敵陣に死の四日【1939.6.14夕 東京朝日】
中国の奉新・安義防衛戦で斥候に出た一等兵が敵陣に捕えられたが、脱出。夜のクリークに潜み、死を覚悟したとき、前年に戦死した兄が現れた。一等兵は亡兄に導かれて3日間無我夢中で歩き続け、援軍のもとにたどり着いた。
【安義にて桑島特派員十日発】敵の重囲中に四日間、彷徨し、不思議や、戦死せる兄の英霊に導かれ、憔悴の身を無事、生還した一等兵に絡まる戦場秘話がある、戦友達の温かい看護に漸く元気を回復した母袋部隊、足立磨一等兵(大分県出身)が昨夏、中支〔中国中部〕荻港の敵前上陸に壮烈な戦死を遂げた実兄の遺品双眼鏡を一入〔ひとしお〕なつかしさうに眺めながら語つたものである――断末魔の苦闘のうち、戦場の闇に浮き上つた亡き兄の尊い姿、それは生死の境を幾度か突破した激戦参加の勇士のみ信じ得る世にも稀な奇譚であらう。
奉新、安義を奪還すべく押寄せた数万の強敵を奉新南方十数キロ、〇〇附近で阻止した四月下旬の大激戦の際、少数の兵力をもつて大敵に巧妙な作戦を挑まうと宗像軍曹以下六名の騎兵斥候<せきこう>に敵状偵察の重要任務が与へられた、同月二十三日早朝、折悪しく濃霧の中に姿を互に見失はぬやう連絡を密にしつゝ〔原文「つゝつ」〕、馬上の雄姿はぐん/\進んで行つた、薄<うす>陽が射し、霧が晴れ上て見ると、辺<あたり>はすつかり敵陣地だ、驚愕する斥候兵の
頭上 を掠めて恐るべき敵の狙撃弾が容赦なく降り注いで来た。
馬を降り、素早く応戦したが、弾丸は瞬く間に尽き、「もうこれまで――」と肉弾を決意して無我夢中の奮戦を続け、『わあツ!』といふ敵兵の鯨波の声を最後に耳にしたまゝ、足立一等兵はすつかり気を失つてゐたのだ、それからどれだけの時間が経つたのか。同一等兵は冷たい岩の上に倒れてゐた、漸く意識を回復すると、戦友達の姿は見えず、敵兵が近くに一名、悠々と佇立んで〔たたずんで〕居る、わが身はと見れば、疲労困憊の極にある、咄嗟に忘れてゐた重要任務の報告と生への愛着が激しく蘇つて来た。
精神力といふものは偉大なもので、力が勃然と起つて来た。「何糞ツ!」と監視兵の頭部を銃の床尾鈑で一撃、昏倒するのを見済まして岩影づたひに遁れようとしたが、疲労のため、ふら/\の足を踏みしめながら進むと、今度は珍しくも女監視兵がゐた、これも倒し、こゝでも危機を脱したが、よく見ると、五十メートル程の所には敵の
迫撃 砲が向ふを向いて据ゑられ、一団の兵隊がゐる、彼は今、敵陣の背後に唯一人、潜入してゐるわが身を発見した、疲れ切つた身体<からだ>に死力を尽して脱出した、やつと敵影を認めなくなると、大急ぎで鉄兜から靴の先まで木の青葉を千切つて擬装し、地図を唯一の頼りに転びつゝ前進して行く、どこをどう彷つたか、夜に入つた、空腹の身をぢつと三時間余り草の生ひ茂つたクリークの中へ浸つてゐると、四面、敵の声。「もう駄目だ」といつた諦らめが起つて来る。「どうせ助からぬなら、手榴弾でも敵兵に投げつけてから」とかつとなつて闇を睨んだ儘、構へてゐたその時だつた。不思議にもぼうつと前方が明るくなると、そこには頭部を繃帯で巻いた歩哨姿の亡き兄がはつきりと足立一等兵の目に映つた。「おゝ兄貴だつ」。嬉しさに感極まつて夢中で後をつけて行つた。「スイヤスイヤ」と誰何する支那〔中国〕兵の怒号、大勢の女軍の囁きなどはつきりと耳に聞きながらも、これには目もくれず、無我夢中で兄を追ひ続けた、兄の姿は一の稜線に導くと、更に次の
稜線 の上にぼうつと現れた、それを繰返す事、幾夜を経過したか覚えぬが、クリークを渡り、岩壁を攀<よ>ぢ、或は敵の歩哨線を巧に抜け、敵陣を遂に脱出して三日目の夜<よ>、田園中の一軒家まで来ると、兄の姿はすつかり消え失せてしまつた。
かくて敵中を彷ふ事、数里、同一等兵が精も根も尽き、辿りついたところは母袋部隊救援のため出動してゐた落合部隊の歩哨線だつた、任務を帯びて出発以来丸四日目の明方近くだつた、歩哨から誰何されて「友軍です」と只一言、最後の勇気を搾つて答へた儘、倒れ込んだのである、足立一等兵は今は全く夢から覚めたやうな気持になり、当時を思ひ出しては、まだ帰らぬ戦友を気遣ひつゝ、亡き兄の霊に感涙を絞つてる〔原文ママ〕。
« 戦線・霊の交流 奇譚二つ【1937.10.25夕 東京朝日】 | トップページ | 魂魄北辺に留つて皇軍撤収を加護【1943.8.24夕 毎日】 »