”やどかり“首相に漸く安住の官邸【東京朝日 1936.4.29】
五・一五事件、二・二六事件と凶変が続く魔の首相官邸日本間を避け、広田弘毅首相が外相官邸を占領。その余波で外相は外務次官官邸を占領、次官は官邸に入れない羽目に。問題を解決するべく、首相官邸日本間は事務室に改装、官邸構内に首相居宅を新築することにした。
五・一五から二・二六に続く嵐で血に染んだ魔の首相官邸を避けて、外相官邸に借家住ひの仮寝をしてゐる広田〔弘毅(1878-1948)〕首相のために、安住の居をどうする?といふ問題は政府の悩みだつたが、いよ/\来る特別議会に十万円の官邸建設予算が提出され、現在の首相官邸内の一隅、眺望絶佳の場所に瀟洒な日本風の首相居宅を新築しようといふことになつた【写真は首相官邸あかずの日本間】
非常時内閣の広田総理があわたゞしかつたあの組閣の当初から住み慣れた三年町〔東京都千代田区〕の外相官邸にどつかと腰を据ゑてからといふもの、あの一角に当然捲起つて来たのがトコロテン的『官邸難』の
問題 だつた、つまり外相官邸を首相に占領されて仕舞つた有田〔八郎(1884-1965)〕外相は、つい間に合せに外務次官官邸を占領したが、外相就任には付きものゝ公式な大レセプシヨンは手狭な次官官邸ではとても出来ないとあつて未だにそれもやらないでゐる始末。一方新たに次官になつた堀内〔謙介(1886-1979)〕前アメリカ局長はこれ又自分に当然あてがはれてゐる次官官邸の桜も今年はつひに鑑賞せず終ひで、やむを得ず私邸にくすぶつてゐるといふわけ。
そこでこの間に立つて一番官邸難を気にしてゐたのは総理自身で、自分の経験からしても『一国の外務大臣をあんなちつぽけな所へ押し込んでおくのは済まん/\』といつてゐたが、いままでの永田町首相官邸日本間は
再度 の兇変で縁起も悪く、それに『陽当りは悪いし風も通らんし……』とハタから反対されてそのまゝ開かずの間、とにもかくにもいつまでもやどかり生活もしてをれぬので、いよ/\予算十万円で日本間官邸を新築することになつたものである、場所は現在の首相官邸構内東南隅<ぐう>の新緑も美しい築山を切り崩し、そこにモダーン味を加味した瀟洒な日本間数室と洋間二室を建築、特別議会後直<たゞち>に工事に着手する段取りとなつてゐる。
尚いま迄の不吉な日本間は近く畳をすつかり取除き、内部を少しばかり事務室風に改造して、内閣の一部がこゝに引移ることに決定した。
岸〔倉松(1878-1968)〕総理秘書官は語る。
首相も早く家の方を何とかしなくては……と口ぐせのやうに仰言つてましてね……いよ/\造ることになりましたが、大体建物に五、六万はかける予定です、場所の問題ですが、現在の官邸の裏門から入つてすぐのところ、眺めが非常にいゝので、永久的に使へませう……
東京朝日新聞 昭和11(1936)年4月29日・11面
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