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2020年9月

うたの殺しに絡はる不思議な因縁話【1925.4.10夕 東京日日】

尼崎の女学生殺しの犯人が東京・中野署に逮捕された日の夜、被害者の母親の夢枕に娘が現れて「東の方で憎い奴が捕まった」と告げた。当時、犯人逮捕はまだ尼崎署にも知らされていなかった。

うたの殺しに絡はる
不思議な因縁話
犯人の捕つたその晩に
……夢枕に立つた娘

既報、中野署に捕へられたうたの殺し犯人桐野徳治(二六)はその後も連日同署で取調べを進めてゐるが何しろ警視庁関係だけの犯罪が廿一件もある事とて取調べに相当時日を要するが逮捕した去月廿四日にとり敢ず拘留廿一日に処してあるから来たる十三日の

◇…拘留期 明けまでには東京方面の調べを終り十四五日ごろ兵庫県警察部に護送する事に決定した、八日中野署に達した尼ケ崎〔尼崎〕署及び県警察部の情報によると殺されたうたの母すえ(四二)は惨事後いつまでも犯人があがらずいつ娘のうらみが晴れべくもないので爾来警察を嫌ひ呼び出しがあつても出頭しない位であつたがその

◇…母親が 去月廿五日突然尼ケ崎署に出頭係官に面会の上、「前夜(即ち桐野が中野署に逮捕された廿四日)五年前<ぜん>に死んだうたのが夢枕に立ち、『東の方で私の悪<にく>い奴が捕まつたと知らせがあつたからどうぞ調べて下さいと申し出でた、尼ケ崎署では当時まだ中野署から何等<なんら>の移牒〔通知〕もなかつたので唯子を思ふ親心の迷ひとばかり宥<なだ>めて引とらせたが母親はそれでもなほあきらめ切れず更に兵庫県警察部にも出頭

◇…同じ話 をくりかへしたさうで中野署の係官もこの因縁話しに今更ながら奇異の感に打たれてゐる

東京日日新聞 大正14(1925)4月10日夕刊・2面

『あゝ悪い日だ……』と口走つたが運の尽き【1925.4.7 東京朝日】

5年前に尼崎で女学生を殺した男が東京・中野署で捕まった。男は窃盗犯として逮捕されたが、その日が女学生が殺された日と同月同日。思わず「悪い日だ」と口にしたことから5年前の犯行も発覚した。

『あゝ悪い日だ……』と
口走つたが運の尽き
うたのを殺害した同月同日
捕縛された桐野の因果物語
『海老茶がこわい』と口癖のやうに

阪神沿線尼ケ崎〔尼崎〕在の女学生うたの殺し犯人嫌疑者として中野署で捕縛した桐野徳治(二六)については六日午前十時から此朝着京した尼ケ崎署の木村刑事部長、県警察部の小野部長をはじめ警視庁の出口警部、吉野署長等の手で更に厳重取調べるところあつたが、うたのを殺した

短刀や 其他の物的証拠と犯人の自白並びに犯行当時の模様等全然符合し、こゝに全く真犯人に相違ないことが判明した、中野署では尚引続き今日までの桐野の行動並びに五年前<ぜん>の兇行動機等について取調を行つた上、一両日中に尼ケ崎へ護送することとなつた、桐野徳治が捕縛されたのはうたのを殺した大正九年三月二十四日から満五年目の同月同日で、彼は中野署に引致された際『あゝ悪い日だ』と

思はず 口走つたのが運の尽きとなつた、同人は去る二月二十五日中野町〔現・東京都中野区〕三六六四山脇新聞店へ拡張員と称したづねて行<ゆ>き、同家妻女と傍<かたはら>にゐた鮮人〔朝鮮人〕配達夫とを欺き現金百九十円入りの手提金庫を掻払<かつぱら>つて逃走したので、中野署では犯人は新聞関係者との見込みの下<もと>に全市にわたつて捜査を続けた結果、府下蒲田〔大田区〕の某新聞店にゐた白井寿雄なるものゝ

挙動に つき調査した処同人は偽名して去る一月末来新宿遊郭金波楼の娼妓人本(二二)の許<もと>に通ひつめてゐる事をつきとめ、三月二十四日夜<よ>九時頃登楼中を踏込み遂に捕縛するに至つたものである、桐野が通つてゐた新宿金波楼の娼妓人本は語る『白井さん(桐野の偽名)が始めて〔初めて〕

登楼し たのは一月末で一週一二回位づゝ来ましたがいつも沈みがちでした、しかし金遣ひも荒いといふではなし変つた様子もありませんでした、たゞ今思へば口癖のやうに『海老茶〔女学生が殺されたときにはいていた袴の色〕が何よりいやだ、海老茶がたたるよ』とわけのわからぬ事を言ひながら極端に海老茶色を嫌つてゐました、二十四日の晩捕まつた時は十四円程持つてゐました』

東京朝日新聞 大正14(1925)年4月7日・7面

迷信から他人の娘を殺す【1908.12.26 東京日日】

横浜に住む少女が奉公先で病気にかかったが、迷信家の主人は祈祷を受けさせるばかり。母親が連れ帰ったときには治療は手遅れだった。少女は突然、自分は「おちか稲荷」だと名乗り、母に作らせた握り飯をつかんだまま亡くなった。

●迷信から他人の娘を
△握飯を掴んで絶息

横浜市神奈川青木町三千六百十七番地駒形辰五郎内縁の妻道正おまさの連子<つれこ>お園(十六)は同市花咲町五丁目七十三番地成瀬お豊(四十一)方へ五ケ年の年期〔年季〕奉公を為し去る八月にて年明<ねんあ>けとなりしかば明年<みやうねん>一月十五日までのつもりにて礼奉公を為し居たるに本月十二日頃より不図<ふと>病気に罹りしに主人お豊は大の迷信家にてお園も何時<いつ>しか其の感化を受け居<を>る為<た>病気に為りても医師に診て貰はんとは為さず日頃信仰せる中山鬼子母神<きじぼじん>に詣<もう>でゝ祈祷を受けたるが一向御利益なきよりお豊は大<おほい>に心配し<かね>て懇意にせる相生町五丁目人力車夫森田力蔵妻お鹿(三十三)に相談せるに同人は日頃信仰せる妙法経弁財天を守護神に戴かせ更に弁財天様の御託宣なりとて柳の枝、松の枝、艾<もぐさ>、燈心〔燈心草、イグサ〕、土筆<つくし>外二品<しな>を五合〔約902ミリリットル〕の水に煎じ詰めて飲ませ居<ゐ>たるが<こ>れ亦一向御利益なかりしかばお豊は十九日に至りて親元に知らせ遣<や>りたるに母のおまさは大に驚き<たゞち>に見舞に来りお園の窶<やつ>れたる姿を見て之れは容易ならざる事なれば一刻も捨て置く可<べ>からずと無理からお園を連れ帰りて平沼町の女医太田繁子に診察せしめたるに、「肺結核、腎臓結核、盲腸炎等を併発し居<を>りて最早治療<ぢれう>期を失したりとの事に尚念の為め最寄の平松医師にも診察を請ひたるが之れ亦同様の見立にて折角の治療も其の効なく遂に廿二日午後十時頃死亡したるがお園は死際<しにぎわ>に臨み俄に声を立て「我はおちか稲荷なるが只今帰る故梯子<はしご>の下に握り飯十個と菜漬を供へて呉<く>れ」と言ひしかばおまさは薄気味悪く思ひながらも「お飯<はん>は冷飯<ひやめし>でなければ無い」と言ひしにお園は「冷飯でも可<よ>し」と強いて頼むより余儀なく言ふが儘に握飯を作りて梯子の下に置きたるに斯くと見たるお園は俄破<がば>と起き上がりて二間〔約3.6メートル〕<ばか>り距<へだゝ>りたる梯子の下に駈行き握飯を両手に一個宛<づゝ>掴みたるまゝ敢なき最後を遂げたる由にて此の事遂に戸部署の耳に入<い>係官出張して一応お園の死体を検案し死因に就きては他動的の疑はしき点なかりしもお豊お鹿の両人は迷信よりお園の治療期を失せしめたる廉に依り本署に召喚して目下取調中なりと

東京日日新聞 明治41(1908)年12月26日・7面

鶏のなき声で死体発見【1933.5.19 東京朝日】

東京・向島で職工が行方不明に。周辺住民の習慣で鶏をたらいに載せて北十間川を流し、鶏の鳴いた場所の川底を探すと、職工の死体を発見した。

鶏のなき声で死体発見

十八日午後二時頃、向島区〔現・東京都墨田区〕吾嬬町東洋モス工場前の北十間川から、去る十五日夜<よ>泥酔して墜落した同町東一ノ一〇七日東製氷職工樫野加藤治(四七)の溺死体を発見した、同人の家族は妻と二十歳になる息子、十六日から行方を捜索中だつたがどうもこの川筋が怪しいといふので河岸<し>に住む人達の習慣で十八日タラヒの中に鶏を一羽載せ、これを川に流して鶏のないた下に死体があるものと捜してゐると、丁度ないた下の川底から死体を発見したものである

東京朝日新聞 昭和8(1933)年5月19日・11面

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