主人公は神戸市菅原通り二ノ一四浅野銀二(四五)と云ふ男、十九日午後五時ごろ突然藪前の茶店に現れて『入らずの藪だなんてソンナ馬鹿/\しい事があるものか、俺が入<はい>つて見せてやる』と折柄<をりから>付近町民が『祟りが恐ろしいから止<や>めよ』と止<とゞ>めるのも聞かず、手斧を片手に七五三〔しめ〕縄を切って入<い>り込み十四五本の竹を斬って間もなく出て来たと思ひきや、急に頓狂な声を張り上げて『ヤイ誰だ、入らずの藪なんかへ入<はい>り込む奴は』と付近の田中勝次方へ駈け込み大声で訳のわからない事を呶鳴りながら暴れ出すと云ふ有様

読売新聞 昭和5(1930)年9月20日・7面

京浜電車と狸の怪【1910.6.16 東京朝日】

京浜電車が新子安・生麦間を疾走中、そこにあるはずのない信号が赤くともったので、急停車した。同じ場所で数年前に得体の知れない赤色信号が現れて衝突事故が起きており、今回も付近に棲む同じタヌキのいたずらとされた。

京浜電車と狸の怪

一昨夜十一時半川崎停留場を発せる京浜電車が今しも新子安〔横浜市〕と生麦との間を驀然<まつしぐら>に疾走中忽ち前方に当つて赤色信号灯現れ危険を報ずるにぞ運転手は怪しみながらも急ぎ停車せし折柄<をりがら>併行せる彼方の線路を東海道行列車が轟然たる響を残して通過すと見る間に先の赤灯は忽然として影を失ひたる為<た>電車は無事神奈川に着せるが数年前<すねんぜん>にも為体<ゐたい>の知れぬ赤色信号が今回と殆んど同一場所に現れし為に後方より疾走し来れる電車が前方に停留中の電車に衝突し意外の惨禍を生じたる事あり当時右の怪灯は附近に棲<す>める狸の所為と判明せる事あり今回も恐らく同一狸の悪戯<いたずら>ならんと評定一決し近く之<これ>が退治を試むる筈なりと云ふ

東京朝日新聞 明治43(1910)年6月16日・5面

汽車に触る【1889.4.27 都】

東京へ向かう東北鉄道の汽車の行く手を向こうからも汽車が走ってきた。上り列車の機関手が衝突覚悟で進むと、車輪に何か触れた衝撃とともに目前の汽車は消えた。翌日、調べると、大狸2匹が轢死していた。

●汽車に触<ふれ>る  東北鉄道の汽車が一昨日<をとゝひ>の夜<よ>に入り東京<とうけい>の方<かた>へ勢ひよく進行せしに<こ>は如何に東京の方<はう>よりも亦汽笛を鳴<なら>して走り来る汽車があるゆゑ機関手は驚き急に運転を緩めたるに先から来た汽車も亦運転を止<とゞ>めし容子<ようす>なれば此方<こなた>では不審に思ひ、「此辺にて行逢ふ筈はないが如何なる事かとて一度<たび>は猶予したれど、「<かく>ては果<はて>と衝突する覚悟にて再び速力を強くせしに何か車輪に触たりと思ふ間<ま>に今までありしと見えし下りの汽車はかき消す如く失<うせ>たるにぞ後は滞りなく無事に着京せしが昨日になつて彼<か>の容子を聞けば前夜車輪に触たのは年経<としふ>る大狸が二疋にて何<いづ>れも寸断々々<ずだ/\/\>になつて死んで居た由這は如何なる理由のある事かは知らねど兎に角聞得たる儘を

都新聞 明治22(1889)年4月27日・3面

古狸の圧死【1889.4.27 東京日日】

上野発の汽車が桶川の手前で前方から来る列車に出会った。向かってくる列車が朦朧としているので、思い切って走り抜けたら、雲散霧消した。線路には2頭のタヌキが轢死していた。

○古狸の圧死  此程の事とか上野発の汽車が夜に入りて桶川の手前に差掛る時前面より汽笛を鳴らして同線路を進み来る列車あり 此方の機関手は驚きて急ぎ運転の速力を緩め烈しく汽笛を鳴らしたるに先の汽車も同様の事を為し頻りに汽笛を鳴らしたりされども目に近く見ゆる列車は遂に此方に近寄らず猶目を定めて熟く〔よく〕視れば其車有るが如く無きが如く糢糊朦朧の裏〔内〕にある如くなれば〔さて〕こそと汽力を速めて先の車に衝突する如く駛り〔走り〕掛しに彼の車忽ち煙の如く消て迹方〔跡形〕もなくなりぬ〔/〕

然るに其跡にて線路を見るに大さ狗〔犬〕程なる古狸二頭軌道に引れて死してあり 忌々しき奴かなとて其皮を剥ぎ肉は狸汁にしてシテ遣りたりとか何やら昔噺に有りさうなる話なれども実説なりとて同地より報知の儘を記す

東京日日新聞 明治22(1889)年4月27日・6面

写真に映る娘の姿【1920.4.7 都】

栃木県鹿沼近くに住む夫婦が一人娘を東京の女学校に入学させたが、娘は流行性感冒で病死。悲しみの余り母が病床に就くと、父親の夢に娘が現れて写真を撮るように言った。父が写真屋で写真を撮ると、背後に娘の幽霊が映っていた。

写真に映る娘の姿
◇父親は金光教<こんくわうけう>の大の信者
◇死だ娘が写真にあり/\

◇日光線に鹿沼<かぬま>と云ふ駅がある其処<そこ>から約一里〔約3.9キロ〕ばかり離れた小さな一部落に山本道太郎といふ非常に熱心な昔気質<むかしかたぎ>の金光教の信者夫婦があつた二人の仲には十八になる可愛い/\たつた一粒種の娘がゐた

◇田舎の学校を出た丈<だ>けであたら年頃の娘を土くさく老い朽ちさせるのは余りに惨めらしいと思つて夫婦のものは娘の望みに任せて花の東京は或る女学校に入学さした

◇ところが勉強中の娘は昨年の秋流行性感冒に襲はれて薬餌の人となり永い/\床<とこ>に就いた<これ>を聞いた両親は交<かは>る/゛\毎日のやうに一里余の道も遠しとせずに鹿沼の教会(金光教の)へ参詣して只管<ひたすら>娘の恢復<くわいふく>を祈った、けれども病は日に増<まし>つのつて遂々<とう/\>花の蕾<つぼみ>は開かずに落葉の風に散つて了<しま>つた

◇危篤と云ふ電報を握つて一時は悲嘆の泪<なみだ>にくれた父親は先づ取るものも取り敢ずに走る列車もゝどかしいばかりに東京へ来て娘の下宿を訪ねたが娘にはさうした父親の心も通ぜずに冷たく/\息の根は絶へてゐた

◇父親は娘の骨壺を抱へて郷里<くに>に帰つたが、涙痕未だ乾かざるに家には更に新しい愁<かなし>みを加へた、それは妻が娘の死をあまりに悲しんだせいか遂に病床に横はつて呻吟しつゝあるに遇<あ>ふた

◇妻は病臥しながらも天地金の神即ち金光さまを念じて夢でなりとも娘の顔を今一ぺん見たいものと深く祈つた或夜の事父親は娘が「おとうさん貴郎<あなた>が写真を撮て下さいさうすると私が顕<あら>はれますから<そ>れをお母さんに見せて下さい」と云つた夢を見た

◇翌日父親はその如く鹿沼の町へ写真を撮りに行つて写真屋には「どんな異変があるにしても決して驚かずに撮てくれ」と頼んだが別段な事もなかつた夫れから四五日を経て写真屋が顔を青くして飛び込んで来「どうも此写真は夫思議〔不思議〕でなりません貴方<あなた>が娘さんの幽霊を脊負<せお>つてゐます

都新聞 大正9(1920)年4月7日・5面

幽霊の袖夜叉の腕【1890.7.28 大阪毎日】

下総国岡田郡飯沼村の弘経寺の宝物に夜叉の腕と累の幽霊の袖がある。夜叉の腕は、亡くなった老婆の棺をおおった黒雲を住職・祐天が打ち払うと、魔獣の腕が残っていたもの。幽霊の袖は、累の幽霊が祐天の枕もとに現れたときに残したものだという。

●幽霊の袖夜叉の腕  下総国岡田郡<ごほり>飯沼村〔現・茨城県常総市〕弘経寺と云へるは名僧良肇の開基に係り<かさね>物語の演劇<しばゐ>で名高き絹川〔鬼怒川〕堤の上に在り徳川時代には累の郷里<さと>なる埴生〔羽生〕村の隣邑<となりむら>にして有名なる天樹院夫人〔千姫(1597-1666)〕(徳川家康〔(1543-1616)〕の孫女<そんぢよ>にして豊臣秀頼〔(1593-1615)〕へ嫁ぎし人)の墳墓も茲<こゝ>に在り徳川時代には寺領若干<そくばく>を下<くだし>賜はられ近国に名高き巨刹<おほてら>なるが祐天〔(1637-1718)〕上人曽て此寺に住職たりしことありて当時の遺物甚だ多く<これ>を宝物<はうぶつ>として秘蔵し毎年<まいねん>暑中に一度土用干<ぼし>を為し衆庶の縦覧を許す事なるが中に就て不思議なるは夜叉の腕と累が振袖の袂なり、〔/〕

此夜叉の腕は其近郷上蛇村に一老悪婆ありしが其死するや罪業深きが故に夜叉の為<た>めに屍<しがい>を奪ひ去らるゝならんとて人々之を危ぶみければ其親族共祐天上人の道徳高きを聞き上人の許<もと>に行<ゆ>偏に救助を乞ひたりければ上人之を諾<うべ>なひ行いて引導を渡し<ま>さに葬らんとして野辺の送を為さんとするに及び今まで晴れ渡りし空が遽<には>かに掻き曇り見る/\黒雲<こくうん>舞ひ下りて死者の棺<くわん>を蔽はんとするや人々<あつ>と叫びて大地に倒れ伏したるに上人は夫<そ>れと見るより棺の上に法衣を振りかけ手に持てる珠数もて彼の黒雲を打払ひたるに名僧の功徳不思議や雲は空に舞ひ上<あが>りしが跡に打落<うちおと>されしは図面の如き何<な>んとも名の附難き魔獣の腕なりしかば人々伝へて夜叉の腕なりと唱へしとか、又絹川与右衛門の妻累の幽霊が一夜<あるよ>上人の枕元に見<あら>はれし時残したるものなりとか〔/〕

今年も土用干とて件<くだん>の品々を陳列したるを見るに如何様何の腕やら知らねども唯の獣のとは思はれず幽霊の袖、夜叉の腕コンな物が果して世に在る訳のものか兎に角お慰み迄に一寸<ちよつと>絵様<ゑやう>を――と彼地の知人より遙々の寄書

大阪毎日新聞 明治23(1890)年7月28日(月)2面

幽霊の映れる珍写真【1912.10.25 東京毎夕】

僧侶の後ろに幽霊が写った写真がある。持ち主によると、写真は横浜で撮影されたもの。僧侶は元紀州藩士の商人で、不義の疑いから無実の妾を斬殺、それを後悔して出家したという。

◎幽霊の映れる珍写真
丸山作楽=吉村春樹=宮地厳夫=物集<もづめ>高見

幽霊が歴々<あり/\>と写真に映写されたといふ珍聞を耳にしたので記者は真偽を慥<たしか>む可<べ>深川区〔現・東京都江東区〕西大工町天地大教院前羽清観氏を訪ふ氏は其写真の持主で其伝説に就いて頗る神秘的の話をされた

怪又怪 無形の幽霊が写真に映ずるといふことが既に奇怪なる上に<こ>んな例は随分無いでもない<そ>れは従来写真の種板が甚<はな>はだ乏しかつた時代一旦写した種板を洗滌〔洗浄〕して撮影を試みた場合に什麼<どう>かすると前の真影が幾分朦朧と残つてゐて夫れが写るといふのであるが此写真は其<そ>うでないから最も刮目せねばならぬ怪の怪といはねばならぬ

写真の伝来 此写真は有名な国学家故丸山作楽〔(1840-99)〕氏から神宮奉斎会伊勢度会<わたらひ>本部長吉村春樹〔(1842-?)〕氏の手に移り夫から宮内省勤務の宮地厳夫〔(1846-1918)〕氏の手を経て物集〔高見(1847-1928)〕博士の考見を経たものである吉村氏の手に移つた時にも種々原因を調<し>らべて科学的考証を凝らしたけれど什麼も得<う>る所がなかつた唯不思議とのみ今に何等<なんら>明瞭の解決を得ない撮影した写真師は横浜伊勢山の三田弥一といふ男で写真中の僧侶は今は高野山にゐる木本朴堂といふ男ださうな

妾の姦通 この木本は素<もと>紀州藩の馬廻役であつた所が維新後商に帰し財産も可成りあつて何不足なく暮らしてゐた妻をお清といひ妾をお初といつて家内に風波もなく納まつて〔収まって〕行く中<うち>不図<ふと>お初が馬丁の何某と不義の契りを結むだといふことを讒言したものがあつたので木本は非常に立腹し充分の調べもせず或晩泥酔の上秘蔵の一刀<た>しか兼光とかいつたソレデ一太刀お初した<ゑひ>が醒めて調べてみると全然お初の姦通は跡方〔跡形〕もない話だといふことが判つたので非常に後悔をして出家遁世を志し菩提を弔ふ為<た>め高野山に上<のぼ>頭を丸めて僧籍に投じ其後<そのご>程ヶ谷〔保土ヶ谷〕の天徳院へ来た折前記の三田で撮影したのが此写真であると前羽氏は語つてゐた何と天下の大珍事ではないか

東京毎夕新聞 1912(大正1)年10月25日(金)2面

〔住職の写真に新仏の姿〕【1879.1.14 かなよみ】

保土ケ谷の寺の住職が横浜で写真を撮った。現像すると、後ろにぼんやり女の姿が写っている。写真を見た住職は青ざめた顔で「これは最近亡くなって自分の手で供養した女だ」と語った。

○然も開化の真ツ魁<さきがけ>横浜港に似合ぬ怪談きゝこんだまゝ書載<かきのせ>ますが多分誤聞でありませう〔/〕

三日跡〔2-3日前〕同港宮崎町「伊勢山」の写真師三田菊次郎方へ来た保土ケ谷駅の天徳院の住職何某はガラス撮<どり>を頼みたいといふので主個<あるじ>は承知と支度をして例の暗室へ這入<はひり>やがて写してニスをかけ<すか>して見るとこれは不思議和尚の後ろへ忙然<ぼんやり>と女の姿が写<うつゝ>たので三田は不審に思つたが大かた後ろから隣りの神さんでも覗いたのだらうとさのみ心に掛ずに居ると和尚は頻りと聞咎め、「見せてくれろと頼むからガラスを渡すと見て吃驚<びつくり>。「実にこれは稀妙<きたい>/\此女は一昨夜近村から参つた新仏<しんほとけ>然も愚僧が香剃<かうそり>〔死者に剃髪のまねごとをして戒名を授けること〕を致してよく存じて居る<それ>が一所〔一緒〕に写たは何か因縁のあることかと流石<さすが>の和尚も色青ざめそこ/\にして帰つたが此三田先生は有名の開化人更に信じては居られぬが<も>しほんとうなら所謂<いはゆる>理外の理とでも言ふかと或る人が話されました

かなよみ 1879(明治12)年1月14日(火)1面