アラ恐や形見の面【1936.3.4夕 読売】
東京・足立区に住む浪曲師が凄まじい形相のお化けの面に悩まされている。お面は5代・林家正蔵が形見として弟子に与えたもので、その弟子を師にもつ浪曲師が譲り受けた。お面を浪曲師に渡した師匠は間もなく病死。お面を使った浪曲を演じると、客が激減。家族が病気になったり等、災難が絶えないので、お面を菩提寺に封じ込めることにした。

何ものの作とも知れぬ稀代の逸品、そのおバケの面にたゝられた怪談浪曲師があまりの怖<おそ>ろしさに、これを菩提寺に封じこめようといふ『ネオン・東京』にはおよそ縁遠い大時代な話―足立区本木町に住んでゐる怪談浪曲師の浪華綱右衛門、それがお面に悩まされてゐる当人だ、お面は二尺に一尺〔1尺=約30.3センチ〕といふ、すでに大きさで人を呑まうといふグロテスクなもの、乳房のやうに垂れ下つた左の眼、右は月形の半眼<がん>、麻のやうなざんばら髪、口からは赤いものがタラ/\と流れやうといふ、物凄さはかつて無き逸品。
重宝 なことにこの面はお岩にもかさね〔累〕にもなれるやうに出来てゐるのだが、そのうへ、誰の仕業か、痛んだ面を濃鼠<ねずみ>の布で張つたため、いよ/\陰<いん>に沈んで、お面を見るものの誰彼なしにうらめしやをあびせたい風情である、百六歳で沼津で死んだ初代林家正蔵〔5代目(1824-1923)〕、どこで手に入れたか、この面を秘蔵してゐて死ぬときに形見として弟子の中川海老蔵にやつた、昭和五年の秋の暮れ、女房を奪はれての苦のわづらひから、明日知れぬ命の噂もあつた海老蔵が杖に縋<すが>つて弟子の綱右衛門の家へ影のやうに現はれた、風呂敷から件<くだん>の面を取出して涙ぐみながら
形見 にやるといふ話に、綱右衛門は何の気もなく受取つたが、さて帰つて一週間目、海老蔵の死んだ知らせをうけた、綱右衛門はこの面を使つて四谷怪談の浪曲に仕込み、深川〔江東区〕の桜館にはじめて持ち出すと、きのふまで来てゐた三百の客が十四、五に減る、翌晩は木戸に大喧嘩があつて血の雨がふる。昭和七年には弟子の綱行にこの面の埃を払つてから久々で冠せ〔かぶせ〕、写真に撮ると、言葉の行違ひで猫の様におとなしい綱行と喧嘩になり、ビール瓶<びん>で殴つて怪我をさせ、家内は病気のしつづけ、家作はいつの間にか人手に渡る始末、この間なぞも遊びに来た伊藤静雨〔晴雨(1882-1961)。日本画家〕氏と禁物のお面の話になつたが、静雨氏が帰ると間もなく、夫人の死んだ知らせをうけるなぞ、お面のたゝリは手をのばして止まるところ知らぬため、近く菩提寺の浅草玉姫町〔台東区〕永伝寺の川上住職と、話し合つた末、お面供養をして、仏の力でこの名作を手も足も出ぬやうに同寺へ永久に封じこめることゝなつた。
綱右衛門さんの話―『このお面と一つ家にゐれば、心中でもせねばなりません、床の間に祀つてお神酒まであげてるのに、何の不平でかうまで祟るのでせう、二、三日前もね、こいつをうつかり持つて鳩ケ谷へ語りに行つたら、あの大雪でお客が一人も来ず、這々のていで逃げて来ました、ええ、封じこめますとも、いかに名作でも、こんな物がうちにあつたのでは命までなくしますよ、飛んでもねえ物を背負ひこんだものだ』。ひでえことになる、あの大雪もかうなると、お面のせゐかな?
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