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彰義隊員の墓碑下谷電話局の屋上に【1961.3.24 読売】

東京・台東区の下谷電話局は関東大震災後に再建された際、工事で負傷者が続出。宿直の用務員が馬の蹄の音や人間の亡霊にうなされるので、調べると、彰義隊員が討ち死にした場所に建っていることが分かった。そこで局員は隊員の墓を作り、供養を続けてきた。今回、建て替える電話局の屋上に新しい墓碑を作ることになった。

彰義隊員の墓碑
下谷電話局の屋上に
ビル新築に通じた局員の“供養”

台東区仲御徒町三丁目下谷電話局ではいま地下一階、地上六階(普通の建てもの八階分の高さ)の鉄筋コンクリートビルを建築、現在の同局三倍の電話を収容できる規模にする予定だ。ところでこの近代的な建てものの屋上に彰義隊員の墓をつくる、つくらないで局員と公社〔日本電信電話公社(現・NTT)〕側で久しくもめていたが、このほどようやく局員側の誠意が通じて屋上に墓碑をつくることになった。局員と不幸な維新の犠牲者をめぐる話題。

下谷電話局が大正十二年の関東大震災にいためつけられて再建されたのは大正十四年一月のこと。この再建工事中からしばしばここでは異変があった。工事中に負傷者が続出したのである。そればかりではない、建て物が完成してからも不吉なことが続いた。宿直の用務員が寝ている夜中にうなされた。どこからともなくウマのヒヅメの音がきこえ人間の亡霊が現われるというのである。まだ迷信の尊ばれるころではあり、こんな日が幾日もあるのでたちまち局員の間にうわさが広まった。ひょっとしたらだれか殺されて埋められているのではなかろうかという声まで出た。その結果、この辺の歴史を調べたところやはりこの裏づけが出て来たのだ。

新築工事進む下谷電話局

上野の山で彰義隊が敗北したさい隊員の一人藤田重之丞なる武士の一族郎党がちょうど電話局のある土地で討ち死に、縁故者もないまま埋められて忘れられていた。そしてたまたまそこに電話局が建てられたというわけである。その後、同局は昭和四年に隣接地に鉄筋四階建ての事務所が建てられて墓をつくる余地はなかったが、局員は金を出しあって建て物とヘイの間のわずかなすき間にコンクリートで墓をつくり、用務員室にイハイをまつって藤田家とその部下、ならびにウマの霊をおさめ、命日に当たる五月十七日には付近の寺から坊さんをよんで供養、毎月十七日には局員が花をかざって手を合わせた。

亡霊もヒヅメの音もしなくなってそれから三十余年、局の人は変わったが、この善行は局員の手で続けられていた。最近になってご多分にもれずこの地区も電話不足、拡張しなければならなくなり、昭和四年の建て物をこわしてこんど新築工事をすることになった。公社の方ではこうした善行を一向に知らなかった。このため局員がつくった墓碑もとりこわされてしまったが、これを知った局員はふんがいした。

動機は怪談めいた話に違いないが、いまでは無縁の犠牲者をなぐさめる心に変わっているのだ。そこで公社側にせめて屋上にでも墓碑を移すよう交渉した。いったん設計したものを変更するのはむずかしい。公社側はこの要求には反対の意向だったがとうとう局員の善行を無視できなくなった。と同時にこうしたやさしい行為がやがては局員のサービス精神にも良い影響ありとみてこのほど局側に屋上にきれいな自然石の墓碑をつくることを通知してきた。

いまコンクリートの古い墓碑は付近の蓮城寺にあずけられているが、イハイは同局の用務員室に収められて相変わらず局員の供養をうけている。

読売新聞 1961(昭和36)年3月24日(金)10面

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