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2019年7月

「消防地蔵尊」の由来【1955.11.28 朝日】

東京・新富町にあった建具店が火事に遭い、従業員が焼死。跡地に消防署の出張所ができたが、管内で火事や事故が多発。焼死者のたたりを鎮めるため、戦後、出張所前に消防地蔵が建てると、事故や火事はなくなった。

「消防地蔵尊」の由来
 お参りする消防署員と地元の人たち

二十七日午後、中央区新富町二ノ二京橋消防署新富町出張所前歩道の「消防地蔵尊」に同町一、二丁目町会の主婦や子供たちがお線香や花をあげてお参りしていた。二十六日から始った秋の火災予防週間の一行事として同町会と京橋消防署が合同で行った「消防地蔵尊供養」の一コマである。日本中であまりその名を聞かぬ「消防地蔵」の由来は――

現在の出張所の場所に久保建具店という店があったが、十三年二月十二日〔正しくは昭和16(1941)年2月13日未明〕火事にあい、店員二人と女中一人が逃げ遅れて焼け死んだ。その後同店裏に出張所が出来たが、管内に火事が多いうえに消防士が事故で死んだり、負傷したり、病気になったりする者が多く、戦前に引つづき戦後も不吉な状態が続いた。そして下町気質の町の人々の間には「焼け死んだ人人のたたりだ」といううわさがたち始めた。特に三人の焼死者のうち若い店員の一人は、あとの二人を救おうとして猛火の中に飛込んで死んだというので、「消防精神の鬼と散った青年の霊を慰めねばたたりは消えぬ」と、二十八年二月同町二ノ六メリヤス製造業松島年太さん(五三)らが発起人になり、町会有志の手で出張所前に三尺〔約91センチ〕足らずの地蔵尊が建った。

ご利益は絶大
中央区新富町 きのう京橋消防署と地元民が供養式

その後ウソのように所員の事故は皆無、町内に火事もなくなって、本年度は京橋消防署管内の最優秀出張所として表彰されるに至った。

そこで地蔵様の“ご利益は絶大”とあって「成績が良くなるように」と子供づれのお母さんや「商売繁盛するように」と商家のだんなさんまでが信心する有様で、花の絶えることなく、毎月の命日には線香の煙が流れるようになったという。

この供養式には山室同消防署長ら署員一同のほかに鈴木同町会長や、かっぽう着姿の主婦たち、花をかかえたよい子など二百余人が参加して「今後も町中が無事でありますように」と祈りをささげた。

朝日新聞 昭和30(1955)年11月28日・8面

道玄坂の『人殺しの松』【1930.11.6夕 東京朝日】

大正末、東京・渋谷道玄坂下の松の木の枝を地主が伐ると、家族数名が病死、「人殺しの松」と恐れられようになった。今回、区画整理のため、木を伐採ないし移転する案が出たが、周辺住民が反対。東京府が住民に下付したところ、松の木は「出世の松」に改名され、参詣人で大盛況になった。

道玄坂の『人殺しの松』
おゝ怖や!触れると熱が出る

昭和の聖代にこれは又一つの変つた迷信話――場所は渋谷道玄坂の目抜きの大通りと拡張された宇田川通りとの分点の真ン中にヌツと立つ囲り四尺〔約1.2メートル〕たらず高さ三十余尺〔9-10メートル程度〕のたゞ一本の松の木がそれである

この松が何時頃からあるのかハツキリわからないが古い事は古く、昔は物見の松といつて、兇刃に倒れた不遇な死者をその根本に埋めたのださうだが、これも確かでない

確なことゝいへば、大正十五年頃、永田某といふ土地の地主が二十余軒の借家<しやくか>を新設するのに邪魔だとあつて、一枝バラリと切り落したところ、その夜<よ>から熱病にうなされ間もなく一家数名バタ/\死んでしまつたさうだ

『ナーニ迷信だよ偶然のことさそんな馬鹿げた因果があらうはずはないさ』

と馬鹿にしてかゝつた連中が、木に登つたり小便をしかけたりするとそれが皆てき面に熱をだしたりするといふ訳で町民は『人殺しの松』だの『竜神の松』と名づけて近寄らないやうにした

ところが今度区画整理で今まで家の裏にあつたこの松が道の真中にはみ出てしまつたので、どうでも切りとるか移転しなければならない、しかし府としても町民から無気味にも恐ろしい数々の事実を挙げてどうか切りとらないでくれと歎願されてみるとふりあげた手をおろされぬ始末

しかもこの間<かん>更にとび頭<かしら>が病む小便居士が転がる、木登りが腰をぬかす、付近の大和田小学校では先生が児童を集めて『決してあの木に近づいてはいけません』と訓話するといふ始末

結局府でも処置に困り十一月二日付で町民に下付してしまつたがこの日をもつて『人殺しの松』は一躍『出世の松』と名も改められ、木の根には立札が立つ、三宝には秋の実りがそなへられて善男善女が参詣するといふ大盛況に早変り

東京朝日新聞 昭和5(1930)年11月6日夕刊・2面

渋谷の高台に家の不思議【1922.4.20 東京朝日】

東京・渋谷町の高台にある家は大正5年以来、6人の人が住んだが、そのうち4人が皆、15日に死んでいる。中でも2人の軍人が死んだ前日には、邸内の鬼門に当たる厩で主人の愛馬が亡くなっており、呪われた家と噂されている。

渋谷の高台に
家の不思議
住むものは死ぬ
忌日も同じ謎の十五日
馬にまつはる因縁話
うまく逃れた筑紫将軍

階上の窓には島津邸の森が迫り遥に都会の姿が一眸<ぼう>の中<うち>に集<あつま>つて居る市外渋谷町〔現・東京都渋谷区〕字下渋谷一一七吉和田秀雄氏の家は此高台の立派な住宅である、主人の吉和田氏は去る十五日脳膜炎で死に昨日は麻布笄<かうがひ>〔港区〕の大安寺に

法要が営まれ

たが、この高台の家を中心として奇怪な風評がパツと起つた大正五年から今年迄此家に住む程の人は殆ど死霊に取憑れたやうに眠つて終<しま>ふ、而<しか>もその死ぬ日は月こそ違へ皆十五日である、呪はれた家の最初の犠牲者は歩兵大佐中川幸助氏で、参謀本部に勤務し少将に昇進し豊橋旅団長を拝命の辞令を得た歓びの五月十五日に倒れるやうに永眠した、昨年六月十五日に死んだ会社員武藤武全氏が

引越して来る前

にも二人目の犠牲者があつた、この界隈では当時既に迷信的な噂が起つて居たが、武藤氏は頗<すこぶ>る強健な人で、『噂や迷信を担<かつ>いで居ては都会生活は出来ない』実際武藤氏は住宅難の渦中へ飛込んで苦しんだ揚句担ぎやの夫人を励<はげ>まして風評の中<なか>へ飛込んだ偉大な体格で而も強健な武藤氏の家庭はこだわりのない生活が続いたが、或る日勤めの帰途広尾橋の電車停留場で下車する時

電車に跳ねられ

て酷<ひど>い打撲傷を負った、手術に依つて家族も全快の時を楽しんだが、その期待は裏切られて遂に排血疾といふ病名の下<もと>に死んだ、二人目の死亡者は東宮武官として聞こえた陸軍少将小川健之助〔賢之助〕氏、内臓の故障でやはりまた五月十五日が忌日に当る、中川、小川両氏の忌日は五月十五日、その上また別に両氏の死に愛馬の死との因縁話もまつはつて居る、両氏が死ぬ前日二頭の愛馬が何<いづ>れも主人公に先だつて斃<たふ>れた

主人の死を予報

したやうな此愛馬の厩<うまや>は邸内裏門に接した北の恰度<ちやうど>鬼門に当つて居た、住宅は堂々たる構へで何等<なんら>不快な感じを与へる箇所はない、階上に寝室、書斎、客間など起居の部屋があって階下は応接間と食堂、台所、書生部屋に当られてある、南向きの総二階で日射の加減も陰欝でなく明かるい、そこに宿命の影の翳<かざ>す気配もない、中川少将が参謀本部詰の際、三井社員の住宅を買つて材料とした建築である、爾来中川少将

未亡人の持物で

あつたのを昨年秋吉和田氏が買つて住んだ、吉和田氏は京橋区〔現・中央区〕宗十郎町の店に電気機械販売を営んで居る、病弱な為<た>保養を目的に芝区〔現・港区〕神谷町の住宅から越して来たので、当時は庭いぢりや小鳥飼ひを楽しんで居たが、死ぬ両三日前不図<ふと>病床に臥<ふ>した儘<まゝ><た>たなくなつた、中川少将以来この家に住んだ人が六人ある死んだ四人の外<ほか>に陸軍技術本部長の筑紫〔熊七(1863-1944)〕中将、台湾銀行監督課長有田勉三郎両氏がある、呪はれた四人の運命に比べて

二人は祝福され

た、筑紫氏は此家で中将になつた、有田氏は支配人に栄進して去つたのである、歓びから悲みの二つの運命を包んだ此家に呪ひの因果が絡<から>んで居やうとは思へないが住宅難に悩まされる都会の人が家に対する考へに無造作な処から生れる事実には迷信以上のものもある現にこの家の堀井戸も雨の為に増減し高い家の便所や

塵芥捨場とも接

して居る筑紫中将はそれが為め直ぐ引越した死んで終<しま>つた四人と馬二頭の悲劇を語る呪はれた家の物語りが都会の人に家に対する考を深くすれば都会の家はそれ程よくなって行くであらう

東京朝日新聞 大正11(1922)年4月20日・5面

ビルの陰に漂う香華【1955.5.28 読売】

東京・池袋駅東口の広場に辻斬りの犠牲者を慰霊する「身代介の院」がある。何度か移転話が出たが、話を持ち出した人が急死してから、それっきりになっている。

池袋駅東口
ビルの陰に漂う香華
あだおろそかにすまじ“身代介サマ”

○…池袋駅東口の“広場”に立つと時として線香のにおいが漂うことがある-この辺りはその昔、徳川八代将軍吉宗〔(1684-1751; 在職1716-45)〕のころ、板橋から雑司ヶ谷へ抜ける街道と礫川(小石川)と長崎を結ぶ街道との交差する四つじでつじぎりの名所だった。享保五〔1720〕年、村人たちが「南無妙法蓮華経」の碑を立てて犠牲者の霊を慰めた。人呼んで「身代介<みよけん>の院」-以来願事一切かなうとあって二の日の縁日はもちろん平日も参けい人を誘って香華は絶えなかった。

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【写真】(上)池袋村いまや大東京の北の玄関口とはなる=矢印が「身代介」の院(下)ミヨケンさま、つじ切りに代る“つじ姫”の犠牲者を慰めるか?

 ○…時移って、この池袋村も大東京の玄関となり、 銀行が並び、映画館がひしめき、ネオンが踊る大盛り場。西口、東口と二つの広場をひかえた駅は一日三十万という乗降客にもまれるとあって“アプレ盛り場”の呼名もキレイに返上、いまや一人前。ところが、この“身代介サマ”の建っている場所が悪い。東口広場のまん中とあっては発展のガンになることおびただしい。幾度か移転の問題も起きたが、あるとき、“身代介さん”がすごく怒ったことがあった。移転の話を持ちだした人がコロッと死んでしまったのだ。サア大変“二百年余の恩はオロソカに出来ないワイ”というわけで移転話はそれっきりになってしまった。といってもお祭などはおよびもつかない。西武デパート、駅、売店などに囲まれて人一人入るのが精一杯の場所にすでに閉じ込められてしまっているのだ。ただ駅前に住む大蔵孝さんや西武鉄道の池袋駅従業員の人たちが掃除をし花を供え線香をあげているだけ。池袋署でも交通安全にあやかってもらおうと年に一度は丁重なお参りをするとか。しかし、それもいつまで続くことか。ステーション・ビルの建設、東口商店街の計画などが本格的に設計されている今日、“身代介サマ”の移動もそう遠いことではあるまい。

駅前
広場

○…ともあれ、身代介サマの線香のにおいをかき消して、きょうも西、東の広場にはおびただしい数の客引女給、夜の女が脂粉の香を流し、チンピラ連がたむろしている。

読売新聞 昭和30(1955)年5月28日・6面

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