〔気弱な夫の怨念〕【1879.1.15 かなよみ】
東京・露月町に住む大工が妻の浮気を気に病み、病死した。妻は夫の看病をせず、没後早々に再婚した。その後、大工が住んでいた家に越してきた士族の未亡人が毎晩夜中に怨めしそうな職人風の男の姿を見た。近所では大工の幽霊が出たと評判になっている。
○幽霊の正体見たり枯柳。例の心経病〔神経病〕から起つたことか。〔/〕
露月町<ろうげつちやう>〔東京都港区東新橋2丁目・新橋5丁目〕の裏家に住む大工職の米吉は至つて気の小さひ生質<たち>であつたが、女房某<それ>は本夫<おつと>と違ひ、不貞腐<ふてくされ>の呑湖<のんこ>の洒蛙<しやあ>/\〔ずうずうしい〕。兼て熊とかいふ色男〔情夫〕のある事を米吉も薄/\知り、夫<それ>を気病<きやみ>のぶら/\病ひ。どつと床に着<つい>て居たが、女房は死ねがしに〔死ねと言わんばかりに〕看病<みとり>もろく/\せぬ不実意。殊に色男の熊とかに折々何処<どこ>でか逢引をして楽しむと米吉が聞<きく>度毎にさし込て竟<つひ>に一昨年の冬のはじめ、病者<びやうにん>は鬼籍に入<い>り、帰らぬ旅へ趣くと、妻は心に大悦<おほよろ>こび。初七日そこ/\世帯<しよたい>を仕舞ひ、里方へ引とられ、其後、近所へ面目ないか、横須賀辺へ縁付たとやら。〔/〕
音信<いんしん>不通に近隣では種々<いろ/\>な取沙汰に米吉の墓参りをして妻の不実を憤ほり、呆れて居る計<ばか>りであつたが、其住居<すまゐ>は死去の後、暫らく空家で居る内に昨年の月迫<おしつめ>〔年末〕に士族の後家で、野崎およし「三十七」といふ孀婦<やもめ>暮しが引越して住居<すま>つて居ると、お由は此ごろ、風邪<ふうじや>に侵され、二、三日、床に着て居たが、毎夜/\二時ごろに夢現<ゆめうつゝ>となく枕元へぼんやりと顕はれるは四十前後の男にて目倉縞〔盲縞。紺無地〕と見える着物に三尺帯〔鯨尺で長さ3尺(約114センチ)の手拭いを帯代わりに締めたもの〕、いかにも職人体にてたゞ恨めしさうにおよしの顔を中腰になつて詠<なが>める計り。物言たげの容子<やうす>〔様子〕ゆゑ、なみ/\の女なら、ワツと気絶もするとこだが、およしは以前、武家の果〔かつての武家の子孫〕、中々気丈な生れゆゑ、眼を眠つて〔つぶって〕は念仏称<とな>へ、気の迷ひかと翌晩も試して見ると、四、五夜つゞけて此通り。〔/〕
余り不思議と或日、隣家の何某へ斯々<かう/\>と話すと、その人は身の毛いよ立<だち>、ぶる/\物で実は是々<これ/\>斯々と彼<かの>米吉が一部始終を話し、扠<さて>こそ怨念が残つたのでありませうと雨夜話しの百物語りは此ごろ、近所での大評判。然し麁相<そゝ>ツかしい幽霊サ、門違ひにヒウドロ/\とは。