因縁の首相官邸日本間【1936.4.5 読売】
五・一五事件、二・二六事件と2度も殺人のあった首相官邸日本間は、陽当たりや風通しが悪いとの理由で取り壊しが決定。広田弘毅首相は外相官邸を住居とすることに。

担<かつ>ぐわけではないが、“殺し”のあつた家はいゝ気持がしないし縁起が悪い、だから麻布〔東京都港区〕の女中殺し〔前年11月に露文学者の家で女中が殺された事件〕の家も巣鴨〔豊島区〕の若妻殺し〔この年1月に銀行員の妻が自宅で殺された事件〕の家もとかく“殺し”のあつた家は取壊しになつたわけだが、さて五・一五事件〔(1932年)〕、二・二六事件〔この年〕と再度の不祥事が繰返された永田町〔千代田区〕の首相官邸はどう始末されるか、担ぎ屋連中の頭痛の種であつたが、いよ/\その解決をつけられることになつた。
いかに剛毅な広田〔弘毅(1878-1948)〕首相でも同じ人間であれば、二度も凄惨な“殺人”が行はれた官邸に常時寝起きすることはあまり気色のいゝものではない、兇変のあつた邸内の日本間は二・二六事件のまゝ放置されてゐるのだ。『早くどうとか始末をつけなければ…』といふ声が広田首相の身辺や
官邸 の内外に喧ましく起つてゐたが、では内部を徹底的に改装して広田首相の住居にするかといふ案も出たが、内部改装だけではどうも屋内にこもる妖気はやはり抜けないので、誰一人この案には賛成するものが無い、いかに外観や内部が立派でも、首相が住んでくれないとあつては結局、無用の長物となるので、勿体ないが、思ひ切つて日本間全部を取壊してしまふことに決定し、広田首相は三日午後、記者団との会見の際に『少し広すぎるやうだし、殊に日本間は陽あたりが悪いし、風も通らないし…』と取壊しの表面的理由を説明した。
広田首相の説明を待つまでもなく、不祥事件は別として同日本間の建築は非常な失敗で、田中〔義一(1864-1929)〕内閣時代〔1927-29年〕、“オラガ・カフエー”と謳はれた華麗な建物もライト式の欠点で、天井が甚だ低く、陽の光の入らないところに持つて来て
東南 に開けた庭は築山に邪魔されて風も入らないといふ陰気なものであつた。そこで日本間取壊しの結果、現在の官邸は閣議や一般会議をはじめ、内閣の事務局とし、その向ひ合ひの外相官邸を日本間代りの首相並にその家族の寝泊りする住居とし、外相官邸は別に新築し、これで永田町官邸を包む無気味な雰囲気を一新しようといふのである、右について横溝〔光暉(1897-1985)〕内閣書記官は語る。
『あんなところをあのまゝ使へるものぢあなし、早く
復旧 しなければならないと思つてゐる、それは今計画中で、総理も早くどうにかしなければといふ希望を持つてゐる』
【写真は空から見た首相官邸、点線内が問題の日本間】
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