安寺山中の怪火【1909.12.25 東京朝日】
茨城県久慈郡・安寺の山中で男が宙に浮く怪火の一団を発見した。火は消しに向かうと遠ざかり、逃げれば前方に現れるので、男は恐怖の余り失神。捜索に出た家族に救助されたが、家族は怪火には気付かなかった。
茨城県久慈郡高倉村〔現・常陸太田市〕大字上高倉字安寺は隣部落、持方と共に平家の落武者が楯籠つた処で有名な深山の奥なるが、此程、同字の増子某なるもの、字小草<こくさ>へ行きての帰り途<みち>、例の夏猶雪を吹く谷沢の流を陟<わた>り、岨<そは>を攀ぢんとする折柄、暮懸る右手<めて>の頂に暗<やみ>を染め抜く漂々たる怪火一団、動くが如く止<とゞ>まるが如く宙に小迷<さまよ>ひ居るより、「山火事ならば、消し止<と>めん」と俄に馳せ出<いだ>したるに、走れば走る程、怪火も段々遠くなり、果は何時<いつ>の間にか左手<ゆんで>の谷深く頽<くづ>れ入らんとする様子なるより、増子は怖ぢ気立ち、後をも見ずして一目散に逃げ走れば、怪火は又も目の前数町<すちやう>〔数百メートル〕の彼方に現はれ、或は赤く、或は白く、又黄色くなるなど、只事にはあるまじく思はるゝに、増子は恐怖の余り気を失ひ、其儘大地に倒れたるを帰の程を案じて捜しに出でたる家族の者に援<すく>はれしが、其際も怪火は猶頭上高くかゝり居たれど、家族の者は別に気も着かでありけるとなん。〔/〕
近来、頻々として斯<かゝ>る変化<へんげ>めきたる怪火沙汰を耳にするこそ、奇怪至極なれ。
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