死体棺中に立つ【1908.9.19 大阪毎日】
三重県鈴鹿郡坂下村の大工の妻が亡くなり、葬式を済ませて墓地で埋葬しようとしていると、棺桶の中から死人が立ち上がって笑った。驚いて逃げ出した会葬者が墓地に戻ると、遺体が蘇生した形跡はなかった。
猥<みだり>に怪力<くわいりよく>乱神を語るべからずとは疇昔<いにしへ>の聖人も誡め置き玉ひたる事ながら、次に記す出来事は全くの事実にして現に多くの土地の者が均<ひと>しく保証する事柄なれば、兎も角も聞<きゝ>得たる儘を報ぜんに、三重県鈴鹿郡阪の下〔坂下村(現・亀山市)〕字沓掛三十七番戸住、大工職、山下金兵衛(四十二)といふ者あり。妻は紀州南牟婁郡入鹿村〔現・熊野市〕字矢川の生れにて桐山吉左衛門三女きん(四十)といひ、今を去る二十年ばかり以前に金兵衛方に嫁し、爾来、夫婦中〔仲〕は人目羨ましきほど睦まじく暮し居たるに、此程に至りおきんは弗<ふ>とせる病気に取<とり>つかれ、四、五日寝たる此月十二日午前八時、突然、大熱を発して死亡したれば、「真誠<まこと>に夢のやうな」と亭主の金兵衛が嘆きは一方<かた>ならず、村の誰彼始め親族の者等<ら>も急を聞きて駆着<かけつ>け来り、「死ぬにしても余り呆気のない死様<しによう>をしたもの。せめては半月か一月位は寝て居ても可<よさ>さうなものを」と悔みやら慰めやら男泣<をとこなき>に泣き沈む金兵衛を漸く撫<なだ>めて偖<さて>打捨<うちすて>置くべきにあらねば、手伝の連中が手を別<わか>ち、其筋へも届出<とゞけい>で、取敢<とりあへ>ず野辺送りの用意あらまし整へ、越<こえ>て翌々日の十四日、近親及び村の知己<ちかづき>三、四十名の会葬者に送られ、葬式を出<いだ>したるが、此辺<このあたり>の土地の習慣とて出棺は必ず日没以後との定めなるより、金兵衛方にても又其例に習ひ、出棺を報知する鐘打鳴<うちなら>し、いよ/\行列の動き始めたるは其夜<そのよ>(十四日)も更け初<そめ>たる九時前後にして棺<くわん>が金兵衛方とは十余丁〔千数百メートル〕を隔てし埋葬場所、同村林雨寺の墓地に着したるは十時三十分頃なりしが、誰が悪戯か、昼の間に掘置きたる墓地の穴には石塊<いしころ>土くれなど打込<うちこみ>ありて剰<あまつさ>へ子供にても其中に入<い>りたりと覚<おぼ>しく、小さき人の足形などが印し居り、穴の底、極めて浅くなり居るにぞ、「それではならず」と金兵衛始め親族の者二、三名、急に寺の庫裡より二、三挺<てう>の鍬を借<かり>来り、棺桶は横手に差置き、朧ろに照<てら>す月光を便り〔頼り〕にセツセツと埋れし穴を掘り深め居たる折しもあれ、不思議や、なま温<ぬる>き一陣の風墓地の裏なる竹藪の梢をかすめてざわざわ/\と吹き来りしと思へば、地上に据<すゑ>たる棺桶急に蠢<うごめ>き始め見る/\其上を十文字に結び固めし新らしき三条の荒縄ぷツつと切断<きれ>て桶の蓋は彼方に飛<とび>去り、その中よりは現在二日以前に死亡したる妻のおきんが額の角帽子に経帷衣<けうかたびら>の死出の装束その儘すつくと立上<たちあが>り夫の金兵衛を見やりつゝ、「ホヽ」と打笑ひし不思議の有様見るより金兵衛は勿論、今しも読経の最中なりし同寺の住職、前田賢音師も小僧も親族も会葬者もきやつとばかり腰抜<ぬか>さんほどに仰天し、棺も何も打捨<うちすて>置き、一時に本堂に逃込<にげこみ>たり。〔/〕
然しものがものだけ、其儘に打捨て置<おか>れねば、金兵衛は親族一同に頼み、恐る/\打連れ、墓地に取<とつ>て返し、見ると、棺を縛りし縄の切断<せつだん>され居ると棺の蓋の墓石<ぼせき>の間に飛散り居るとは今の先見たると其まゝ相違なきも、死体はその棺中にグタリと押込<おしこめ>られて更に蘇生したる痕跡もなかりしが、去<さり>とて此屍体が棺中に立上り、「ホヽ」と打笑みたる事実は独り金兵衛だけが見たる訳ではなく、親族も村の者も当寺の住職も見たる事とて「如何に今、死人は蘇生せる模様なしとは言へ、何分此儘に埋葬する事は如何にしても忍び得ぬ事なれば」と一同は協議の上、兎も角棺桶には蓋をなし、葬儀は一時中止となし、再び金兵衛方に担ぎ戻り、其夜<そのよ>は一同通夜をなしたるも、一向に異<ことな>る事もなく、屍体よりは臭気をさへ発し出せしに、翌十五日、改めて葬儀の出直しをなし、此度は火葬に附しつ荼毘一片の煙とは化し去<さら>しめたり、〔/〕
事余りに奇怪なるも、以上凡<すべ>て事実なるは当日会葬せる数十名の村人が保証する処なり。(伊勢通信)
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