1960年代

少女の“夢マクラ”に死体【1964.3.22夕 読売】

東京・練馬区に住む少女が近所の寺の雑木林に人が死んでいる夢を見た。翌朝寺に行くと、首だけの死体があった。届けを受けた警察が一帯を調べると、死体の胴体も見つかった。

少女の“夢マクラ”に死体
その通りに首と胴
練馬のお寺で見つける

お彼岸の二十二日朝、東京・練馬のお寺の境内で首と胴体がバラバラの男の変死体が見つかった。近所の十六歳になる少女の“夢マクラ”に死体が現われ、翌日ユメの通り現場に行ったところ、首があったという。練馬署では警視庁の応援を求めて死因、身元の捜査を始めた。

同日午前九時ごろ練馬区春日町一の二六六六、真言宗愛染院(白井正雄住職)境内雑木林の中に、なかば白骨化した男の首と胴体が見つかった。首は道路沿いの生けがきから約一メートル奥にあり、胴体は墓地をはさんで反対側のササやぶの中にうつ伏せになっていた。

練馬署の調べで、この男は三十―四十歳、一メートル六〇くらいで、紺コールテンのオープンシャツ、もめんのニッカーズボン、紺の地下たびをはいており、一見職人ふう。日本手ぬぐいが肩にかけるようにしてある。首は切断されたものでなく、死後、イヌかなにかが食いちぎって持ち出したらしい。服装や腐乱状態から死後約半年ぐらいたっていると同署は見ている。

“まさ夢”をみた佐々木よし子さん

死因ははっきりしないが、自殺とみられる。

最初発見したのは、現場から約二百メートル離れた同寺裏の同町一の二七三一板金工浅間久三さん方にいるメイの洋裁見習い佐々木よし子さん(一六)。十九日夜「お寺の道路沿い境内の雑木林の中に人が死んでいる」という夢を見て、翌二十日朝、半信半疑のまま寺に寄ったところ、夢で見た通り首だけがあった。びっくりして家に飛んで帰ったが、浅間さんの妻和子さん(三三)に話してもとり合ってくれない。夕食のとき久三さんにも話したが信じてくれなかったという。

それでもよし子さんが「確かにあった」というので、翌二十一日朝、現場にきたところまだ首があったので同署春日町交番に届けた。

同署でも、はじめ墓地の中からイヌが白骨をくわえ出したのかと考えていたが、二十二日朝、約二万平方メートルの同寺の境内を“山狩り”したところ胴体を発見した。

読売新聞 昭和39(1964)年3月22日(日)夕刊9面

彰義隊員の墓碑下谷電話局の屋上に【1961.3.24 読売】

東京・台東区の下谷電話局は関東大震災後に再建された際、工事で負傷者が続出。宿直の用務員が馬の蹄の音や人間の亡霊にうなされるので、調べると、彰義隊員が討ち死にした場所に建っていることが分かった。そこで局員は隊員の墓を作り、供養を続けてきた。今回、建て替える電話局の屋上に新しい墓碑を作ることになった。

彰義隊員の墓碑
下谷電話局の屋上に
ビル新築に通じた局員の“供養”

台東区仲御徒町三丁目下谷電話局ではいま地下一階、地上六階(普通の建てもの八階分の高さ)の鉄筋コンクリートビルを建築、現在の同局三倍の電話を収容できる規模にする予定だ。ところでこの近代的な建てものの屋上に彰義隊員の墓をつくる、つくらないで局員と公社〔日本電信電話公社(現・NTT)〕側で久しくもめていたが、このほどようやく局員側の誠意が通じて屋上に墓碑をつくることになった。局員と不幸な維新の犠牲者をめぐる話題。

下谷電話局が大正十二年の関東大震災にいためつけられて再建されたのは大正十四年一月のこと。この再建工事中からしばしばここでは異変があった。工事中に負傷者が続出したのである。そればかりではない、建て物が完成してからも不吉なことが続いた。宿直の用務員が寝ている夜中にうなされた。どこからともなくウマのヒヅメの音がきこえ人間の亡霊が現われるというのである。まだ迷信の尊ばれるころではあり、こんな日が幾日もあるのでたちまち局員の間にうわさが広まった。ひょっとしたらだれか殺されて埋められているのではなかろうかという声まで出た。その結果、この辺の歴史を調べたところやはりこの裏づけが出て来たのだ。

新築工事進む下谷電話局

上野の山で彰義隊が敗北したさい隊員の一人藤田重之丞なる武士の一族郎党がちょうど電話局のある土地で討ち死に、縁故者もないまま埋められて忘れられていた。そしてたまたまそこに電話局が建てられたというわけである。その後、同局は昭和四年に隣接地に鉄筋四階建ての事務所が建てられて墓をつくる余地はなかったが、局員は金を出しあって建て物とヘイの間のわずかなすき間にコンクリートで墓をつくり、用務員室にイハイをまつって藤田家とその部下、ならびにウマの霊をおさめ、命日に当たる五月十七日には付近の寺から坊さんをよんで供養、毎月十七日には局員が花をかざって手を合わせた。

亡霊もヒヅメの音もしなくなってそれから三十余年、局の人は変わったが、この善行は局員の手で続けられていた。最近になってご多分にもれずこの地区も電話不足、拡張しなければならなくなり、昭和四年の建て物をこわしてこんど新築工事をすることになった。公社の方ではこうした善行を一向に知らなかった。このため局員がつくった墓碑もとりこわされてしまったが、これを知った局員はふんがいした。

動機は怪談めいた話に違いないが、いまでは無縁の犠牲者をなぐさめる心に変わっているのだ。そこで公社側にせめて屋上にでも墓碑を移すよう交渉した。いったん設計したものを変更するのはむずかしい。公社側はこの要求には反対の意向だったがとうとう局員の善行を無視できなくなった。と同時にこうしたやさしい行為がやがては局員のサービス精神にも良い影響ありとみてこのほど局側に屋上にきれいな自然石の墓碑をつくることを通知してきた。

いまコンクリートの古い墓碑は付近の蓮城寺にあずけられているが、イハイは同局の用務員室に収められて相変わらず局員の供養をうけている。

読売新聞 1961(昭和36)年3月24日(金)10面

国道に幽霊が出る?!【1961.8.30 毎日】

昨年開通した京葉道路の東京・江戸川区一之江橋から谷河内のカーブにかけて女の幽霊が出ると噂される。その区間では1年余りの間に交通事故が多発し、即死者が出ている。

国道に幽霊が出る?!
見物の車がワンサ
京葉道路たたりで死傷者続出

東京都心と千葉の工業地帯を結ぶ京葉道路に幽霊がでる。去年の夏からそんなウワサが流れはじめた。宇宙時代にそんなバカなと否定はしても、こわいもの見たさの人は絶えず、27日には車で幽霊見物に出かけた9人がコンクリート電柱に衝突、重軽傷を負ったことから“幽霊のたたりだ”と騒ぎが一層大きくなり28日夜は午前2時ころまで、幽霊がでるという東京江戸川区一之江橋に見物の車が20台も押しかける騒ぎ。本当に幽霊が出るのだろうか―。

スーッと消えた女

〇…昨年夏、東京墨田区の若い運転手が、京葉道路東京側入口に近い一之江橋の近くを走っていると、前方に女の姿を認め急停車したが、止まったときには姿が見えなかったと仲間に話したことから“国道の幽霊”ばなしがはじまった。この七月はじめ子供が病気で医者を呼ぼうと母親が電話ボックスに入ろうとしたところ、ボックスの中に若い女を見つけた。ところが突然その女が消え、母親が何度ダイヤルを回しても電話がかからなかったという話が伝わった。

それ以後は主として国道を走る運転手たちの間で「ちょうど夜中の十二時にやはり京葉道路の谷河内のカーブで女が赤ん坊を抱いて手をあげているので、乗せようと車を止めたが消えていた。まもなく背中をたたかれたように思ってバックミラーをのぞくと、女の顔が写っていた」というウワサが流れ出し、幽霊の出る場所も、いつの間にか一之江橋の東京寄りの高圧線の下、電話ボックスの前、谷河内のカーブの三ヵ所にきまった。

㊤夜になってもヘッドライトの切れ目がない京葉国道、このカーブで多くの人命が奪われている(東京江戸川区谷河内)㊦幽霊がでるといわれる西一之江町の柳の木

危険な曲り角の犠牲

〇…こうなっては近くの交番でもウワサだけで片付けるわけにゆかず、深夜の十二時から二度張り込んだが、目ざす幽霊は現われず、代わりにこの場所はいずれも交通事故がよく起きる場所であることに気がついた。特に谷河内のカーブは、京葉道路でも最も大きな事故の多い所で、京葉道路の開通した昨年の四月二十八日の夜、モーターバイクに乗った江戸川区西一之江の農業、安井詮一さん(四七)が、このカーブで頭を打って即死したのを皮切りに、五月四日には千葉市今井町に住む会社員、鹿間与一郎さん(五〇)が乗用車にはねられて即死するという事故が重なった。

怪談を生んだ事故

〇…ことしは二月二十四日、江戸川区谷河内町の無職、田島ふみ子さん(四四)が子供三人をつれてふろからの帰り道このカーブを横切ろうとして、乗用車にはねられ四十メートルもひきずられて即死した。子供三人の見ている前だった。ぶつかった車の右前照灯から右ボンネット(前頭部)にかけて、ふみさんの身体の型が残っていたといわれるいたましい事故だった。また四番目の犠牲者となった千葉県市川市稲荷木の工員、吉田誼さん(一七)が死んだときには、お母さんが毎日のように現場に来て悲嘆にくれていたという。

このような痛ましい事故が幽霊を生んだ、そもそもの根拠となったらしい。

もう一ヵ所幽霊の出るといわれる一之江橋の東京寄りの高圧線の下でも、昨年八月四日と、ことしの六月六日に死亡事故、このほかにも谷河内のカーブから一之江橋付近にかけて開通以来八件にのぼる死傷事故がおきている。

〇…京葉道路の管理をしている日本道路公団東京支社京葉道路管理事務所では、この道路の事故についてこう語っている。

昨年四月からすでに即死七人を含む百五十件の事故があるが、スピードアップと同時に、歩行者、モーターバイクの通行を禁止したので、これからはずっと事故は少なくなると思う。

幽霊よりヤジ馬が

〇…この幽霊騒ぎで手をやいている一之江橋近くの江戸川区西一之江二の一七六六、K不動産会社の奥さんは「ここには絶対幽霊はでません。でるというなら私が髪をふり乱してでてやるから―」と前置きして「昨夜も午前二時ごろまで、二十台くらい幽霊見物がいました。ひどい人になると店の戸をたたいて“幽霊はこのあたりですか”とくるんですからこっちは睡眠不足でやりきれません。それというのも家のワキに柳の木があり、その隣りが電話ボックスなのでそれが車窓にボーッとかすんで見えるらしいですね。深夜にお化けはここですかとくるほうがよっぽどお化けです」と眠れない怒りをぶちまけている。

幽霊の執念よりこわいのはヤジ馬根性ではなかろうか―。

毎日新聞 1961(昭和36)年8月30日(水)10面

赤でんわ〔半分の死体に引かれた?〕【1960.8.5夕 毎日】

常磐線の鉄橋に男が飛び込み、轢断された死体の上半身が川に落ちた。深夜、警官が舟で捜索していると、1人が川へ落下。「半分の死体に引かれたか」とからかいながら同僚が懐中電灯で照らすと、川に落ちた警官のすぐ横にちぎれた死体の上半身が浮いていた。

赤でんわ

○…「おバケ?怪談?そんなものはおかしくって。ワッハッハ…」と豪快に笑いとばしていた柔道四段のお巡りさんが、ムシ暑いある夜「デッデッ出たァ」と絶叫しひや汗を流したお話。先月二十六日夜、常磐線中川鉄橋の中ほどで若い男が下り列車にとびこみ自殺した。死体は上、下半身に切られ、上半身が鉄橋下の中川に落ちた。

○…事件を片づけるためには放っておくわけにいかず、真夜中というのに西新井署員三人が懐中電灯片手に和船をこぎ出し夏の夜のスリラーよろしく“上半身ヤーイ”と捜しはじめた。ところが死体が落ちたガード下にさしかかると、ロをこいでいた柔道四段氏、足でもスベらせたのか、舟べりから川の中にドボーン。

○…「どうしたんだ、川に落ちた半分の死体にヒかれたのかネ」と、船に残った二人の係官が、四段氏をからかいながら、懐中電灯のあかりを川面に照らすと、四段氏の顔のすぐわきにちぎれた上半身がポッカリ。「デッデッ出たァー」と四段氏、汚れた川水をガボリとのみこんで、声とも叫びともつかぬあわてよう。さいわい体が水の中につかっていたので腰はぬけなかったようだが「なかなかみつからないのでウンざりしていたところに突然“捜しもの”がでてきたので感激したまでサ」と、四段氏いぜん強気。

毎日新聞 1960(昭和35)年8月5日(金)夕刊6面