乃木大将の妖怪談【1909.8.7 東京日日】
学習院長・乃木希典は生徒に乞われ、妖怪に出逢った2度の体験について話した。1つは少年時代、深夜の萩の山道を歩く女を見たことで、後ろから追い越すと、消えて再び前方に姿を現した。もう1つは軍務で金沢の宿屋に泊まったときのこと。3階で寝ようとすると、枕元に若い女が現れて眠れない。後で聞くと、宿屋の主人の妻が3階で虐待されて死んだという。
学習院長、伯爵、乃木〔希典(1849-1912)〕大将が昨年来、院内官舎に生徒と共に起臥し、生徒を愛撫すること、慈母の赤子に於けるが如きものあることは徧<あまね>く世に知られて居る事実だが、生徒の方でも大将を敬慕し、宛然<まるで>御父さんの様に考へて居ると見えて院長々々と附き纏<まと>ふ。〔/〕
つい先き頃の事だが、一生徒が何処<どこ>で聞いて来たか、大将は昔、妖怪に出遭つたことがあるさうだと云ひ出したので、寄宿生談話会のをり、大将に其の話をして下さいと懇望した。大将は「さう/\若い時に其<そ>んな事もあつたよ」と徐<しづか>に語り出でたのは、▲玉井山上の妖怪 一件で在た。「自分は今でこそ余り恐<こは>いなどゝ思ふ事はないが、少年時代には非常に臆病で、朋友<ともだち>にも屡々<しば/\>侮られた程であつた。何でも十五、六の頃、其時は尚<まだ>長門〔山口県〕の萩に居たが、一夜<あるよ>、遽<にわ>かの用事で七、八里〔約27-31キロ〕距<へだゝ>つた町まで使を命ぜられた。否<いや>とも云はれんから、恐々ながら一人、夜道を辿つて玉井山まで行つたのは草木も眠る丑満時。山気、身に迫つて肌<はだへ>に粟を生じ、風は全く落ちて動くものは樹<こ>の間<ま>を洩<も>る星の瞬きと自分許<ばか>り。心細くもトボ/\と猶山深く入<は>いつて行くと、濃い靄が一面に降りて咫尺<しせき>も弁じなくなつた〔すぐ近くのものも見分けられなくなった〕。之<こ>れは困つたと思つて捜<さぐ>り足で進んで行く内、突然、自分の前一、二間〔約1.8-3.6メートル〕距<はな>れた処に蛇の目の傘を翳<さ>し、白足袋を穿<は>いた女がヌツと現はれた。咫尺も弁ぜずと云ふ濃い靄の中で其の傘と白足袋だけが瞭然<はつきり>見えるのだから、之は心の迷か狐狸の悪戯<いたづら>か、何にしても真実<ほんとう>の人間ではあるまいと身構へして右の方に避けて通らうとする。其の女は傘で上半身を隠したまゝ、行き違つてフツと消えてしまつた。不思議な事もあるものと恐<おそろし>くなつて道を急いだが、少時<しばらく>すると、復<また>其の女が自分の前へ現はれ、今度も前の通り、行き違ふや、フツと消えた。今になつても彼<あれ>は何<ど>う云ふ物か、或は何うして見えたのか判らないで、実に不思議だと思つて居る。〔/〕
それからもう一度、之は大分後だが、軍務を帯びて加賀〔石川県〕の金沢へ行つた時、▲三層楼の妖美人 に二日続けて悩まされたことがある。其時、泊つたのは三階建の宿屋で、自分は見晴しの好い三階座敷に陣取つた。扨<さて>夜<よ>に入つて床を敷けと云ふと、老人の下婢が『二階に伸べてございます』と云ふから、変なことをすると思つて『デは今夜は二階で寝るが、明日の晩は三階に敷いて呉れ』と頼んで其晩は寝た。ところが、其の翌晩も依然、二階に床を伸べたので、之は夜具を三階に運ぶのが辛いからであらうと婆さんを呼んで叱りつけ、三階に移させ、トロ/\と寝たら、誰か其室に入つて来た者がある。枕許<まくらもと>に置いた有明灯<ありあけ>〔有明行灯(あんどん)〕は明又滅、薄暗い中を透して見ると、奇怪千万、齢若<としわか>い女が悄然<しよんぼり>坐つて居る。ジツと見て居ると、自分の枕許へ来て蚊帳<かや>越しに自分の顔の傍<そば>へ顔を寄せて来る。之はと思つて跳ね起きたら、誰も居ない。夢でゞもあつたらうと復寝ると、復来る。寝さへすれば、出て来るので、到頭未<ま>だ夜の明けない内に起きたが、其んな事には人に話せないから、黙つて居たが、其晩、他処<よそ>から帰つて婆さんに床は敷いたかと訊<き>くと、『三階に伸べました』と云ふ。少々閉口して渋々ながら寝ると、果して復出て来た。其晩もロクに寝ずじまひで夜が明けると、婆さんが『旦那は二晩ともロクに御寝<およら>ない様ですが、もう今晩からは二階で御寝<おやす>みなさい』と勧告したので、遂に降参してしまつた。後で聞けば、其の旅館の主人が妻を虐待して三階の柱に縛<くゝ>りつけ、妻は恨を遺して死んだのださうなが、未だ其話を聞かないうちに幽霊を見たのだから、之も今だに〔未だに〕不審に思つて居る」と。
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