6代・尾上梅幸は東京・新橋の芸者となじみになったが、柳橋の別の芸者に気移りした。新橋芸者はそれがもとで胸を患い、亡くなった。梅幸は柳橋芸者と結婚。夫婦の間に息子が2人生まれたが、どちらも若死にし、梅幸も長生きしなかった。歌舞伎界では新橋芸者の祟りだと言われる。
東京不思議地図 ⑳
新 橋
「半四郎の手、田之助の足」といえば、劇界では有名な話である。
四代目の岩井半四郎〔(1747-1800)〕は、愛人の腕をうち砕いて死なせたのがタタり、代々手の病気に苦しんだ。
三代目沢村田之助〔(1845-78)〕は柳橋の千代吉、小静などを隅田川に身投げさせるほど移り気だったのがタタりダッソ(脱疽)病で両足を切断「惜しや田之さん、あんよがないよ」とうたわれながら三十四歳の若さで狂い死んだ。
ところで先代尾上梅幸〔6代(1870-1934)〕の色ざんげとなると女のタタリの半減期はぐんとのびてストロンチウムなみになる。
五代目菊五郎〔(1844-1903)〕の養子となってまだ栄三郎といっていた二十歳代のころの話である。
若さと美ぼうプラス人気役者、従ってどこへ行っても配給辞退に骨が折れるくらいだ。準内地米に内地米、外米、混合米と数ある中から、新橋芸者の小文というスベスベのモチはだとできてしまった。
小文は浅草聖天町の火消の頭の娘だけあって、その立姿の美しさときたら新橋随一、この水際立った美男美女に五代目もほれぼれと目を細め二人の仲を認めたくらいだ。
ところがである。人もうらやむ仲があっという間に、外れたチエの輪みたいになってしまった。栄三郎の手中に柳橋の君子(のちに正妻)というアダ花が咲いたのだ。小文はよりをもどそうと栄三郎を追いかけまわすがオール三球三振、これがもとで胸を患い、新橋近くの土橋の自宅療養から赤十字病院へ。
「あいたい人にみんなあえたけど、たった一人新富町(栄三郎の住居)の…」
臨終の小文のいじらしさにだれ一人泣かぬ者はなかった。「栄三郎・小文会談」を早期実現させようと応援団が多数かけつけた。イの一番がかの有名なお鯉〔(1880-1948)〕さん=のちに桂太郎〔(1848-1913)〕の愛しょう(妾)=当時は市村家橘(十五代目市村羽左衛門)〔(1874-1945)〕の細君だったよしみで「がんばるのよ、家橘がきっとつれてくるからネ」
二番は東京指折りの顔役石定親分〔高橋文吉(1845-1901)〕、三番は魚河岸の山庄ダンナ、共に栄三郎説得に一はだぬいだ。
四番は五代目菊五郎「安心しなよ、栄のヤツ、こんどこそ引っぱってくるから」五番は小文のダンナの銀行家池田鎌三氏、それまで敬遠しつづけた栄三郎も世論に抗しきれず、しぶしぶ病室の入口まで足を運んだが、どうしても中に入らない。
梅幸にふられた芸者
せめて声でもとせつかれて、やむなくたった一声「小文」すると夢からさめたように「あなた」これが小文の最後の声であった。
栄三郎は間もなく君子と結婚した。その晴れの結婚式場で、栄三郎は真っ青になってふるえ上った。花嫁がしめている帯はなんと小文が生前愛用していたものだ。
小文は無類の帯道楽で、能衣装のほごしたものや、古代裂を集めて仕立てさせた。死後日本橋仲通りの骨とう屋道明に買いもどさせた一筋が選りに選って君子の晴れ着におさまろうとは―。
五代目の死後栄三郎は梅幸を名のり、君子との仲に出来た長男〔7代・尾上栄三郎(1900-26)〕に栄三郎をつがせた。しかし長男は三十の声を聞かぬうちに死んだ。次男の泰次郎〔尾上泰次郎(1909-27)〕はコカイン中毒で若死した。梅幸も初老をすぎたばかりでこの世から去った。
「小文のタタリだよ」
この話は偶然の連続かもしれない。しかし劇界というところは、そうでなくても御幣をかつぐところだ。
ついさきごろ、花柳章太郎さんもいっていた。「井筒屋のお柳にふんして舞台へ出ると、クラクラと目まいがして倒れそうになる。おかしんだよ。オイランの芝居というときまってこれなんだ。タタリかな」
え・荻原 賢次〔挿絵割愛〕
(おわり)
読売新聞 昭和32(1957)年7月31日・6面