首つぎ地蔵由来記【1934.4.10 東京朝日】
東京・護国寺で読経する会の参加者の一人が首のない地蔵の夢を見た。数日後、夢で見たのと同じ首のない地蔵を練馬の野原で発見。このことを読経の会で話すと、会員の婦人の家に知人が持ち込んだ地蔵の首が安置されているという。その首を練馬の首なし地蔵につないでみると、ぴったりと一致した。話を聞いた人々が押し寄せ、地蔵は「首接地蔵尊」として人気になった。
「首接<くびつぎ>地蔵縁起絵巻展」が十四日、小石川〔東京都文京区〕護国寺月光殿に開催されることになり、正木直彦〔美術行政官・教育者(1862-1940)〕、松岡映丘〔日本画家(1881-1938)〕両氏から案内状が各方面にだされた、この絵巻は昨年来、松岡氏がこの縁起絵巻を発起して燦木社同人の中居良次、松垣鶴雄〔鶴夫〕、穴山勝堂〔日本画家(1890-1971)〕、福富二穂、車谷桃園、新田梨花、小村澄心、鹿児島一橋、山田義雄氏等<ら>が彩管をふるひ、正木氏の地蔵尊由来記によつてけんらんたる芸術的な絵巻二巻が完成したものだ。=写真は松岡映丘画伯作絵巻の一部=
さてこの首接地蔵尊の由来といふのが正木、松岡氏等を巡る世にも奇<く>しき物語りで、画壇の噂となつてゐる、それは正木氏等によつて護国寺に暁天会といふ朝の看経<かんきん>の会が組織されてゐるが、昨年〔正しくは「一昨年」(1932[昭和7]年)〕十一月五日朝のこと。この会の仲間の守屋広太郎氏が詰経を終へた後<のち>、
昨夜とその前の晩と二日続けて首の無い地蔵さんが野原の中に立つてゐられる夢を見た
といふ話があつたが、数日して大師詣の時に守屋氏が夢の地蔵尊と寸分違はぬ首のない地蔵尊を練馬の野原の中で見つけたといふ話に一同は正夢の不思議に非常に興を深くした。
その時、正木氏夫人が
私のところに首だけの地蔵様がありますが、その地蔵様に首をつけてあげたら、いかゞなものでせう

といふ申出<まうしい>で、この首だけの地蔵様は数年前に死去した飲んべいの加藤居山画伯が震災〔関東大震災(1923)〕の後間もなく正木氏のところへ
横寺町(牛込)〔新宿区〕で拾つたんですが
と持つて来た首だけの地蔵尊、正木家ではもつたい〔原文ママ〕といふので、同家の庭に安置してあつたのだ。
それで十一月の末にこの首を地蔵尊に接<つ>いでみると、石質も年代も同じで、ぴつたりと合つたのに、連中、三度の不思議に目を見はつたのだつた、それを伝へ聞いた付近の人達のお詣りで賑はひ、練馬の雑木林のやぶの中の地蔵尊は十一月二十九日に普山派〔豊山派〕本山、小林〔正盛(1876-1937)〕大僧正を導師として画壇の名士等により盛んな開眼式が挙げられた。
これに次いで地蔵尊の霊顕あらたかな話が伝はつて雑木林は拓かれてかや屋根が立ち、東京からも出かける参詣者まであり、「中村橋首接地蔵尊」として善男善女の人気を集めてゐる、この場所は武蔵野電車〔現・西武鉄道〕中村橋付近の麦畑の中にあるこんもりした雑木林の中で付近の南蔵院支配地の寺跡といはれるところ、今では雑木林が切り開かれて茶店が二軒も立つてゐる。
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東京・護国寺で読経をする会に参加するある人が首のない地蔵の夢を見た。その人はその後、夢で見たものとそっくりな首のない地蔵を板橋区中村で偶然、発見。このことを同じ読経の会の婦人に話すと、婦人の家では関東大震災以来、地蔵の首を所蔵しているという。その首を板橋の首なし地蔵に合わせてみると、首がぴったりつながった。そこで高僧を招いて法要を営むことになった。... [続きを読む]
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