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2019年2月

登川校幽霊問答(上)【1920.3.17 北海タイムス】

北海道夕張町の小学校の宿直室に3人の教員が寝泊まりしていた。深夜、部屋の戸を叩く音がしたが、誰も来た形跡がない。同じことが毎晩続くので、教員一同で会議を開くことにした。

不可思議極まる
登川<のぼりかは>校幽霊問答
亡霊宿直の教員を脅<おびや>かす
科学の力では解けぬ謎
(上)  深夜訪<と>ひ来る者は誰<た>

夕張町〔現・北海道夕張市〕登川尋常高等小学校宿直室に夜な夜な怨霊現れて現在自炊せる三名の教員を脅かせりとの噂は噂を孕<はら>みて

◇全町に 喧伝するやうに到つたが、夢のやうな謎のやうな妄説なので迷信の徒の蜚語として一向に信を措<お>かなかつたが、余りに不思議なる事実を報告したものがあるので、記者は松本校長を訪問し其事実の真相を確むるに及んで、物理化学の進歩した聖代文明の世として理外の理なる亡霊問答の事実物語りを読者に紹介することを得たのである

◇現在の 同校宿直室は校長室に隣接せる八畳の間で下宿払底の為<ため>に現在自炊を営みて宿直せるは柔道の師範で胆力の据<す>はつた桑島訓導と内地〔本州〕で校長の経歴ある佐藤代用教員に中村准訓導の三教員である<しか>るに去月十八日の深更一時頃廊下に面せる戸を拳にて叩<はた>く音が聞えたので何者か訪ね来たものと思つて探索したが何等<なんら>

◇形跡を 認めなかつたのである、然るに教員室の時計が寂寥を破つて一時を告ぐる頃になると、三人の教員はさながら水を浴<あび>たやうに冷やつとして思はず戦慄した、夫<それ>から戸を叩<たゝ>くこと五晩に及んだのである、然るに其廊下は両端に硝子戸<がらすど>は閉鎖され居りて狐狸の類の入<い>るべき方法とてなきに益々<ます/\>不思議を増し此事を三名の

◇教員は 松本校長に逐一語つたのである、然るに松本校長も余りに馬鹿気<ばかげ>た話なので〔信〕を措かなかつたが、三教員の語る処余りに真面目<まじめ>なので一応尚三晩研究すべき旨を命じたのである、三教員は爰<こゝ>に於て胆<たん>を練り妖怪の正体を見現<みあらは>さんと敦圉<いきま>いた、然るに夜は更<ふけ>て物凄くなると思はず

◇眠気<ねむけ> 催したかと思ふと力なげに戸を頻りに叩くものがある、斯<かく>して三晩を経過したので、二十七日放課後教員一同の協議会を開き爰に問答を開始した結果、洵<まこと>に不可思議な理外の理なる事実を確めた、狐狸か妖怪か亡霊の暗示は文明の世にあるべからざる事実を語る乞ふ明日<みやうにち>を待て………

北海タイムス 大正9(1920)年3月17日・4面

不思議な人形【1920.3.3 読売】

柳原白蓮の生家にみどり丸という人形が秘蔵されている。人形には、同じ部屋に寝ていた女中が物の怪に襲われたとか、顔を塗り変えた人形師が変死したといった怪談がある。

不思議な人形
『みどり丸』の劇と伝説
白蓮婦人の手で舞台に現はれる

雑誌『解放』四月号に掲載される戯曲「みどり丸」には雛人形に因む奇<く>しき物語りがあります。この戯曲はあの有名な白蓮女史伊藤燁子〔柳原白蓮(1885-1967)〕夫人の作られたもので、物語りの筋は或るお邸<やしき>

守護神<まもりがみ> として永く伝はる人形がありました人形の名はみどり丸と云つて、この人形のために代々この邸から一人づゝ必ず犠牲者が出るのでした、所でこのお邸の若殿は生れながらの白痴で、その妹の茶地姫はまた幼い時分から不思議にも「みどり丸」が大層好きで、この人形に霊魂<たましひ>があるやうに思ふてゐました、「みどり丸」も亦以前<まへ>から

茶地姫 を慕ふてゐましたが、その思ひの届かぬのを遺恨に思ふて、若殿を病に苦しめる事にしました、そこで阿闍梨の瑞雲といふ者が若殿の御悩<ごなう>平癒を祈る為<た>めに邸に呼ばれましたが、自分もまた茶地姫の美しさに思ひを悩ます身となつたので、お祈りも出来ず、その趣を茶地姫に話して一人淋しく

山奥へ 隠れてしまひました、茶地姫は悲しくなり「みどり丸」を犇<ひし>と抱いて「あゝ私を慕ふて呉れるものは雲の上人でもなければ、国主大名でもない、無位無官の白衣<びやくえ>の人とお前さまだけよ、みどり丸やお前は息も通はぬ冷たい人形だけれど、私はお前の外<ほか>に誰も思ひはせぬゆゑ、妬みなどはして下さるな」と頬ずりをすると云ふ所で物語は終つて居ります、燁子夫人の生家柳原伯爵家には此人形と同じ名の「みどり丸」が守護神として祀られてある事は

有名な 話しですが、此人形の由来を尚よく聞いて見ますと、之<これ>は亀山天皇〔(1249-1305・在位1260-74)〕御秘蔵の人形で背に御親筆で「みどり丸」と書いてあるさうです、そして柳原家に仕へた女中が一夜、この人形のお部屋に寝てゐて物の怪に襲はれたといふ伝説もあり、また或人形師が「みどり丸」の顔を塗り換へた所が不思議な死因で世を去つたといふ怪談染みた話もあります。燁子夫人は此の人形の為めに一襲<かさね>の衣装をお誂へになつたさうですが、尚ほみどり丸」は

春四月 初め、同夫人作指鬘外道」及び生田長江〔(1882-1936)〕氏作「責任者」と共に飯塚友一郎〔(1894-1983)〕氏主事の創作劇場の手に依つて、大阪公会堂の五日間を振出しに各大都市の舞台に登り、夫人の現住地博多の興行を済ませて四月下旬帝劇〔帝国劇場〕か有楽座へ上場するさうです。尚夫人は巡廻興行に先<さきだ>つて三月中旬頃、創作劇場と打合せの為め東上されるさうです

読売新聞 大正9(1920)年3月3日・4面

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