怪談“豆自動車”【1937.6.22夕 東京朝日】
山本薩夫の撮影隊が伊豆にロケに行く途中、崖から転落寸前の無人の自動車を見付けた。撮影後、一行は温泉宿で同宿になった山本嘉次郎の撮影隊から問題の自動車の運転手は崖下に転落死していたことを知らされる。その晩、同じ部屋に泊った女優2人が共に男に首を絞められる夢を見てうなされた。翌朝、宿の人に尋ねると、そこは自殺があった開かずの部屋だと知らされた。
初夏にふさはしいロケーシヨン綺譚――去る十日のこと、P・C・L〔現・東宝〕の山本薩夫〔映画監督(1910-83)〕組が伊豆ロケに向かふべく深夜の東京をロケ・バスで出発、午前三時頃、熱海市門川地内〔正確には門川は神奈川県湯河原町に属する〕
海沿ひの県道
に差かゝると、高さ二尺〔約60センチ〕の石の柵をまたいで、一台の豆自動車〔小型自動車〕がライトをつけつ放しのまゝ停止して居る危機一髪の光景に遭遇した、不審に思つた一同、ヒラリ/\とバスから下りて近付いて見ると、先づ目についたのが破損した運転台のガラス、続いて海岸側に開かれたドア、運転台には人影さへも見えない、で、尚よく附近を調べると、背広の上衣<ぎ>と帽子が石の柵の傍に落ちてゐたので、物好きな一同、額を集めて評議の末、
ともかく事故は事故に違ひあるまい、中央か左側かを走るべきものが、右側の石の柵に
乗りあげてゐる
ところを見ると、運転に馴れない素人か、さもなければ酔払ひだ。きつと自分の手に負へない事故なので、歩いて熱海あたりへ救ひを求めに行つたものだらう
といふことに意見が一致し、「武士は相見互ひ〔同じ立場の者は互いに助け合うべき〕」とばかりライトを消し、ドアを閉め、背広の上衣はたたんで帽子と一緒に車の中へ入れて立去つた、そしてその日の中にロケを終つて下田から○○温泉へまはり、某旅館に落付くと、バツタリ出会つたのが同じくロケにやつて来たP・C・Lの山本嘉次郎〔映画監督(1902-74)〕組。
そして話すこと
に、
今朝八時頃、熱海街道に、自殺か他殺か過失か判らぬ事件があつた
といふ、よく聞けば、さつきの豆自動車の一件である、嘉次郎組は尚語りつゞけて
あの石の柵の下は百尺〔約30メートル〕余の崖になつてゐて、その下の波打際に一人の青年が死んでゐた、自動車の事故とすれば、過つて〔誤って〕石の柵にのり上げた拍子にドアが開いて墜落したとも考へられるが、それにしてはライトも消えて居り、上衣や帽子もキチンと車の中にあつてどうもをかしい、検視の係官も判断に迷つてゐた――
仰天した薩夫組
の面々、顔見合せて実は斯々<かく/\>しかじかと打開け、「ハテ不思議な因縁の巡り合せもあるもの」と、一同、胸に恐れを抱きつゝ寝についた、ところが、その夜も更けたうしみつ時、離れの一室から突如、異様なうめき声が聞<きこ>え出した、さつきの一件でスツカリ神経を昂<たか>ぶらせてゐた連中、びつくりして調べてみると、うめきもうめき若い女の、しかも一人は霧立のぼる〔女優(1917-72)〕、一人は山県直代〔女優(1915-)〕のうめき声だ、早速、一同、ワイワイ集まつて起して見ると、お約束通り両女は
ビツシヨリ冷汗
をかいてゐる、わけを聞けば、不思議や二人とも同じ夢を見てゐたのだ、その夢とは――
物凄い形相の男が重く/\のしかゝつて来て首をしめつける、いくら身体を動かさうと思つても動かばこそ――
『そんなことがあるもんか』と笑つた撮影部の元気者が、代つてその離れへ寝て見ると、やつぱり似たやうな夢にうなされて一晩中、まんじりとも出来なかつた、翌朝、宿の女中にこの事を話すと、『やつぱり、さうですか』といふ返事。
驚いて詰問する
と、これはしたり、その離れの一室こそ、数年前、厭世自殺をした男があつて以来、開かずの部屋になつてゐたのを、「前夜あまりの満員に、仕方なく使用しました、どうぞお許し下さい」と番頭以下、総出の陳謝。今更呶鳴<どな>つたところが始まらず、一騎当千の面々もほう/\の態<てい>でそこを逃げ出した……といふのである。
