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逍遥とお化け屋敷【1957.7.10 読売】

明治末、東京・余丁町で継母が娘を折檻死させた屋敷は売られたが、入居者が死んだり病気になったりして住み手がいなくなった。そこへ坪内逍遥が引っ越し、文芸協会演劇研究所を設置。しかし数年後に協会は解散。そこで活躍した松井須磨子も自殺。近所ではお化け屋敷のたたりと噂した。

東京不思議地図 余丁町 ………①………

東京の現代地図の上に、むかしの江戸地図や明治地図をつみ重ねてごらんなさい。たちどころに、不思議なモンタージュ地図ができ上る。この地図、じっとヒトミをこらしてつぶさに査察してみると早い話が、テレビ塔とお菊の亡霊が二重うつしになるなど、お盆むき、暑気払いの話のタネがいたるところに発見できそうだ。そこでこの不思議地図をたよりに、都内をパトロールしてみた。古参新参の幽霊の足あとや怪奇ばなしの夢のあとを探るために―。

「お化屋敷に、ちかごろ、朝っから三味線が聞えるってえじゃねえか」

「そうよ、ドタバタ踊ったり、はねたり、いったい何者だろう。こんど引越してきたのは…」

新宿区余丁町百十四番地―いや当時、つまり明治末期、ランプに代って電機が輝きはじめたころだから、まだ大久保余丁町といっていた。

町内の連中、よるとさわるとこのウワサだ。もの好きは板ベイの節穴から、新しい転入者の動静をさぐってきて、手柄顔にした。

この屋敷、かつて母一人、娘〔当時(1900年)の報道によると、知人の娘〕一人の生さぬ仲の親子が、住んでいた。近所づきあいもなくひっそりした邸内から、絶えずヒーヒーと娘の泣き声が聞える。

「また、はじめやがった。ままっ子いじめがよお」

だれも気味悪がって、近づこうとしない。人権擁護局のなかった時代だ。

母親は若づくりだが、五十すぎ、一見してそれ者上りとわかる身のこなし。娘は九つ〔当時の報道では14歳〕

ある日、その母親が娘を横抱きにひっかかえて、はだしのまま表にとび出し、町医者のところにかけこんだ〔当時の報道では医者が来診〕。金火バシみたいに、やせ細った娘はすでに冷たくなっていた。折かんのすえ、長持の中にほうりこんでおいたのが、夕方、変に静かなので、開けて〔原文「っ開けて」〕みたら、この始末だった。

逍遥とお化け屋敷

さすがの鬼婆も、この騒ぎにいたたまれず、屋敷をたたき売って〔原文「売て」〕行方をくらました〔当時の報道によれば、逮捕後に売却〕。しかし娘のたたりは、この屋敷にいつまでも残った。

次々と引越してくるが、家族が死にたえたり、病人が続出したりして、住みつく者がなく、長いことこの家は「お化屋敷」の空家となっていた。

そこへにぎにぎしく引越してきたのが坪内逍遥〔(1859-1935)〕博士である。明治四十二年、五十一歳のときだ。ここに文芸協会演劇研究所が生れ、松井須磨子〔(1886-1919)〕と島村抱月〔(1871-1918)〕が、第一回試演会イプセン〔Henrik Ibsen(1828-1906)〕の“人形の家”によって堅く結ばれたことは、野田宇太郎〔(1909-84)〕の「東京文学散歩」によっても明らかな通り。

人権無視のお化け屋敷に、新しい女性ノラ〔イプセンの戯曲『人形の家』の主人公〕の出現。皮肉はこればかりではない。

大久保村から、閉め出され、牛込から余計もの扱いされ、文字通り、はみ出しの余丁町だったこの町が、当時「余丁町にすぎたるものが二つあり、坪内博士と和倉温泉(ツツジ見物客めあてにできたが、失敗して〔原文ママ〕銭湯)」と歌われるほど有名になっていた。だから町内の連中、やきもきして、

「大先生にたたりがなければよいが」

それから五年後〔実際は1913年〕、協会は解散、つづいてカチューシャ可愛や、ヨカナアンの首をください、で一世を風びした須磨子も抱月病死のあとを追って自殺した。

「やっぱり―お化屋敷で出来あった仲だもんな―」

都電東大久保わき抜弁天の中を抜け、左に約三百メートル、左角に弁護士生天目(なまため)健蔵〔(1906-?)〕氏の邸がある。ここが逍遥邸跡だ。むかしの面影といえば、庭に一本、見上げるばかりのカキの木があるだけ。せん夫人(五一)がバラを手入れしていた。

「昭和十六年に早大〔早稲田大学〕からここ(三百五十八坪)を買取るとき、そんな話を聞いたので調べたことがありますが、いまどき放射能雨の方が、よほどおっかないですわ、ホ、ホ、ホ」

(え・荻原賢次〔(1921-90)。挿絵割愛〕

読売新聞 昭和32(1957)年7月10日・8面

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