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2021年8月

弘法大師の出現【1909.8.23 大阪毎日】

大阪・本田で人々が競うように搗栗を買い求めている。警官が事情を尋ねると、弘法大師の再来が現れ、今年明治42年は「死に年」で、灰のように降る悪虫に触れた者は死ぬ。それを防ぐには、搗栗ともち米を混ぜた粥を食べることと言って消えたからだという。警察では自称・弘法大師の再来を厳重捜査中。

●弘法大師の出現
本田九条附近の大騒ぎ

去る二十一日朝西区〔大阪市〕本田<ほんでん>巡査派出所警官が花園橋市場を巡廻せしに其処の乾物店<みせ>の軒頭<のきさき>に客人黒山の如く群集<ぐんじう>何れも口々に勝栗を早く売て呉れと叫びながら双手を突出し<ひし>めくさまの如何にも不審なるより取敢ず仔細を訊<たゞ>し見ると、「五日前本田の某醤油店に一人の老僧入来り味噌越笊〔原文「笟<ざる>」、以下同 〕を差出してこれに醤油一合〔約0.18リットル〕を入れくれよと云へるにぞ番頭は打驚き、『味噌越笊に醤油を入るゝは底なき桶に水を盛ると均<ひと>しく一堪<たま>りもなく洩<もれ>尽すべしと諭すが如くに言聞け〔言い聞かせ〕たるに老僧は呵々<から/\>と打笑ひ、『<もれ>ば洩るにてもよし<と>も角量りて入れよとて聞入れざるより、『<さて>も強情の僧なるかなと打呟きつゝ量り込むと不思議にも紫色なす醤油は笊の中に波々と盛られて一滴の洩り溢るゝ様子もなきを老僧悠然と見やり、『ソレ此通りならずやかゝる行力<げうりき>は俗人の見て訝<いぶ>かしともなさんが吾にありては毫<つゆ>ばかりも訝かしからずかく申すは高野山弘法大師〔空海(774-835)〕の再現なり、方々<かた/゛\>注意あれ来ん二十八日こそ一大天変地異の襲ひ来<きた>る日なるぞよ、吾はこの災害を未前〔未然〕に防ぎ止<とゞ>め得させん為<た>遥々降天し来たれるものなり、見よや方々わが言ふ二十八日こそ一天遽<にはか>に搔曇り空よりは灰の如きもの一面下界に向つて降り来るなりこの灰の如きものこそ真実<まこと>は灰にはあらで恐るべき悪虫<あくちう>なれば一度其悪虫に触れんか全身忽ち灰色と変じて病死すべし然しそを防ぐには勝栗と糯米<もちごめ>とを一合宛<づゝ>混じ合せ粥にして食せば無事息災なり構へて疑ふ事なかれと言ふかと思へば怪僧の姿は掻消す如く消失せたる此不思議の取沙汰は洪水の如く町内に伝はり偖こそかくは勝栗と糯米の売れ行く訳にて現に今まで一合三四銭位の勝栗が一躍廿銭に騰貴猶それでも品切の有様なりとの答へに巡査も意外の感に打たれつゝ其旨九条本署に報告したるが同署にては打捨て置かれず兎も角も各派出所の巡査をして戸毎に注意を与ふると同時に、「ソノ再現の弘法大師とか自称する怪僧を引つ捕へよと捜索中大師は又も九条町に姿を現はし、「四十二年は死<しに>(四二)年と称し人々の全滅する年なり古来申、酉の両年は災害必ず多し<も>し死年の厄難を免れんとするには此杖に縋<すが>れよ丈け一丈二尺〔約3.6メートル〕余の錫杖を大地に突立ると附近の町民は蟻の如くに集まり来り銘々土下座しては先を争ひ<くだん>の杖に縋り五銭十銭と喜捨する現場を認め、「素破<すは>こそ弘法大師出現せりと警官<は>せ寄つて引捕へんとせしに怪しむべし大師は隠身<おんしん>火遁風遁の術にても心得居るか現在今其処にありたる姿が見えずなりたるも、「<それ>位にて凹むべきにあらずと目下引続き厳重捜査中なり

大阪毎日新聞 明治42(1909)年8月23日・7面

首相官邸へ珍客尼僧【1936.6.12夕 読売】

新潟県の学林に学ぶ尼僧20名が首相官邸日本間の前に現れ、犬養毅ら凶変に斃れた人々の回向かたがた悪魔退散を祈った。

首相官邸へ珍客尼僧
例の日本間に“悪魔退散”の誦経


十一日の十一時半ごろ、三たび〔原文ママ〕衂られていま廃屋となつてゐる首相官邸の日本間の鉄扉の前に飄然とうら若い尼僧廿名があらはれておどろいて飛出した守衛や巡査を尻目に『爾時無尽意菩薩』と珠数つまぐりながら約卅分間、お経をあげ『悪魔退散!』を祈つてひき揚げた、この尼僧群は新潟県小出町〔現・魚沼市〕にある曹洞宗尼僧学林の生徒達で、廿歳前後の尼さんの卵この朝世田谷区深沢町の宿舎を出で林長中村嶺道尼(五一)につれられて訪れ、兇変に斃れた犬養〔毅(1855-1932)〕首相、松尾〔伝蔵(1872-1936)〕大佐以下殉職警官の回向かたがた悪魔退散を祈つたものであつた

【写真はその尼さん達】

読売新聞 昭和11(1936)年6月12日夕刊・2面

”やどかり“首相に漸く安住の官邸【東京朝日 1936.4.29】

五・一五事件、二・二六事件と凶変が続く魔の首相官邸日本間を避け、広田弘毅首相が外相官邸を占領。その余波で外相は外務次官官邸を占領、次官は官邸に入れない羽目に。問題を解決するべく、首相官邸日本間は事務室に改装、官邸構内に首相居宅を新築することにした。

“やどかり”首相に
漸く安住の官邸
重なる血の記憶を葬り
日本式に建直し

五・一五から二・二六に続く嵐で血に染んだ魔の首相官邸を避けて、外相官邸に借家住ひの仮寝をしてゐる広田〔弘毅(1878-1948)〕首相のために、安住の居をどうする?といふ問題は政府の悩みだつたが、いよ/\来る特別議会に十万円の官邸建設予算が提出され、現在の首相官邸内の一隅、眺望絶佳の場所に瀟洒な日本風の首相居宅を新築しようといふことになつた【写真は首相官邸あかずの日本間】

 

奇観 ところてん街
外相から次官へ順々に押出し
仮寝の嘆きも久し

非常時内閣の広田総理があわたゞしかつたあの組閣の当初から住み慣れた三年町〔東京都千代田区〕の外相官邸にどつかと腰を据ゑてからといふもの、あの一角に当然捲起つて来たのがトコロテン的『官邸難』の

問題 だつた、つまり外相官邸を首相に占領されて仕舞つた有田〔八郎(1884-1965)〕外相は、つい間に合せに外務次官官邸を占領したが、外相就任には付きものゝ公式な大レセプシヨンは手狭な次官官邸ではとても出来ないとあつて未だにそれもやらないでゐる始末一方新たに次官になつた堀内〔謙介(1886-1979)〕前アメリカ局長はこれ又自分に当然あてがはれてゐる次官官邸の桜も今年はつひに鑑賞せず終ひで、やむを得ず私邸にくすぶつてゐるといふわけ

そこでこの間に立つて一番官邸難を気にしてゐたのは総理自身で、自分の経験からしても『一国の外務大臣をあんなちつぽけな所へ押し込んでおくのは済まん/\』といつてゐたが、いままでの永田町首相官邸日本間は

再度 の兇変で縁起も悪くそれに『陽当りは悪いし風も通らんし……』とハタから反対されてそのまゝ開かずの間、とにもかくにもいつまでもやどかり生活もしてをれぬのでいよ/\予算十万円で日本間官邸を新築することになつたものである、場所は現在の首相官邸構内東南隅<ぐう>の新緑も美しい築山を切り崩し、そこにモダーン味を加味した瀟洒な日本間数室と洋間二室を建築、特別議会後直<たゞち>に工事に着手する段取りとなつてゐる

尚いま迄の不吉な日本間は近く畳をすつかり取除き、内部を少しばかり事務室風に改造して、内閣の一部がこゝに引移ることに決定した

永久的に建造
秘書官語る

〔倉松(1878-1968)〕総理秘書官は語る

首相も早く家の方を何とかしなくては……と口ぐせのやうに仰言つてましてね……いよ/\造ることになりましたが、大体建物に五、六万はかける予定です、場所の問題ですが現在の官邸の裏門から入つてすぐのところ、眺めが非常にいゝので永久的に使へませう……

東京朝日新聞 昭和11(1936)年4月29日・11面

因縁の首相官邸日本間【1936.4.5 読売】

五・一五事件、二・二六事件と2度も殺人のあった首相官邸日本間は、陽当たりや風通しが悪いとの理由で取り壊しが決定。広田弘毅首相は外相官邸を住居とすることに。

因縁の首相官邸日本間
妖雰無用の長物
遂に取潰し
“陰気で不経済だ”が表面の理由
総理は外相官邸住ひ

<かつ>ぐわけではないが“殺し”のあつた家はいゝ気持がしないし縁起が悪い、だから麻布〔東京都港区〕の女中殺し〔前年11月に露文学者の家で女中が殺された事件〕の家も巣鴨〔豊島区〕の若妻殺し〔この年1月に銀行員の妻が自宅で殺された事件〕の家もとかく“殺し”のあつた家は取壊しになつたわけだが、さて五・一五事件〔(1932年)〕、二・二六事件〔この年〕と再度の不祥事が繰返された永田町〔千代田区〕の首相官邸はどう始末されるか担ぎ屋連中の頭痛の種であつたがいよ/\その解決をつけられることになつた

いかに剛毅な広田〔弘毅(1878-1948)〕首相でも同じ人間であれば二度も凄惨な“殺人”が行はれた官邸に常時寝起きすることはあまり気色のいゝものではない、兇変のあつた邸内の日本間は二・二六事件のまゝ放置されてゐるのだ『早くどうとか始末をつけなければ…』といふ声が広田首相の身辺や

官邸 の内外に喧ましく起つてゐたが、では内部を徹底的に改装して広田首相の住居にするかといふ案も出たが、内部改装だけではどうも屋内にこもる妖気はやはり抜けないので誰一人この案には賛成するものが無い、いかに外観や内部が立派でも首相が住んでくれないとあつては結局無用の長物となるので勿体ないが思ひ切つて日本間全部を取壊してしまふことに決定し、広田首相は三日午後、記者団との会見の際に『少し広すぎるやうだし、殊に日本間は陽あたりが悪いし風も通らないし…』と取壊しの表面的理由を説明した

広田首相の説明を待つまでもなく不祥事件は別として同日本間の建築は非常な失敗で田中〔義一(1864-1929)〕内閣時代〔1927-29年〕、“オラガ・カフエー”と謳はれた華麗な建物もライト式の欠点で天井が甚だ低く、陽の光の入らないところに持つて来て

東南 に開けた庭は築山に邪魔されて風も入らないといふ陰気なものであつたそこで日本間取壊しの結果、現在の官邸は閣議や一般会議をはじめ内閣の事務局とし、その向ひ合ひの外相官邸を日本間代りの首相並にその家族の寝泊りする住居とし外相官邸は別に新築しこれで永田町官邸を包む無気味な雰囲気を一新しようといふのである、右について横溝〔光暉(1897-1985)〕内閣書記官は語る

『あんなところをあのまゝ使へるものぢあなし、早く

復旧 しなければならないと思つてゐる、それは今計画中で総理も早くどうにかしなければといふ希望を持つてゐる』

【写真は空から見た首相官邸、点線内が問題の日本間】

読売新聞 昭和11(1936)年4月5日・7面

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