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2019年8月

供養しても、仕事の進まぬ『魔の工事場』【1925.6.25 読売】

東京・内幸町の下水工事現場で作業員3人が崩れた土砂の下敷きになって死亡。以来「魔の工事場」と作業員が恐れ、工事が進まないので、業者が供養塔を立てた。現場は底なし沼だったといわれる場所で工事中に骸骨が発見されている。

供養しても、仕事の……
まぬ『魔工事場』
惨死した鮮人の亡魂の祟りだと
尻込みをする……恐怖の人夫
虎の門土橋間の工事は廿万円の損

虎の門〔虎ノ門(東京都港区)〕から土橋<どばし>雨水吐き下水工事は最も難工事とされ去る三月七日には内幸町<うちさいはひちやう>〔千代田区〕三番地先で鮮人〔朝鮮人〕土工朴鶴伊(三六金大振(二九除万祚(四三)の

三名は くづれ落ちた砂の下敷となつて惨死を遂げた此の工事は昨年九月に始め今年の三月十日にスツカリ出来上る予定で大丸組で作業して来たものであるが溜池から流れ込む水は吸み〔汲(く)み〕上げても/\一ぱい、如何しても工事が進まぬ、市の下水課では当時竣工期限を三月十日と届出でたがその後小刻みに工事を延ばして居るので日比谷署と三田署では

取締上 警視庁交通課の指揮で交通主任が毎日出張して見廻つて急がせてるが思う様に運ばないのでご幣をかつぎ出したのは大丸組の磯谷支配人で惨死鮮人が祟つてるのではあるまいかと其の供養塔を立てることになり去る廿一日麻布六本木〔港区〕の乗泉寺の住職田中清鑑〔清歓、日歓(1869-1944)〕師を招んでお経を上げて貰つたが早めに見て

七月末 まではかゝる見込みで<これ>が為<ため>に約二十余万円の予算超過だと云うが調べて見ると遅れた原因は水のせいもあるがも一つはみんな死人のたゝリを恐れビク/\もので仕事をして居ることで人夫等<にんふら>はこゝを『魔の工事場』と云つて恐れをなして居る

工事場にからむ
底無因果噺
骸骨が二つも掘出された

現場監督の大丸組配下奈良亘皓君の曰く――

魔の工事場と供養塔………………

『鮮人の死する前迄は順調に進み丁度鉄筋を組む許りになつて居たのをやられたのです、あの事件があつて以来殆んど一ケ月位は人夫等も仕事が手につかず今でもオド/\して居る始末なので供養塔を建てました、こゝはもと沼で附近には松の木立が繁つて首縊りがしば/\あつたそうで又其沼に落ちたら決して助からぬ底なしだと伝えられて居たと云う事です、私達は別段御幣をかつぐ訳でもありませんが工事を始めてから最近まで骸骨が二つ発見されました、兎に角ここは縁喜〔縁起〕の悪るい土地であつたらしいのです』

読売新聞 大正14(1925)年6月25日・3面

消えた「お化け大会」録音テープ【1953.7.26夕 読売】

ラジオ局でお盆に放送予定で録音したテープが消える怪事件発生。テーマが「お化け大会」だっただけに関係者は気味悪く感じている。

夏に怪談はつきものだが、このほどラジオ東京〔現・TBSラジオ〕で、録音ずみのテープが消え去るという怪事件が発生、関係者一同、肌に粟を生じている。

消えた「お化け大会」録音テープ
==ラジオ東京の怪事件==

問題のテープは去る十四日、お盆の中日に放送を予定されていた「小唄ごよみ」の録音を収録した分で、そのテーマがまた「小唄お化け大会」だったところからスタジオ雀のうわさとりどり。ゲストの喜多村緑郎〔(1871-1961)俳優〕以下の出演者がやむなく録音をとり直し、この放送はあらためて明後日廿八日に電波に乗る。【写真は喜多村緑郎】

読売新聞 昭和28(1953)年7月26日夕刊・4面

高射砲に兵の幽霊【1956.7.19 朝日】

日本からニューギニアに来た遺骨収集団に地元住民が高射砲陣地跡に毎晩日本兵の幽霊が出ると訴えた。収集団の僧侶が読経したことで、地元住民は安心した。

日本兵の幽霊が出るという高射砲=ハマデの丘で=入江特派員撮影
高射砲に兵の幽霊
ニューギニアで遺骨収集団ねんごろな供養

【西部ニューギニアで入江記者】幽霊というものがあるかないか、その判断は別として、これはニューギニアの戦跡で聞いた日本兵の幽霊の物語――

四日、ホーランディヤ〔現・ジャヤプラ〕近くの海を見おろすハマデ岬の丘で、大成丸でやって来た遺骨収集団は慰霊祭を行ったが、その直前、一行にかけこみ訴えるパプア土人がいた。

パプアの話はこうだ。村落の横に元日本軍の高射砲陣地があって、いまでも一門がさびついたまま残っている。ところが夜そこを通りかかると、戦闘帽をかぶりゲートルをまいてやせた日本の兵隊が物すごい形相で、砲身をグルグル回しながら空をにらんでいる。その幽霊は毎晩出るというのである。土地のパプアはこわがって家を棄てて逃げ出し二、三戸しか残っていない有様。恐くて困るから、あの大砲を日本に持って帰ってくれ……というのだった。

すぐ私たちは行って見た。日本軍がよく使った高射砲だ。潮風に赤くさびてすぐそばに爆弾を受けたらしく砲身の下側に穴があいていた。遺骨収集団が調べると、そこは高射砲第六十四大隊がいたところで金谷少尉ら十五人が直撃弾で戦死している。ただ一門だけ残った高射砲には、ここで死んだ兵たちの亡霊が必死にしがみついているようにも思われた。

一行を代表して鶴見〔横浜市〕総持寺の松田亮孝師が高射砲の前で般若心経を唱え成仏を祈った。「大砲をのけなくても大丈夫。もう幽霊は出ないから」この言葉にパプア人たちは安心したらしい。波の青いハマデ岬に日本兵の歯を食いしばった幽霊は、もう現われないことだろう。

朝日新聞 昭和31(1956)年7月19日・9面

東大のスリラー【1959.5.24 読売】

本郷の東京大学構内に「蛇姫の塚」と呼ばれる石塚がある。昭和7年に塚を取り払う計画が立つと、近くの工学部からバラバラ遺体の一部が見付かり、恐れられるように。因縁は前田家の屋敷だった時代に女中が殺されたことにあるらしい。五月祭で大雨が降ると、用務員はお神酒をささげて塚をなだめている。

東大のスリラー

恒例の東大“五月祭”がことしも昨二十三日ときょう二十四日の両日、本郷の同大学構内で幕をあけている。

ところがどうしたわけか毎年この“五月祭”には雨がつきものだ。名物のイチョウ並木が緑一色の天がいを作っている下をカサをさして歩くのも一興だが、関係者たちはそのたびに空をニラミ、ヒヤヒヤする。年に一度の学生のオマツリを乱す無情な雨をうらみに思う。

×  ×  ×

昨年も“恒例”の雨が襲った。そのうえ雷が鳴り、停電にまでなって窓に暗幕をおろしていた法文経三十一号教室の能楽会場などをはじめ学内はハチの巣をつついたように大騒ぎとなった。その時だった。工学部本部裏の中庭で東大らしからぬ(?)光景があった。カサもささず、ぬれネズミの工学部小使さんの一人が石のツカの前に老体をかがめ、工学部と名の入った湯のみ茶ワンに、右手に持った一升ビンの酒を注いでいた。

マンジュウガサをかぶった女人を思わせる東大構内の“蛇姫の塚”(左端)

“五月祭”に雨降らす
“蛇姫の塚”のたたり

時折、空を仰いでは何やらつぶやき、さらにオミキをつぎ足していた。「これでもたりないのか、まだたりないのか、学生さんたちのオマツリだ、お天気にしておくれ」と。

× ×

その石ヅカが“東大のスリラー”“東大の不思議”なのだ。高さ約一・九メートル、ひとかかえもあるカサをのせた石台は直径約三十センチの円柱で背後に「蛇姫の塚」とはどうみても読めない字が刻んである。みんなが「蛇姫の塚」と呼んでいるからそう書いてあると信じているにすぎないが、ほかに「手を触れてはいけない石ヅカ」「男子禁制のツカ」とも呼ばれている。近代科学を扱って“世界の頭脳”ともいわれる工学部と合理を重んずる法学部との真中に鎮座しているから妙だ。

昭和七年のはじめ工学部で敷地整理上からこのツカを取りはらう計画が立てられていた。ところが案の定その直後に第一号のバラバラ事件が起ったのだ。同年三月七日のこと寺島の通称“おはぐろどぶ”からハトロン紙に包んだ首が出てきた事件、七か月経て迷宮入りかと思われたとき、水上署の聞き込みから主犯の長谷川市太郎(当時三十九歳)が捕まり、イモヅル式に弟長太郎(二三)妹とみ(三〇)が共犯で逮捕された。そしてこともあろうに被害者の腕と足が工学部の旧実験室の床下から出てきた。長太郎が同学部土木科写真室の雇員だったので、床下にかくす前には土木科教室の天井さらに中庭の土の中と移されていた。念の入ったことには撲殺に使われたスパナやバットもこの男が同学部から持出したシロモノだった。

間もなく石ヅカの移動に関係していたI教授が原因のわからない自殺をして、ますます“ナゾのツカ”はハクをつけた。

日曜の朝の
話 題

× × ×

古い話をたどると“赤門”がそうであるようにこのあたりは前田藩の屋敷であった。江戸時代の延享年間(一七四四-四八年)講談やカブキ、さらに映画でおなじみの加賀騒動で反逆者家老・大槻伝蔵朝元〔(1703-48)〕に加担し、七代藩主・宗辰〔(1725-47)〕の生母浄珠院を毒殺した老女浅岡〔浅尾〕がヘビ責めの刑にあった場所ともいわれた。だが「蛇姫の塚」はそれよりのちに某家老が町民の美しい腰元に手をつけ、夜な夜な離れでなく彼女の声で悪事露見を恐れて殺害、ひそかになきがらを埋めた場所だというのが真説らしい。だから「男子禁制」のツカともいうのだろう。

見かたによってはマンジュウガサをかぶった腰細の女のようにもみえる。その腹のあたりに仏とも女ともつかぬ立像が浮彫りにされている。それが正面で建立当時、不忍の池の方を向いていた。江戸時代から明治のはじめまではこの浮彫りの方角にある家では必ず災害や病人が出ると信じられ、町民たちは夜こっそり屋敷に入ってこのツカを自分の家とは違った方向に向き変えていたという。

×  ×  ×

こんなツカに毎月一日と十五日に四季の花をいけ、線香を上げているおばさんがいる。本部の庶務課用務員山口まつさん(五六)で日給一円のさる十六年から働きだし、すでに十九年間も勤めているが三十年のころこんな話を聞き込んだ。数年前、工学部の職員がツカを動かすように二人の人夫に命じた。間もなく石ヅカをかついだ二人とも病気になって死亡、仕事を命じた職員もあとを追うように死んだという。山口さんは「蛇姫の塚」の因縁をこのときはじめて聞いた。因縁は半信半疑だったがかわいそうな人たちのことを思うと黙ってそばを通り過ぎることができず、この二、三年かかさず手を合わせているという。

×  ×  ×

以来、東大でただ一つの不思議な“遺物”としてその場所を占めている。学生たちは信じないだろう。だが古い小使さんの中には「ことしの“五月祭”もヤッパリ雨が降った。石ヅカがヘソをまげたら大変だ」と信じている。大雨や雷にでもなれば小使さんはことしもオミキをあげるかも知れない。

読売新聞 昭和34(1959)年5月24日・10面

猟奇時代???【1930.12.2 中外商業新報】

帝大病院に入院した浜口雄幸首相を護衛する警察官が毎晩深夜に宿直室でうなされる。うなされた警官は皆同じ寝台で寝ていると、真夜中に胸元を押さえつけられるような苦しみを感じたという。

猟-奇-時-代???
夜な/\帝大病院に
幽霊が出るといふ話
浜口首相警衛の豪傑連が
悩まされる薄気味悪い寝台

警察官のなかでも柔道何段、剣道何段といふ豪傑がところもあらうに帝大病院〔現・東京大学医学部附属病院〕―しかも浜口〔雄幸(1870-1931)。この年11月に狙撃された〕首相を警衛の宿直室で夜な/\化け物に悩まされるといふ昭和聖代に薄気味の悪い妖怪奇談……

その室<しつ>は島薗内科の六号室で、警官連が三名ぐらゐづゝ泊り込んでゐるのであるが、先月廿六日、棟木も三寸下がつて草木も眠る丑満つ時―などゝいふと、それこそ本たうの怪談もどきだが、やはり時刻はお定まりの真夜中二時ごろ、横山柔道三段がいかにも物の化<け>につかれたやうな苦しい声を出して呻りはじめたので、同僚が眠りをさまして揺り起すと、横山氏はグツシヨリ冷汗をかいて「あゝ恐ろしかつた!」といふ、訳をたづねると「……いや何んでもないが、胸元を押へつけられるやうに苦しかつた」とのこと、一同もそれなりに、その夜は別に問題にもしなかつた

ところが翌日の同時刻になると、宅間剣道初段が、同じやうに呻される、そのまた翌晩には、神戸柔道三段、更に次ぎの晩は高見柔道三段、それから卅日の夜は宮崎高等主任といふやうに、毎晩、いづれも卅分間ぐらゐ呻されたのであつた、これにはさすがの豪傑連も少々恐れをなし、互に体験談をやつて化け物の正体を突き留やうといふと、いひ合したやうに、三台ある寝台の右の端のに寝たものに限つて、夜中の二時から三時までの間に、廊下をバタ/\としかも力なく歩くスリツパの音がきこゑ、それと同時に胸元を圧えつけられるやうな苦しみを感じるのだといふ

そこで豪傑連、このまゝ引込んでは我れ/\の名折れ何んでも化け物の正体を見届けなければならぬとあつて、一日の夜は本富士署に一同額を集めて、化け物退治の評定を行つた――ても怪しやな?化け物の正体は何?

中外商業新報 昭和5(1930)年12月2日・7面

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