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新俳西川秀之助の怨霊病【1909.3.13 読売】

新派俳優・西川秀之助は7-8年前、興行に行った熊谷近辺で宿屋の娘と恋仲になったものの、娘の親に知られて西川は宿を追われることに。娘と西川は鉄道自殺を図るが、怖じ気づいた西川だけ逃げて生き延びた。以来、夜な夜な枕もとに現れる娘に悩まされ、西川は病弱になったという。

●新俳西川秀之助の怨霊病
「乳姉妹<ちきやうだい>君江中止

真砂座出勤の俳優西川秀之助〔(1877-1910)〕はまだ其れ程の歳でもないのに数年前<ぜん>から両脚不随呂律<ろれつ>も充分には廻り兼ねて台詞の引立たぬ事夥しく<しか>も年百年中顔色<がんしよく>蒼白の欠勤勝ち只の一興行と雖<いへど>も無事に演<や>り通したことは恐らくないと云つて良い位である今度の『乳姉妹』にも君江の役を蒙つて稽古にまで取りかゝつたのだが生憎<あいにく>と又病発に止むなく河村昶<あきら>に代つて貰つて目下自宅で加療中だが同人の病因に就いては夜分は聞かれぬ怖物語<こわものがたり>がある

▲今を去る七八年前 彼<か>れが地方興行に出で武州熊ケ谷<ひ>〔埼玉県熊谷市〕<あたり>を打つて居た折の事、偶<ふ>としたことから患ひ付いて某旅宿の二階に長逗留を余儀なくした其れが為<た>め収入<みいり>は止まる勘定は嵩<かさ><こ>れや何<ど>うせうと余計な心配さへ湧いて出た処へ前つ方から唯<た>だならず好意を表<へう>されて居た其家<そのや>の娘お何と云へるに二世も三世もと膝擦り寄せられ出花匂やかな娘盛りの満更憎くもないのみか、「目前<めさき>に支<つか>へた旅賃<やどちん>の言延<いひのべ>には是こそ屈強と横手を打ち<いや>とは云はぬ稲舟の遂に割なき仲となつたが娘は其れより同人が身の辺<まわり>万端一手に引受けて憂慮も不自由もすつぱり払ひ退<の>けたいぢらしの操立て

▲情死場<しんぢうば>から逃出す さはれ此娘<このこ>は未<ま>だ親がゝり。さう/\金の続かう様もなく不義理の借財山と嵩んで親の耳にも聞えたゝめ可愛さ余つての厳<きつ>い小言は百万荼羅西川には早速退去の命令さへ加はつた娘の悲嘆譬ふるに物なく思ひ詰めた末が『一緒に死んで』と男に迫る当時西川も切なる其情にほだされて<さ>らばと互に抱合ふ西枕附近の鉄道線路に無情をかこつ時しもあれ轟々たる進行の響、上野行の列車は早や間一髪と迫つた突如西川は起<た>つて逃げ腰となる娘は驚き其袂を取つて『西川さん貴方<あなた>逃げるんですか』と只一言、此世の名残り身も名残りさしも花の姿は骨牌微塵に砕かれた之に反し一旦死遅れた西川は怖気<おじけ>立つて其儘<そのまゝ>韋駄天走り部屋へ帰つて<と>も角も造化<しあはせ>良しと灯火<ともしび>の影に身内を検すればアヽラ穢<きた>なや右の袂に血汐の飛沫<しぶき>

▲轢断<ひきちぎ>れた片腕 さへ恨みの一念に堅くシガミ付いて居た<ぎよつ>とした西川さりとて今更に詮術<せんすべ>もなく身の毛の弥立<よだ>つ思ひして無理からに其腕を離し闇を知るべに再び線路へ取つて返して南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」。腕は程よき処に打棄<うちゝや>つて何喰はぬ顔に翌朝は早々の出立、偖<さ>て宿屋では娘の轢死に肝を潰し『其れ程思ひ込んだのなら又分別のあつたものを』と両親<ふたおや>の涙線香の煙、死人に口無うして遂に西川は人の疑念<うたがひ>を購<か>はなかつたされど彼れにも良心がある殊に人一倍神経質な西川は帰京以来深き思ひに打沈み

▲夜な/\枕頭<まくらもと> にハテ人の気配と眼を開<あ>けば洋灯<らんぷ>の彼方に朦朧と立つ娘の姿、お誂<あつら>への本釣鐘さへ往々聞えて『逃げるんですか』の怨声<えんせい>まざ/\と耳に湧く<か>くて彼れ今日<こんにち>の無名病は発生し名医の投薬も不動様の護摩札も末毫の効果<しるし>を示さず五体は日に月に瘠せて細つた<さう>して彼れ自身如上の事実を能<よ>く何人にも語る其れは罪障消滅の微衷に出でた物だとかで多くの人に懺悔した夜<よ>は安々と眠れるけれどさもない時は今でも屡々夢中に悩ませられることがあるとか<なづ>けて之を西川の怨霊病と云ふ終りに臨んで記者一言を献ず彼れにして向後善心怠りなくんば娘は自<おのづ>から解脱して必ずや宿年の愁眉を啓<ひら>くを得んと喝!!

読売新聞 1909(明治42)年3月13日(土)3面

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