解放される魔の神域【1925.1.24 読売】
東京・武蔵新田の新田神社の裏にある新田義興の墳墓は垣根の中に立ち入った者が発狂したり自殺したりすると恐れられている。神主は迷信を払拭するため、墳墓の境域を開放することにした。
平賀源内〔(1728-80)〕「神霊矢口ノ渡〔神霊矢口渡〕」で知られる府下武蔵新田〔東京都大田区〕府社、新田神社の裏にある新田義興〔(1331-58)〕の墳墓は足利時代のむかしから
新田の 荒れ山、又は荒墳と云ひ伝へ、一町〔約109メートル〕ばかりの周囲に垣根を囲らして神職といへども断じて出入<しゆつにふ>せず、椿竹など雑木茂るに任せ、一種神霊の気に打たれるやうな処とし、何人かこの墳域内に入<い>ると、病気、或は発狂して死ぬといふので、覗き見る者さへない位附近の人々には未だに恐れられてゐるが、かゝる
伝説が 更でだに一種の先入思想となると見え、最近、茅場町〔中央区〕某株式店主人が郊外散歩に出でてこの墳域内に入り、何等<なんら>の原因がないにも係はらず、その儘自殺した事や近所へ引越して来た日雇取りの妻女が焚木を折りとつてその日から病気になり、玉川砂利取人夫が竹一本持ち去つてその夜<よ>から発狂、死亡したなどの
故意か 偶然か、昔の伝説を力強めるやうな事件ばかり起きるので、現神主は「科学の進歩せる今<こん>日、そんな事があるべき筈がない」といふので、近くこの境域内を開放し、古事を叙した碑を建てゝ何人も自由に出入させる事とし、目下、その準備を急いでゐる、これによつて足利時代以来の一種の恐怖境も明るくなる訳である。神主語る。

『義興公の死体をあの沈められた舟と共に埋めたところで、江戸のはじめにはその舟のみよし〔船首〕が出てゐた事があるといふ話です。刀剣なども出てゐますが、あの墳域のすぐ後が矢口の渡だつたのです。どうも私が来てからも所謂荒山の気に打たれたといふ変事を度々目撃します、先日自殺のあつた時、入つた巡査などもどうも目まひがしてならなかつたなどゝ云ひます。神域ではありますが、碑でも立てゝ何人も自由に参拝出来るやうにし、出来るものなら、当局に願つて一度発掘してみたいとも思つてゐるのです。あの森へ入れば、目くらになつたり気狂になるといふ伝説は江戸時代からのものですが、大正の今日、かゝる一種の恐怖境をその儘としておくのはむしろ神意に悖るものと思ひ、発掘の結果は何等か歴史上の有益な効果を得まいかと思はれます』
同所の頓兵衛地蔵などは怪しいが、蒲田の女塚と共に戯曲的な一種の古趾として面白い物語りを持つ場所にも追々文明の風が吹いて行く。
(写真は新田義興の墳墓)
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