本郷の東京大学構内に「蛇姫の塚」と呼ばれる石塚がある。昭和7年に塚を取り払う計画が立つと、近くの工学部からバラバラ遺体の一部が見付かり、恐れられるように。因縁は前田家の屋敷だった時代に女中が殺されたことにあるらしい。五月祭で大雨が降ると、用務員はお神酒をささげて塚をなだめている。
東大のスリラー
恒例の東大“五月祭”がことしも昨二十三日ときょう二十四日の両日、本郷の同大学構内で幕をあけている。
ところがどうしたわけか毎年この“五月祭”には雨がつきものだ。名物のイチョウ並木が緑一色の天がいを作っている下をカサをさして歩くのも一興だが、関係者たちはそのたびに空をニラミ、ヒヤヒヤする。年に一度の学生のオマツリを乱す無情な雨をうらみに思う。
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昨年も“恒例”の雨が襲った。そのうえ雷が鳴り、停電にまでなって窓に暗幕をおろしていた法文経三十一号教室の能楽会場などをはじめ学内はハチの巣をつついたように大騒ぎとなった。その時だった。工学部本部裏の中庭で東大らしからぬ(?)光景があった。カサもささず、ぬれネズミの工学部小使さんの一人が石のツカの前に老体をかがめ、工学部と名の入った湯のみ茶ワンに、右手に持った一升ビンの酒を注いでいた。
マンジュウガサをかぶった女人を思わせる東大構内の“蛇姫の塚”(左端)
“五月祭”に雨降らす
“蛇姫の塚”のたたり?
時折、空を仰いでは何やらつぶやき、さらにオミキをつぎ足していた。「これでもたりないのか、まだたりないのか、学生さんたちのオマツリだ、お天気にしておくれ」と。
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その石ヅカが“東大のスリラー”“東大の不思議”なのだ。高さ約一・九メートル、ひとかかえもあるカサをのせた石台は直径約三十センチの円柱で背後に「蛇姫の塚」とはどうみても読めない字が刻んである。みんなが「蛇姫の塚」と呼んでいるからそう書いてあると信じているにすぎないが、ほかに「手を触れてはいけない石ヅカ」「男子禁制のツカ」とも呼ばれている。近代科学を扱って“世界の頭脳”ともいわれる工学部と合理を重んずる法学部との真中に鎮座しているから妙だ。
昭和七年のはじめ工学部で敷地整理上からこのツカを取りはらう計画が立てられていた。ところが案の定その直後に第一号のバラバラ事件が起ったのだ。同年三月七日のこと寺島の通称“おはぐろどぶ”からハトロン紙に包んだ首が出てきた事件、七か月経て迷宮入りかと思われたとき、水上署の聞き込みから主犯の長谷川市太郎(当時三十九歳)が捕まり、イモヅル式に弟長太郎(二三)妹とみ(三〇)が共犯で逮捕された。そしてこともあろうに被害者の腕と足が工学部の旧実験室の床下から出てきた。長太郎が同学部土木科写真室の雇員だったので、床下にかくす前には土木科教室の天井さらに中庭の土の中と移されていた。念の入ったことには撲殺に使われたスパナやバットもこの男が同学部から持出したシロモノだった。
間もなく石ヅカの移動に関係していたI教授が原因のわからない自殺をして、ますます“ナゾのツカ”はハクをつけた。
日曜の朝の
話 題
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古い話をたどると“赤門”がそうであるようにこのあたりは前田藩の屋敷であった。江戸時代の延享年間(一七四四-四八年)講談やカブキ、さらに映画でおなじみの加賀騒動で反逆者家老・大槻伝蔵朝元〔(1703-48)〕に加担し、七代藩主・宗辰〔(1725-47)〕の生母浄珠院を毒殺した老女浅岡〔浅尾〕がヘビ責めの刑にあった場所ともいわれた。だが「蛇姫の塚」はそれよりのちに某家老が町民の美しい腰元に手をつけ、夜な夜な離れでなく彼女の声で悪事露見を恐れて殺害、ひそかになきがらを埋めた場所だというのが真説らしい。だから「男子禁制」のツカともいうのだろう。
見かたによってはマンジュウガサをかぶった腰細の女のようにもみえる。その腹のあたりに仏とも女ともつかぬ立像が浮彫りにされている。それが正面で建立当時、不忍の池の方を向いていた。江戸時代から明治のはじめまではこの浮彫りの方角にある家では必ず災害や病人が出ると信じられ、町民たちは夜こっそり屋敷に入ってこのツカを自分の家とは違った方向に向き変えていたという。
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こんなツカに毎月一日と十五日に四季の花をいけ、線香を上げているおばさんがいる。本部の庶務課用務員山口まつさん(五六)で日給一円のさる十六年から働きだし、すでに十九年間も勤めているが三十年のころこんな話を聞き込んだ。数年前、工学部の職員がツカを動かすように二人の人夫に命じた。間もなく石ヅカをかついだ二人とも病気になって死亡、仕事を命じた職員もあとを追うように死んだという。山口さんは「蛇姫の塚」の因縁をこのときはじめて聞いた。因縁は半信半疑だったがかわいそうな人たちのことを思うと黙ってそばを通り過ぎることができず、この二、三年かかさず手を合わせているという。
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以来、東大でただ一つの不思議な“遺物”としてその場所を占めている。学生たちは信じないだろう。だが古い小使さんの中には「ことしの“五月祭”もヤッパリ雨が降った。石ヅカがヘソをまげたら大変だ」と信じている。大雨や雷にでもなれば小使さんはことしもオミキをあげるかも知れない。
読売新聞 昭和34(1959)年5月24日・10面