1950年代

きょうから解体工事【1957.7.17 読売】

心中事件の巻き添えで焼けた東京・谷中天王寺の五重塔の解体が始まる。地元では早くも「塔のそばにお化けが出る」との噂が絶えない。

きょうから解体工事
谷中の五重塔 “お化け”のうわさも

○…さる六日朝心中事件のまきぞえをくって焼失した谷中〔東京都台東区〕の天王寺五重塔はきょう十七日朝から解体が始められる。塔再建の見通しもつかず焼跡整理も費用の点ではかどらなかったがこのほど整理だけは文京区のM建設と二十七万円で話しあいがついた。同社では延べ百五十人の人夫で主としてノコギリなどで切り落しながら解体していくが、高さ三十五メートルという大きなものなので万一の事故を考えて、墓地の混雑するお盆の間は遠慮したもの。

○…比較的焼け残った一階付近の木材は“遺品”として塔の元の所有者天王寺にかえされ、同寺ではこれで毘沙門堂を建立する。また塔の跡は将来同墓地の納骨堂になる。

○…都谷中霊園管理事務所では焼け跡から銅板が三トンも出てとんだ遺産だと苦笑い。一方このヒカリものをネラう者が早速現れ谷中署に捕ったものもいる。ただ同事務所で頭を悩ませているのは使いものにならない焼けぼっくい。一応整理して塔のそばに置いてあるが最近はおフロ屋さんも燃料改革で引きとってくれず、またそのまま放っておいて浮浪者などのいたずらの材料にでもなっては困るというわけ。

○…また地元には早くも「塔のそばにオバケが出る」というウワサがしきり。墓地の中にある〔原文「中ある」〕お寺のお坊さんは「あんな死に方をすれば地獄だって受付けてくれないからきっと浮かばれないでしょう」と冷い意見。五重塔は焼けてとんだ夏の夜話まで生んでいる。

【写真は解体を待つ五重塔の残がい】



読売新聞 昭和32(1957)年7月17日・8面

消えた「お化け大会」録音テープ【1953.7.26夕 読売】

ラジオ局でお盆に放送予定で録音したテープが消える怪事件発生。テーマが「お化け大会」だっただけに関係者は気味悪く感じている。

夏に怪談はつきものだが、このほどラジオ東京〔現・TBSラジオ〕で、録音ずみのテープが消え去るという怪事件が発生、関係者一同、肌に粟を生じている。

消えた「お化け大会」録音テープ
==ラジオ東京の怪事件==

問題のテープは去る十四日、お盆の中日に放送を予定されていた「小唄ごよみ」の録音を収録した分で、そのテーマがまた「小唄お化け大会」だったところからスタジオ雀のうわさとりどり。ゲストの喜多村緑郎〔(1871-1961)俳優〕以下の出演者がやむなく録音をとり直し、この放送はあらためて明後日廿八日に電波に乗る。【写真は喜多村緑郎】

読売新聞 昭和28(1953)年7月26日夕刊・4面

高射砲に兵の幽霊【1956.7.19 朝日】

日本からニューギニアに来た遺骨収集団に地元住民が高射砲陣地跡に毎晩日本兵の幽霊が出ると訴えた。収集団の僧侶が読経したことで、地元住民は安心した。

日本兵の幽霊が出るという高射砲=ハマデの丘で=入江特派員撮影
高射砲に兵の幽霊
ニューギニアで遺骨収集団ねんごろな供養

【西部ニューギニアで入江記者】幽霊というものがあるかないか、その判断は別として、これはニューギニアの戦跡で聞いた日本兵の幽霊の物語――

四日、ホーランディヤ〔現・ジャヤプラ〕近くの海を見おろすハマデ岬の丘で、大成丸でやって来た遺骨収集団は慰霊祭を行ったが、その直前、一行にかけこみ訴えるパプア土人がいた。

パプアの話はこうだ。村落の横に元日本軍の高射砲陣地があって、いまでも一門がさびついたまま残っている。ところが夜そこを通りかかると、戦闘帽をかぶりゲートルをまいてやせた日本の兵隊が物すごい形相で、砲身をグルグル回しながら空をにらんでいる。その幽霊は毎晩出るというのである。土地のパプアはこわがって家を棄てて逃げ出し二、三戸しか残っていない有様。恐くて困るから、あの大砲を日本に持って帰ってくれ……というのだった。

すぐ私たちは行って見た。日本軍がよく使った高射砲だ。潮風に赤くさびてすぐそばに爆弾を受けたらしく砲身の下側に穴があいていた。遺骨収集団が調べると、そこは高射砲第六十四大隊がいたところで金谷少尉ら十五人が直撃弾で戦死している。ただ一門だけ残った高射砲には、ここで死んだ兵たちの亡霊が必死にしがみついているようにも思われた。

一行を代表して鶴見〔横浜市〕総持寺の松田亮孝師が高射砲の前で般若心経を唱え成仏を祈った。「大砲をのけなくても大丈夫。もう幽霊は出ないから」この言葉にパプア人たちは安心したらしい。波の青いハマデ岬に日本兵の歯を食いしばった幽霊は、もう現われないことだろう。

朝日新聞 昭和31(1956)年7月19日・9面

東大のスリラー【1959.5.24 読売】

本郷の東京大学構内に「蛇姫の塚」と呼ばれる石塚がある。昭和7年に塚を取り払う計画が立つと、近くの工学部からバラバラ遺体の一部が見付かり、恐れられるように。因縁は前田家の屋敷だった時代に女中が殺されたことにあるらしい。五月祭で大雨が降ると、用務員はお神酒をささげて塚をなだめている。

東大のスリラー

恒例の東大“五月祭”がことしも昨二十三日ときょう二十四日の両日、本郷の同大学構内で幕をあけている。

ところがどうしたわけか毎年この“五月祭”には雨がつきものだ。名物のイチョウ並木が緑一色の天がいを作っている下をカサをさして歩くのも一興だが、関係者たちはそのたびに空をニラミ、ヒヤヒヤする。年に一度の学生のオマツリを乱す無情な雨をうらみに思う。

×  ×  ×

昨年も“恒例”の雨が襲った。そのうえ雷が鳴り、停電にまでなって窓に暗幕をおろしていた法文経三十一号教室の能楽会場などをはじめ学内はハチの巣をつついたように大騒ぎとなった。その時だった。工学部本部裏の中庭で東大らしからぬ(?)光景があった。カサもささず、ぬれネズミの工学部小使さんの一人が石のツカの前に老体をかがめ、工学部と名の入った湯のみ茶ワンに、右手に持った一升ビンの酒を注いでいた。

マンジュウガサをかぶった女人を思わせる東大構内の“蛇姫の塚”(左端)

“五月祭”に雨降らす
“蛇姫の塚”のたたり

時折、空を仰いでは何やらつぶやき、さらにオミキをつぎ足していた。「これでもたりないのか、まだたりないのか、学生さんたちのオマツリだ、お天気にしておくれ」と。

× ×

その石ヅカが“東大のスリラー”“東大の不思議”なのだ。高さ約一・九メートル、ひとかかえもあるカサをのせた石台は直径約三十センチの円柱で背後に「蛇姫の塚」とはどうみても読めない字が刻んである。みんなが「蛇姫の塚」と呼んでいるからそう書いてあると信じているにすぎないが、ほかに「手を触れてはいけない石ヅカ」「男子禁制のツカ」とも呼ばれている。近代科学を扱って“世界の頭脳”ともいわれる工学部と合理を重んずる法学部との真中に鎮座しているから妙だ。

昭和七年のはじめ工学部で敷地整理上からこのツカを取りはらう計画が立てられていた。ところが案の定その直後に第一号のバラバラ事件が起ったのだ。同年三月七日のこと寺島の通称“おはぐろどぶ”からハトロン紙に包んだ首が出てきた事件、七か月経て迷宮入りかと思われたとき、水上署の聞き込みから主犯の長谷川市太郎(当時三十九歳)が捕まり、イモヅル式に弟長太郎(二三)妹とみ(三〇)が共犯で逮捕された。そしてこともあろうに被害者の腕と足が工学部の旧実験室の床下から出てきた。長太郎が同学部土木科写真室の雇員だったので、床下にかくす前には土木科教室の天井さらに中庭の土の中と移されていた。念の入ったことには撲殺に使われたスパナやバットもこの男が同学部から持出したシロモノだった。

間もなく石ヅカの移動に関係していたI教授が原因のわからない自殺をして、ますます“ナゾのツカ”はハクをつけた。

日曜の朝の
話 題

× × ×

古い話をたどると“赤門”がそうであるようにこのあたりは前田藩の屋敷であった。江戸時代の延享年間(一七四四-四八年)講談やカブキ、さらに映画でおなじみの加賀騒動で反逆者家老・大槻伝蔵朝元〔(1703-48)〕に加担し、七代藩主・宗辰〔(1725-47)〕の生母浄珠院を毒殺した老女浅岡〔浅尾〕がヘビ責めの刑にあった場所ともいわれた。だが「蛇姫の塚」はそれよりのちに某家老が町民の美しい腰元に手をつけ、夜な夜な離れでなく彼女の声で悪事露見を恐れて殺害、ひそかになきがらを埋めた場所だというのが真説らしい。だから「男子禁制」のツカともいうのだろう。

見かたによってはマンジュウガサをかぶった腰細の女のようにもみえる。その腹のあたりに仏とも女ともつかぬ立像が浮彫りにされている。それが正面で建立当時、不忍の池の方を向いていた。江戸時代から明治のはじめまではこの浮彫りの方角にある家では必ず災害や病人が出ると信じられ、町民たちは夜こっそり屋敷に入ってこのツカを自分の家とは違った方向に向き変えていたという。

×  ×  ×

こんなツカに毎月一日と十五日に四季の花をいけ、線香を上げているおばさんがいる。本部の庶務課用務員山口まつさん(五六)で日給一円のさる十六年から働きだし、すでに十九年間も勤めているが三十年のころこんな話を聞き込んだ。数年前、工学部の職員がツカを動かすように二人の人夫に命じた。間もなく石ヅカをかついだ二人とも病気になって死亡、仕事を命じた職員もあとを追うように死んだという。山口さんは「蛇姫の塚」の因縁をこのときはじめて聞いた。因縁は半信半疑だったがかわいそうな人たちのことを思うと黙ってそばを通り過ぎることができず、この二、三年かかさず手を合わせているという。

×  ×  ×

以来、東大でただ一つの不思議な“遺物”としてその場所を占めている。学生たちは信じないだろう。だが古い小使さんの中には「ことしの“五月祭”もヤッパリ雨が降った。石ヅカがヘソをまげたら大変だ」と信じている。大雨や雷にでもなれば小使さんはことしもオミキをあげるかも知れない。

読売新聞 昭和34(1959)年5月24日・10面

「消防地蔵尊」の由来【1955.11.28 朝日】

東京・新富町にあった建具店が火事に遭い、従業員が焼死。跡地に消防署の出張所ができたが、管内で火事や事故が多発。焼死者のたたりを鎮めるため、戦後、出張所前に消防地蔵が建てると、事故や火事はなくなった。

「消防地蔵尊」の由来
 お参りする消防署員と地元の人たち

二十七日午後、中央区新富町二ノ二京橋消防署新富町出張所前歩道の「消防地蔵尊」に同町一、二丁目町会の主婦や子供たちがお線香や花をあげてお参りしていた。二十六日から始った秋の火災予防週間の一行事として同町会と京橋消防署が合同で行った「消防地蔵尊供養」の一コマである。日本中であまりその名を聞かぬ「消防地蔵」の由来は――

現在の出張所の場所に久保建具店という店があったが、十三年二月十二日〔正しくは昭和16(1941)年2月13日未明〕火事にあい、店員二人と女中一人が逃げ遅れて焼け死んだ。その後同店裏に出張所が出来たが、管内に火事が多いうえに消防士が事故で死んだり、負傷したり、病気になったりする者が多く、戦前に引つづき戦後も不吉な状態が続いた。そして下町気質の町の人々の間には「焼け死んだ人人のたたりだ」といううわさがたち始めた。特に三人の焼死者のうち若い店員の一人は、あとの二人を救おうとして猛火の中に飛込んで死んだというので、「消防精神の鬼と散った青年の霊を慰めねばたたりは消えぬ」と、二十八年二月同町二ノ六メリヤス製造業松島年太さん(五三)らが発起人になり、町会有志の手で出張所前に三尺〔約91センチ〕足らずの地蔵尊が建った。

ご利益は絶大
中央区新富町 きのう京橋消防署と地元民が供養式

その後ウソのように所員の事故は皆無、町内に火事もなくなって、本年度は京橋消防署管内の最優秀出張所として表彰されるに至った。

そこで地蔵様の“ご利益は絶大”とあって「成績が良くなるように」と子供づれのお母さんや「商売繁盛するように」と商家のだんなさんまでが信心する有様で、花の絶えることなく、毎月の命日には線香の煙が流れるようになったという。

この供養式には山室同消防署長ら署員一同のほかに鈴木同町会長や、かっぽう着姿の主婦たち、花をかかえたよい子など二百余人が参加して「今後も町中が無事でありますように」と祈りをささげた。

朝日新聞 昭和30(1955)年11月28日・8面

ビルの陰に漂う香華【1955.5.28 読売】

東京・池袋駅東口の広場に辻斬りの犠牲者を慰霊する「身代介の院」がある。何度か移転話が出たが、話を持ち出した人が急死してから、それっきりになっている。

池袋駅東口
ビルの陰に漂う香華
あだおろそかにすまじ“身代介サマ”

○…池袋駅東口の“広場”に立つと時として線香のにおいが漂うことがある-この辺りはその昔、徳川八代将軍吉宗〔(1684-1751; 在職1716-45)〕のころ、板橋から雑司ヶ谷へ抜ける街道と礫川(小石川)と長崎を結ぶ街道との交差する四つじでつじぎりの名所だった。享保五〔1720〕年、村人たちが「南無妙法蓮華経」の碑を立てて犠牲者の霊を慰めた。人呼んで「身代介<みよけん>の院」-以来願事一切かなうとあって二の日の縁日はもちろん平日も参けい人を誘って香華は絶えなかった。

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【写真】(上)池袋村いまや大東京の北の玄関口とはなる=矢印が「身代介」の院(下)ミヨケンさま、つじ切りに代る“つじ姫”の犠牲者を慰めるか?

 ○…時移って、この池袋村も大東京の玄関となり、 銀行が並び、映画館がひしめき、ネオンが踊る大盛り場。西口、東口と二つの広場をひかえた駅は一日三十万という乗降客にもまれるとあって“アプレ盛り場”の呼名もキレイに返上、いまや一人前。ところが、この“身代介サマ”の建っている場所が悪い。東口広場のまん中とあっては発展のガンになることおびただしい。幾度か移転の問題も起きたが、あるとき、“身代介さん”がすごく怒ったことがあった。移転の話を持ちだした人がコロッと死んでしまったのだ。サア大変“二百年余の恩はオロソカに出来ないワイ”というわけで移転話はそれっきりになってしまった。といってもお祭などはおよびもつかない。西武デパート、駅、売店などに囲まれて人一人入るのが精一杯の場所にすでに閉じ込められてしまっているのだ。ただ駅前に住む大蔵孝さんや西武鉄道の池袋駅従業員の人たちが掃除をし花を供え線香をあげているだけ。池袋署でも交通安全にあやかってもらおうと年に一度は丁重なお参りをするとか。しかし、それもいつまで続くことか。ステーション・ビルの建設、東口商店街の計画などが本格的に設計されている今日、“身代介サマ”の移動もそう遠いことではあるまい。

駅前
広場

○…ともあれ、身代介サマの線香のにおいをかき消して、きょうも西、東の広場にはおびただしい数の客引女給、夜の女が脂粉の香を流し、チンピラ連がたむろしている。

読売新聞 昭和30(1955)年5月28日・6面

梅幸にふられた芸者【1957.7.31 読売】

6代・尾上梅幸は東京・新橋の芸者となじみになったが、柳橋の別の芸者に気移りした。新橋芸者はそれがもとで胸を患い、亡くなった。梅幸は柳橋芸者と結婚。夫婦の間に息子が2人生まれたが、どちらも若死にし、梅幸も長生きしなかった。歌舞伎界では新橋芸者の祟りだと言われる。

東京不思議地図 ⑳
 
新 橋

「半四郎の手、田之助の足」といえば、劇界では有名な話である。

四代目の岩井半四郎〔(1747-1800)〕は、愛人の腕をうち砕いて死なせたのがタタり、代々手の病気に苦しんだ。

三代目沢村田之助〔(1845-78)〕は柳橋の千代吉、小静などを隅田川に身投げさせるほど移り気だったのがタタりダッソ(脱疽)病で両足を切断「惜しや田之さん、あんよがないよ」とうたわれながら三十四歳の若さで狂い死んだ。

ところで先代尾上梅幸〔6代(1870-1934)〕の色ざんげとなると女のタタリの半減期はぐんとのびてストロンチウムなみになる。

五代目菊五郎〔(1844-1903)〕の養子となってまだ栄三郎といっていた二十歳代のころの話である。

若さと美ぼうプラス人気役者、従ってどこへ行っても配給辞退に骨が折れるくらいだ。準内地米に内地米、外米、混合米と数ある中から、新橋芸者の小文というスベスベのモチはだとできてしまった。

小文は浅草聖天町の火消の頭の娘だけあって、その立姿の美しさときたら新橋随一、この水際立った美男美女に五代目もほれぼれと目を細め二人の仲を認めたくらいだ。

ところがである。人もうらやむ仲があっという間に、外れたチエの輪みたいになってしまった。栄三郎の手中に柳橋の君子(のちに正妻)というアダ花が咲いたのだ。小文はよりをもどそうと栄三郎を追いかけまわすがオール三球三振、これがもとで胸を患い、新橋近くの土橋の自宅療養から赤十字病院へ。

「あいたい人にみんなあえたけど、たった一人新富町(栄三郎の住居)の…」

臨終の小文のいじらしさにだれ一人泣かぬ者はなかった。「栄三郎・小文会談」を早期実現させようと応援団が多数かけつけた。イの一番がかの有名なお鯉〔(1880-1948)〕さん=のちに桂太郎〔(1848-1913)〕の愛しょう(妾)=当時は市村家橘(十五代目市村羽左衛門)〔(1874-1945)〕の細君だったよしみで「がんばるのよ、家橘がきっとつれてくるからネ」

二番は東京指折りの顔役石定親分〔高橋文吉(1845-1901)〕、三番は魚河岸の山庄ダンナ、共に栄三郎説得に一はだぬいだ。

四番は五代目菊五郎「安心しなよ、栄のヤツ、こんどこそ引っぱってくるから」五番は小文のダンナの銀行家池田鎌三氏、それまで敬遠しつづけた栄三郎も世論に抗しきれず、しぶしぶ病室の入口まで足を運んだが、どうしても中に入らない。

梅幸にふられた芸者

せめて声でもとせつかれて、やむなくたった一声「小文」すると夢からさめたように「あなた」これが小文の最後の声であった。

栄三郎は間もなく君子と結婚した。その晴れの結婚式場で、栄三郎は真っ青になってふるえ上った。花嫁がしめている帯はなんと小文が生前愛用していたものだ。

小文は無類の帯道楽で、能衣装のほごしたものや、古代裂を集めて仕立てさせた。死後日本橋仲通りの骨とう屋道明に買いもどさせた一筋が選りに選って君子の晴れ着におさまろうとは―。

五代目の死後栄三郎は梅幸を名のり、君子との仲に出来た長男〔7代・尾上栄三郎(1900-26)〕に栄三郎をつがせた。しかし長男は三十の声を聞かぬうちに死んだ。次男の泰次郎〔尾上泰次郎(1909-27)〕はコカイン中毒で若死した。梅幸も初老をすぎたばかりでこの世から去った。

「小文のタタリだよ」

この話は偶然の連続かもしれない。しかし劇界というところは、そうでなくても御幣をかつぐところだ。

ついさきごろ、花柳章太郎さんもいっていた。「井筒屋のお柳にふんして舞台へ出ると、クラクラと目まいがして倒れそうになる。おかしんだよ。オイランの芝居というときまってこれなんだ。タタリかな」

え・荻原 賢次〔挿絵割愛〕 

(おわり)

読売新聞 昭和32(1957)年7月31日・6面

“処女花嫁”とり殺す【1957.7.30 読売】

享保年間、江戸・本所に住む旗本の三男が亀戸の茶屋の娘と恋仲になった。その内に母親が病気になり、息子たちに実は異母妹がいると告げた。それは三男が通う茶屋の娘らしい。母が亡くなって三男が久しぶりに亀戸に行くと、娘は捨てられたと思い込んで衰弱死していた。三男は結婚したが、花嫁が茶屋の娘の亡霊に取り殺された。三男は娘の霊を慰めるため、雀の森に於三稲荷大明神を建てた。

深川牡丹町

約二百三十年前の享保年間〔1716-36年〕、本所に旗本の三男坊松岡新十郎(二二)というハンサムがいた。ふつうなら自衛隊志願というところだが、同族の阿部家の名跡をつぐことになっているので、就職の心配がない。ヒマと小遣いに不自由しないから家にじっと落ちついていられない。

東京不思議地図 ⑲

「母上、亀戸の梅見に行ってまいります」

毎日亀戸まいりが続くはずである。新十郎は亀戸天神近くの梅見団子茶屋の看板娘おサンちゃん(一七)とのミツマメのような恋に夢中になっていたのだ。

団子一サラでLPレコード十枚分ぐらいねばるくせに、恋のテンポはいっこうにはずまない。それでも二人は幸福だった。

その甘い夢を破るように松岡未亡人は病の床につく身となった。ある日、息子たちをまくら元に呼んでいい聞かせた。

「かつてパパのごちょう愛をうけ、宿に下がって身二つになった女中がいる。生れた子はおサンといい、なんでも深川あたりに暮しているという話。パパは恐妻家で遠慮なさっていられたが私の亡きあとは、どうか腹ちがいの妹を幸福にしてやっておくれ」

“処女花嫁”とり殺す

新十郎はあまりのことに口もきけなかった―そういえば、おサンちゃんの横顔にどこか亡き父上の面ざしがうかがえる。

おサンの母親は深川蛤町の漁師善兵衛の娘おコノ。おサンを産み落して間もなく死んだ。善兵衛夫婦はおサンを育てながら団子茶屋に転業、おサンには松岡家のことを秘密にしていた。

新十郎の方も茶店に身分をはっきり名乗っていたわけではなかった。この最初のくいちがいが、彼が因果な恋に泣く原因となったのだ。

四十九日をすませて新十郎が亀戸を訪れたのは二ヵ月ぶり。店の表戸が閉まっていて、中からドンツクうちわ太鼓。善兵衛夫婦は新十郎の姿を見るなり「おそかりし」と泣き出した。「一週間前、おサンのやつは、若さまの名を呼びつづけながらこがれ死いたしました。てっきり捨てられたものと思いこみ、日一日とやせ衰えて…」

間もなく新十郎は嫁を迎えた。麻布笄町の旗本大久保家の令嬢、短大家政科出身の才女である。

ところがこの花嫁、おこし入れの日から不思議な病にとりつかれ寝ついたきり。

「さあ、ボクがついている、安心しておやすみ」

タオルをしぼって額の上にのせようとしたとき

「キャーッ」

花嫁の悲鳴と同時に行灯の火がかき消えた。とたんにキノコ雲に似た白煙が一条、その煙の中から、あぶり出しみたいに、やつれたおサンの亡霊がヒュードロ。

法界坊に殺された野分姫は法界坊のウソッパチを真にうけて、許嫁の松若丸〔法界坊・野分姫とともに歌舞伎『隅田川続俤』の登場人物〕をうらんでウラメシヤと出るが、おサンも江戸ッ子だけあって気が短い。捨てられたと一人合点して、説得も念仏もてんで寄せつけない。かわいそうに花嫁処女はおサン幽霊に悩まされつづけてこの世を去った。

名僧に鑑定してもらうと、過世(すぐせ)からの悪因縁、これにさからってもマジックハンド的効果は期待できない。一生独身主義で通すのですなあ、というつれない回答。新十郎はおつむを丸め、愚凸道心と名乗って雀の森にホコラを建ておサンの霊を慰めた。都電が走っている黒船橋のたもとが雀の森跡。江東区深川牡丹町一の八にいまも於三稲荷大明神(祠守、前原万吉さん(八四))が現存している。おサンは安産に通じ、男の浮気止めにもあらたかだそうだ。

え・荻原 賢次〔挿絵割愛〕

読売新聞 昭和32(1957)年7月30日・6面

竜の昇天と黒い雨【1957.7.29 読売】

寛政年間、1人の老僧が江戸・小石川で近く竜が昇天すると触れて歩いた。不審に思った旗本が話を聞くと、自分は竜だが、雨がないので、昇天できないという。旗本が硯の水を差し出すと、僧は喜んで立ち去った。3日後、竜の昇天を思わせる雷雨があり、辺り一面、墨汁がかかったように真っ黒になった。

小石川小日向

どこの町内にも頼まれもせぬのに、寄付を集めたり、赤い羽根を売りつけたりする、おせっかいな老人の一人ぐらいはいるものだ。

「ちょっとお知らせする。近いうちにものすごい風雨の日がある。その折は決して家から外に出ないように。実は(急に声をひそめ)この近くから竜が昇天するのじゃ」

東京不思議地図

焼けつくような炎天下、小石川小日向付近の家々にこういいふらして歩く一人の老僧があった。約百六十年前(寛政年間〔1789-1801年〕)の話である。気象台の回し者みたいなこの予言僧は、このあたりではついぞ見かけたこともない人物だ。

小日向大曲の西側に土橋某という旗本の邸があった。その家の主人は不審に思い、この怪僧を座敷に通していろいろと誘導尋問などを試みた。

「ご親切まことにかたじけない。ときに、貴僧の竜昇天の情報の出所は」

「いや、よそから聞いたというような、あやふやな話ではない。拙僧のカン、つまり長年の経験から割出したものじゃ。かようなカンカン照りが続くと、必ず昇天異変があるのじゃ」

「つまり、なんですな、貴僧が昇天するというわけか」

竜の昇天と黒い雨

ズバリと切りこむと、怪僧ははじめて目を伏せた。

「お察しの通り…だが水がないので、その風雨を待っておりますのじゃ」

「これは奇怪、この下の小日向の流れは水ではござらぬか」

「いや、拙僧に必要なのは、天から降る自然水のみ」

そこで主人がいった。

「では、このスズリ(硯)の水はいかが」

神酒陶に入れて出すと、怪僧はふるいつかんばかりに喜び

「これで昇天できる。大助かりじゃ」

と厚く礼をのべ立ち去った。土橋家ではおおかた、陽気のせいで頭にきているのだろうと話合った。

三日後、上天気の空がにわかにかき曇り、生暖かい風がさっと吹きぬけた。とみるまに耳をつんざく大雷鳴とタライをぶちまけたような豪雨。界雷現象というヤツだろう。

「やっぱり、ほんとだった。竜が昇天する」

「危いぞ!子供を家に入れろ」

恐怖の何時間かがすぎ、外がようやく静かになったので、人々は恐る恐る雨戸をくってみて、一様にアッと驚きの声をたてた。

外は一面に真っ黒だった。道路も、樹木も、家も、洗たく物もまるで墨汁を頭からかぶったように真っ黒だった。

さきごろ、シンガポールで死の灰をふくんだ黄色い雨が降ったと外電は報じていたが、この黒い雨の話は「土橋家の主人の実話である」と江戸随筆“宮川舎漫筆”の著者は書き残している。

ところで、江戸時代の古い記録を調べてみると、このほかにも細かい砂だの、浅草馬道に人が降っただの、牛込辺に鳥毛が降っただの、屋根の上に水死人が降っただのという不思議なはなしがたくさんある。現代科学でならなんとでも解釈のつくことが、当時として不思議で仕様がなかったのだろう。

都電大曲停留所のわきに江戸川が飯田橋方向へ流れている。かつての神田上水の清き流れも、ストロンチウムやセシウムをまぜた濁水だ。現代の怪談の方が、竜昇天よりも涼しいお話かもしれない。

え・荻原 賢次〔挿絵割愛〕 

読売新聞 昭和32(1957)年7月29日・8面

区長乗用車の怪事【1957.7.28 読売】

東京・杉並区が区長乗用車に中古の外車を格安で購入したが、運転手が車内で眠っている内にガス中毒死。そのとき汚れたシートはカバーを替えても、しみがにじみ出る。深夜、無人の車庫からクラクションが鳴る、区役所脇の店に車が突っ込むといった事故も続いたことから、不吉な区長乗用車は売却された。

阿佐ヶ谷

外車購入のワクがはずされた昭和二十七年のこと、杉並区では高木〔敏雄〕区長の乗用車を物色していた。港区赤坂溜池のK自動車会社に掘出し物があるという知らせに行ってみるとビュイック五一年の箱型、ライトグリーンの塗装も上品で新車同様、値段も二百四十五万円という安さ。文句なしに購入した。専属の運転手には区長の信用が厚い石戸谷孝治さんが当てられた。石戸谷さんは暇さえあれば、車をピカピカにみがきあげていた。

二十八年一月下旬の凍りつくような寒い日のことだった。区長を天沼の自宅に送って午後十一時すぎ、車を役所の車庫に回送する途中、やっと一日の仕事から解放されたという気安さから、石戸谷さんは荻窪駅前の飲み屋街で車を止め、なじみの店ののれんをくゞった。二時間もねばってミコシをあげたときは一升ビンに二合ほど寝酒をつめさせ、それを横抱きにしてごきげんだった。女将に手を振っていつもと変りなく、車は走り去った。この時すでに石戸谷さんは死神に取りつかれていたのである。

翌朝、区長の自宅には、遅くとも午前九時までには必ず迎えにくるのに、この日に限って九時半すぎになっても警笛が鳴らない。

「どうしたのだ、車は」

いらいらした区長の落雷のような電話に秘書安達昌子さんは驚いて車庫へ行ってみると、鉄ぴ(扉)がまだ閉っている。下部のくゞり戸を開けて入る。天井の薄暗い裸電球の光にすかしてみると石戸谷さんが一升ビンを抱え込み、シートにうずくまり、そのそばに湯のみ茶わんがひっくり返っていた。

車のドアをあけると、暖かい空気が流れ出た。「早く迎えに行ってよ。わたしまでしかられちゃったわ」二、三回ゆり起したが返事がない。

区長乗用車の怪事

「アラッ」安達さんの金切声に職員診療所の医師がかけつけたときには石戸谷さんはすでにこと切れていた。車内はヒーターがつけ放しになっていて排せつ物がシートを汚していた。

検視の結果は、ガス中毒死―当時、社会面の片すみにベタ記事で載ったことを記憶している方もあるだろう。残り酒を飲んでいるうちに寝こんだ。機関部の故障からわずかにもれるガスが密閉した車内に充満した。ただそれだけである。

しかし石戸谷さんの死後、堀越さんなど二、三人の運転手が交代で車を使ったが、奇怪なことの連続である。運転台のシートカバーを何度取替えてもいつのまにか薄くしみがにじみ出てくる。深夜の無人の車庫からクラクションがなりひびく。そんな訴えに村尾経理課長は「そんなバカなことが」といって頭から受けつけなかった。

約半年後こんどは運転手が乗っていないのに自動車がひとりでに暴走し、区役所わきの阿佐ヶ谷一の七一八佐藤代書店に飛込んだ。土木工事視察の議員六名がガヤガヤと乗込んできて、一人が誤ってアクセルを踏んでしまったのだが、それにしてもこれ以上この車を置いたのではどんな災害が起るかも知れぬ、という不安が区長以下関係者の脳裏を支配した。せっかくの掘出し物も、わずか一年たらずで売却された。日ごろ意見の多い関係者間に、この売却の件に関する限りは珍しく全員一致のスピード承認だった。

東京不思議地図 ⑰

「前歴も調べず購入してしまったが、なんでも人をひき殺したいわくのある車だということだ。しみの話もその後確認した。いまさらこんなことをいうと笑われるかもしれぬが、購入の時の書類番号にも、鑑札にも、不思議に四十二といういやな数字が頭かシリの方にくっついていた」経理課長の述懐である。

え・荻原賢次〔挿絵割愛〕 

読売新聞 昭和32(1957)年7月28日・10面