「消防地蔵尊」の由来【1955.11.28 朝日】
東京・新富町にあった建具店が火事に遭い、従業員が焼死。跡地に消防署の出張所ができたが、管内で火事や事故が多発。焼死者のたたりを鎮めるため、戦後、出張所前に消防地蔵が建てると、事故や火事はなくなった。
二十七日午後、中央区新富町二ノ二京橋消防署新富町出張所前歩道の「消防地蔵尊」に同町一、二丁目町会の主婦や子供たちがお線香や花をあげてお参りしていた。二十六日から始った秋の火災予防週間の一行事として同町会と京橋消防署が合同で行った「消防地蔵尊供養」の一コマである。日本中であまりその名を聞かぬ「消防地蔵」の由来は――
現在の出張所の場所に久保建具店という店があったが、十三年二月十二日〔正しくは昭和16(1941)年2月13日未明〕火事にあい、店員二人と女中一人が逃げ遅れて焼け死んだ。その後同店裏に出張所が出来たが、管内に火事が多いうえに消防士が事故で死んだり、負傷したり、病気になったりする者が多く、戦前に引つづき戦後も不吉な状態が続いた。そして下町気質の町の人々の間には「焼け死んだ人人のたたりだ」といううわさがたち始めた。特に三人の焼死者のうち若い店員の一人は、あとの二人を救おうとして猛火の中に飛込んで死んだというので、「消防精神の鬼と散った青年の霊を慰めねばたたりは消えぬ」と、二十八年二月同町二ノ六メリヤス製造業松島年太さん(五三)らが発起人になり、町会有志の手で出張所前に三尺〔約91センチ〕足らずの地蔵尊が建った。
その後ウソのように所員の事故は皆無、町内に火事もなくなって、本年度は京橋消防署管内の最優秀出張所として表彰されるに至った。
そこで地蔵様の“ご利益は絶大”とあって「成績が良くなるように」と子供づれのお母さんや「商売繁盛するように」と商家のだんなさんまでが信心する有様で、花の絶えることなく、毎月の命日には線香の煙が流れるようになったという。
この供養式には山室同消防署長ら署員一同のほかに鈴木同町会長や、かっぽう着姿の主婦たち、花をかかえたよい子など二百余人が参加して「今後も町中が無事でありますように」と祈りをささげた。