夢によつて危難を免かる【1895.10.24 読売】
霧島山に旅行した鹿児島の呉服商が夢で亡父に似た老人から速やかな帰宅を勧められた。翌朝、呉服商が帰途に就いた後、霧島山が噴火。呉服商は父が危険から守ってくれたと感激した。
去<さる>十六日、日向〔宮崎県〕なる霧島山噴火の際、登山者の一人<いちにん>にて鹿児島市中町、呉服店の主人、藤安仲之助といふが霊夢の為、危難を免かれたる話を聞くに、同人は兼て霧島神社〔霧島神宮〕の参詣旁々<かた/゛\>保養の為、此の程より霧島嶽の温泉場に逗留中、去る十五日の夜<よ>は昼の入浴<ゆあみ>の疲れを催ほし、何時<いつ>ともなく寝床<ふしど>に就きしに、夜半と覚しき〔思しき〕頃、我が亡親<なきおや>の面影に似たる白髪の老翁、忽然として仲之助の枕辺近く立ち顕はれ、「霧島滞留は身に取て宜しからざることあれば、早々<さう/\>郷里に帰るべし」と勧めて止まず。〔/〕
夢醒めて仲之助は別に心にも止<とゞめ>ず、翌十六日の朝も例に依て其処<そこ>らの温泉に入浴<にふよく>を試み居る際、何<な>んとなく心地悪しく、其上、手足まで麻痺するが如く覚えしは此の湯の身体に相応せざるに因るか、兎に角、不思議の事もあればあるものと心に思案の折こそあれ、端なく昨夜の夢に動<うごか>されて益々不思議に堪へず、「僅か夢の為<た>めに進退を決するとにはあらざるも、最早<もはや>神詣での事も済み居れば、イザ是<こ>れより帰麑<きげい>せん〔鹿児島に帰ろう〕」と早々に旅の用意を整へて温泉場を立退きしは早や十六日の午前八、九時頃なりしが、夫<それ>より予定の道程<みちのり>を経て正午過ぎ、西国分村〔現・鹿児島県霧島市〕浜の市〔浜之市〕に帰着せしや、忽ち轟然たる響は天地を動かして行<ゆく>人も為めに歩<ほ>を止めん計<ばか>り。地震か但しは山の鳴動かと立ち騒ぐ間<ま>もあらせず、不図<ふと>東の方<かた>、霧島嶽を望めば、団々たる黒煙は天を衝<つ>き、蒸々として立ち上<のぼ>る凄じき有様を見て仲之助は深く前夜の奇夢に感じ、「今の今まで霧島山に在りし此の身が今は安<や>す/\と此地に在るとは、夢とは云へ、全く亡親の加護に因りたるものにて此の危難を免かれたるも亦<ま>た全く此力に因れり」とて痛く心に打ち慶びつゝ、間もなく住宅に帰着して見れば、家内にても大に同人の身の上を案じ、態々<わざ/\>人を差立てたる跡にて其の帰宅を見るや、家人は一方<ひとかた>ならず其の無事を祝賀したりと云ふ。不思議な事もあるもの哉<かな>。