1940年代

幽霊を科学する【1949.5.21 毎日】

幽霊の話題で持ち切りの東京・文京区の印刷工場を心理学者が実地調査。八百屋お七の下駄の音は集団的な自己催眠が作り出したものと結論した。

幽霊を科学する
自己催眠で信じこむ
 
(話)(題)(解)(く)

○…幽霊の正体見たり枯尾花―本紙雑記帳で紹介した文京区小石川指ケ谷町一一二専進社印刷工場のお化け話はうわさがうわさを生み十九日夜はNHKの現地録音が出場するに及んで小石川附近はお化け話で持ち切つているが、異常心理と心霊術の研究家、東京女子大南博〔(1914-2001)〕教授が廿日、現地を調査して『集団的な自己催眠がお化け話を作りあげた』と八百屋お七〔(1668?-83)〕の亡霊説を解剖した

○…『カラコロというゲタの音を聞いたという人が四十過ぎの年配者に多く、廿台の若い人たちが同じ部屋にいながら聞いていないというのが、重要な点でゲタの音を聞いたという人たちは自信のないヒステリー性の人が多く自己催眠にかかりやすい人ばかりだ、無縁仏の上に建てられた工場、工場の敷地から発掘したというお地蔵、八百屋お七の墓石、夜泣きすると伝えられる仏像―これだけ小道具がそろえばヒステリー性の人は催眠術にかかつたも同様だ、暗示をあたえると物音は簡単に聴こえるものだ、こうした集団的な催眠現象がだんだん伝播して最初のムジナ、タヌキ説から八百屋お七に変つたのだろう

○…もうひとつ見逃せないことは張り番中のお巡りさんがゲタの音を聞いたということだ、これはその筋の者だという言葉を信用して薬を飲んだ帝銀事件〔1948年に帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)で起きた強盗殺人事件〕とも共通性がある、このお化け話も悲劇を生むおそれがあるから火に油をそそいだ警察がこんどは大衆に納得のゆくように解決すべきではないか

毎日新聞 1949(昭和24)年5月21日(土)2面

雑記帳〔広がる八百屋お七の亡霊騒ぎ〕【1949.5.17 毎日】

八百屋お七の亡霊が出ると噂の東京・文京区の印刷会社にお七の足音を聞きたいと人々が殺到。ラジオの録音班も取材しようとしており、騒ぎは大きくなっている。

雑 記 帳 ◇八百屋お七〔(1668?-83)〕の亡霊が出るといわれる文京区指ケ谷町一二二専進社はその後『お七さんの足音を一度きかせてチョウダイ』というお客が十五日までに四百人も押しかけ、NHKでも近く録音班を繰り込ませようという騒ぎ。

◇隣り近所は女子供の一人歩きは一切厳禁、たまにあつても交番に応援を頼む始末に所轄富坂署では十六日から刑事を専門に張込ませている。

◇それにしても亡霊退治を果さなかつた田村十郎巡査はその後本庁に呼出され『警察官ともあろうものがナンチュウことだ』とやり込められたというがたれかこの正体をつきとめる勇士はありませんか。

毎日新聞 1949(昭和24)年5月17日(火)2面

雑記帳〔巡査も逃げる八百屋お七の亡霊?〕【1949.5.14 毎日】

東京・文京区、八百屋お七の墓に近い工場で毎夜のように誰もいないのに戸が開き、下駄の音がするという。話を聞いた巡査が張り込むと、夜中に戸と下駄の音が30分続き、巡査は逃げ出した。

雑 記 帳 ◇暑気さましに一席というにはチト時期が早いが、これは文京区指ケ谷の某工場に八百屋お七〔(1668?-83)〕の亡霊が出て、隣り近所大騒ぎをしている話。

◇ここはちょうど円乗寺焼跡のお七の墓に近いが、去年のお盆が過ぎるころから毎夜のようにバタンと戸が開き、姿がないのにカラコロと高歯〔歯の高い下駄〕の音がするという。

◇この話をきいた指ケ谷交番の田村十郎巡査『しからば本官が退治して〔原文「退治て」〕くれん』と十二日夜張込んだら、真夜中ごろ“バタン、カラコロ”が卅分も続くので柔剣道二段の同巡査も逃げ帰つたという。サテこの正体は……。

毎日新聞 1949(昭和24)年5月14日(土)2面

いずみ〔寺宝の掛軸から幽霊〕【1947.4.13 読売】

東京・渋谷区の長泉寺で寺宝の幽霊画の掛軸から幽霊が抜け出し、供養が済んだら、絵を焼くよう住職に訴えた。話を聞いた人々が寺宝を拝観しようと寺を訪れている。

いずみ  ▽▽…渋谷区神宮通りの焼け跡にポツンと残つている古寺、慈雲山長泉寺に幽霊が出ると大評判、大里渋谷署長までが本気になつている

▽▽…話のおこりは住職の柴田徳雲さんが去る二日朝、いつもの通り勤行中、寺宝の円山応挙〔(1733-95)〕直筆という幽霊の掛軸からザンバラ髪の幽霊が抜け出し“苦しい/\、供養が済んだら絵を焼いてくれ”と訴えたという

▽▽…もつともこの幽霊は心霊術研究家である徳雲老とその夫人だけにしかみえないのだそうだが、それでも物見高い群衆があとから/\古寺を訪れ、時価数万円という寺宝を拝観、満足したような顔で帰つている

読売新聞 1947(昭和22)年4月13日(日)2面

「生木大黒」チヨン伐らる【1940.4.8 東京朝日】

約20年前、神奈川県酒田村の素封家が夢のお告げにより小田原のクスノキの大木を彫り、「生木大黒」として祀ったところ、繁盛した。しかしすぐに警察の取締を受け、社殿が取り壊されそうになると、警察関係者、素封家一家、作業員が不幸に遭い、誰も手を付けなくなった。ところが、このほど工事のために生木大黒の木が伐採され、小田原の人々は祟りがあるのではとおびえている。

「生木大黒」チヨン伐らる

大黒天の身をもつてサンザン怪奇の伝説を撒き散らし、今なほ信仰者を集めてゐる小田原名物の「生木大黒」――これが愈<いよ/\>チヨン伐られ、木工細工屋へ五百円で売り飛ばされることになり、又しても街の人々を顫<ふる>へ上らしてゐる

伝説とは――約二十年前足利上郡〔足柄上郡〕酒田村〔現・神奈川県開成町〕の素封家某氏が夢枕に立つた白髪白髯の老人からのお告げによつて小田原駅裏に生えてゐた樹齢六百年の樟の大木に身長一丈三尺〔約3.9メートル〕余の大黒天を彫刻社殿を設け“小田原の福運生木大黒”と銘打つて祀つたところ霊験たちまち現れ一時は信者で大変な賑はひ、ところが間もなく“インチキ神社”の汚名の下に県から小田原署を通じ愈々社殿取毀しとなつたところ、不思議や先づ命令系統の警察部長、署長等は悲惨な末路、素封家某氏一家は死滅するやら、作業人夫が病気をするやら……その後十余年唯一人手をつける者もなかつたが此の程分譲地工事から又も問題になり伝説を蹴飛ばして伐採となつたもの

附近の木挽連は勿論寄りつかず東北からわざ/\雇つて去る五日とうとう伐り倒したが「さてたゝるかな?……」と街の人達は冷汗(小田原)

東京朝日新聞 1940(昭和15)年4月8日(月)7面(「故郷だより」より)

武運の神『松の木さん』【1940.3.2 大阪朝日】

朽ちた老松を神体とする大阪・松ケ枝町の「松の木神社」に最近、町外からの参拝者が増えている。理由は、松ケ枝町から出征した者に戦死者がいないのはこの松の木のご利益だと聞いたからだという。

武運の神『松の木さん』
町内から一人の戦死者も出さぬ
松ヶ枝町で霊松感謝祭

大阪北区松ケ枝町に猫の額ほどの狭い空地があり、朽ちた老<らう>松と、その由来を刻んだ霊松碑を中心に鳥居を建て玉垣を繞らしたさゝやかな祠が「松の木神社〔松乃木神社〕」と名づけられて町民の尊崇を集めてゐる、毎月二十五日の天神さんや一日の興亜奉公日には五百五十戸の町内全員がこの神社の前に集つて

国運隆昌 祈願ののち天満宮に参拝し、また町内から出征勇士が出るたびに「松の木さん」に必ず武運長久の祈願をこめることになつてゐる、ところが最近この「松の木神社」の前に見なれない人たちがどこからともなく日に二十名、三十名とやつてきて額づき一心に祈願を捧げてゐる、この謎についてある日のこと同神社前のメリヤス商で松ケ枝銃後奉公会副会長の高瀬昌一さんが参拝者の一人に理由をきいたところ

「松の木さん」に祈る人々

「実はあなた方の町内から出征された勇士たちの間には未だに一人の戦死者もでてゐないのはみんなこの松の木さんのご利益だと聞いてうちの息子もぜひあやからして頂きたいと思つてです」

といふ答なので、はじめていまゝで気がつかなかつたこの事実に思ひ当り、

灯台もと 暗しの感を深くしたのであつた、なるほど同町を合せて十ケ町村から成る松ケ枝連合内の他の町内からは事変〔第2次上海事変(1937)〕以来どんどん戦死者がでたのに、ほかに比べると倍も倍もの誉<ほまれ>の勇士を出してゐる松ケ枝町からは一人の戦死者もなく、僅かに二名戦傷者がでたに過ぎないといふ嘘のやうな事実、これはきつとあの「松の木さん」のあらたかな御霊験であるとはじめて知つた町民たちの希望により高瀬さんや前記銃後奉公会松ケ枝分会長橋本種次郎氏、同評議員高橋車太郎氏らが計画して来る七日午前十時から同神社社前で帰還勇士の奉告感謝祭ならびに町内出身勇士をはじめ皇軍将士の武運長久祈願祭を盛大に挙行、霊松に対し感謝を捧げることゝなつた。

問題の霊松は丈が六、七尺〔約1.8-2.1メートル〕、太い枝が南北に約四間〔約7.3メートル〕も伸びてをり、てうど

巨大な竜 の臥した姿で樹齢は大阪城建立以前ともいはれ大塩平八郎の乱〔1837年〕の際このあたりには松ケ枝町の名の起りのごとく松の木が一ぱいはえてゐたが兵火のため焼け失せ、たつた一本残つたのがこの松で、以前は枝の拡がりが南北に七、八丈〔約21.2-24.2メートル〕もあつたがその後家屋の建築に邪魔だといふのでいまの長さに両端が切断されたが誰とはなしに「霊松」として崇めるやうになつた、この松もつひに大正九年の秋枯れてしまひ、悲しがつた町民たちが割竹で包み針金で結んで腐朽を防ぎ原形保存に努めると同時にその翌年新しい

代りの松 を二本植ゑ、古松の霊験を讃へる文章を刻んだ高さ三尺〔約0.9メートル〕余の「霊松碑」を建立、松を御神体とし、於加美大神と名づけて松の木神社を建立、毎年七月七、八両日には同神社の大祭が盛大に行はれる

大阪朝日新聞 1940(昭和15)年3月2日(土)5面

長期戦〔亡父の霊の導きで奮戦〕【1940.4.7 大阪毎日】

学生時代に野球選手として活躍した堺市出身の上等兵が中国・山西省で戦闘中、目の前に現れた父の手招きで砲撃を免れた。上等兵は間もなく父の死の知らせを受け取った。

長期戦 元浪商〔浪華商業学校(現・大阪体育大学浪商高等学校)〕野球選手、堺市二条通出身平古場正巳〔正己〕上等兵は昨年六月廿二日夜山西省緯県〔絳県〕附近で奮戦中目の前へ父が笑つて立つてゐる姿が現れ“お父さん危い”と思はず叫ぶと“こつちへ来い”と父は手まねきをするので夢中で敵弾中へ飛び込んだが、そのとき今までゐた場所に迫撃砲弾が炸裂“アツ”と後を振り返つた瞬間父の姿は消えてしまつた

戦闘後間もなく父伊之助さん死亡の便りがもたらされ続いて妻も失つたが以来同上等兵は幾多の討伐戦に必ず亡父の霊の導きで奮戦をつづけてゐる(安邑にて尾島特派員)

大阪毎日新聞 1940(昭和15)年4月7日(日)

成仏せよ平将門【1941.3.13 読売】

2人の蔵相の暗殺や落雷と近年、凶事続きの大蔵省では平将門の怨霊を鎮めるため、将門塚の石碑を新しく建てることにした。

成仏せよ平将門
大蔵省が塚跡に厄払ひの建碑

大蔵省跡(現企画院)北隅の将門塚に建てる高さ七尺〔約2.1メートル〕本小松石の“故蹟保存碑”は十二日仕上げも終り十四日大蔵省の手で地鎮祭が行はれることゝなつた

明治卅九年時の蔵相阪谷男〔阪谷芳郎(1863-1941)男爵〕が拓本に依り板碑を建てゝ置いたのが震災〔関東大震災(1923)〕のとき庁舎の再建で場所を少し移してから今は碑文も二字残つてゐるといふ荒廃ぶり、高橋〔是清(1854-1936)〕、井上〔準之助(1869-1932)〕両蔵相、それに昨年夏の雷火事などの凶事続きにどうやら将門の怨霊らしいと昨年暮首脳部が鳩首、早速元の場所に石碑を建てようと河田〔烈(1883-1963)〕蔵相が達筆を揮つて青山〔東京都港区〕の石勝に作らせたもの【写真は将門の碑の仕上げ】

読売新聞 1941(昭和16)年3月13日(木)

魂魄留まる英霊よ正に見た『幻の進軍』【1943.9.19 毎日】

南方のある島で海岸の警戒に当たる歩哨の間で、夜の決まった時刻に軍旗を先頭に砂浜を通過する部隊がいるとの話が広まった。噂を聞いた司令官が部隊の墓標を立てて部下と黙祷すると、幽霊部隊は現れなくなった。

魂魄留まる英霊よ
正に見た『幻の進軍』
鉄と戦ふ南の血肉篇

【南方前線基地にて吉田一次海軍報道班員十五日発】 山本〔五十六(1884-1943)〕元帥は南の空に、アツツの将兵二千五百有余は北海の涯に闘魂の極致を遺憾なく発揮して散華<さんげ>された、現在われ/\はこの方々の闘魂を承け継ぎ戦場に、銃後に、天人共に許さぬ野望を遂げんとする米英を殲滅すべく一億総進軍の真最中である、以下南の決戦場に於て見聞した若干の事実をありのまゝにお伝へして、われ/\銃後の者の闘魂を愈々〔いよいよ〕固めるよすがとしよう

分秒争ふ飛行場整備

南の決戦場では空中は勿論地上においても連日連夜血みどろの戦ひが行われてゐることは、すでにわれわれの知る通りである、わがジヤングル内の陣地を攻撃してくる米濠軍は、絶大の物質力を頼みとし、まづ空から無数の爆弾を投下して昼なほ暗いジヤングルを丸裸にする、次に常に必ず廿倍以上の兵力を以て極めて緻密な計画の下に徐々に近づいてくる、彼等の持てる兵器は世界最新である、わが果敢なる夜襲にあへば悲鳴をあげて逃げ出す彼等、決して真<しん>底からの勇士ではない、夥しい鉄の量によつて物に物をいはさんとするに過ぎない、しかし皇軍勇士とて身は鉄石ではない、鉄に対するに血肉を以てするわが軍の筆舌につくせぬ労苦はこゝに始まるのである爆撃にあへば敵機を睨んで切歯扼腕するより外に仕方のない地上勤務員、日々敵の盲爆のため若干づつ戦友を失つてゆく地上整備員、彼等は敵の飛行場爆撃が済むや否や飛行場の整理に忙殺されるのである、まづ爆弾による穴埋めをして友軍飛行機の着陸を可能にしなければならない、飛行場の穴埋めは分秒を争ふ、しかも附近には投下後五分か十分たつと爆発する時限爆弾をばらまいてある、修理中にこれが爆発し鉄片が雨と降る一昼夜を経て爆発するしつこいのもある

機体と取組む整備兵 南方戦線にて
古川特派員(海軍報道班員)撮影=海軍省許可済第三二号
 
無念隊長機離陸不能

爆撃隊は一分と間隔をおかず次々と飛立つてゆく、その時突如、某隊長の一機は滑走路が将に尽きんとしてゐるのに飛揚しない、前方の海に突入か、その機の機附整備兵は帽で目を覆つてしまつた、機は左に急旋回し、滑走路を外して急停止した、抱いてゐた爆弾がどうしたはずみか爆発した、機は炎炎と燃えてゐる、搭乗員は一人も出てこない、爆弾は次々と引火してゆく、隊長機を失つた他の編隊機は、炎上する隊長機の傍らを轟然たる音と共に逐次離陸してゆく依然任務を続行せんがために……五分とたたぬうちに機は火達磨となり機銃弾が猛烈にはじけてゐるわれ/\は近づくこともどうすることも出来ない、上昇した爆撃機は編隊を組み誰かの機が一番機となつて一路南を指してゆく、われわれは手に帽を持つたまゝ上を見下を見てゐるばかりである

或る夜の歩哨報告

南方第一線の某島は、敵との距離が飛行機で僅か卅分である、前面には緑濃き大小の島々が点在し、瀬戸内海を偲ばす風景である、我々の踏む浜辺は、南海特有の眩ゆい陽光に輝く白砂である

海岸に沿ふ一条の道路には歩哨が絶えず海面及び上空を警戒してゐる、歩哨の前方には白砂の浜に続いて紺碧の海がある、この浜に敵の屍やたまには友軍の屍が漂着する

或る月のない夜十時から十二時まで、即ち横にねてゐた南十字星が真直に立つて本当の十字となるころ勤務についてゐた歩哨が、交代してから衛兵司令の下士官に報告した

「立哨中、異状なし、たゞ陸軍部隊の約一個小隊位が軍旗を先頭にして砂浜を通過したゞけであります」

こんな時間に軍旗を捧持する小部隊の通過、奇怪極まる話である

「おい、夢でも見たんではないか」「間違ひありません、はつきりは見えませんでしたが確かに軍旗を先頭にして砂をざく/\踏んで行く音が聞えました」

すると別の部隊もさういふ部隊を見たことがあるといひ出した、矢張り今夜のやうに闇の夜で、時刻も同じころであるといふ、衛兵司令は錯覚だらうと否定した、翌日勤務があけてから同僚の下士官に右の話をした、誰も一笑に附してゐた

しかるにその晩である、同じ時刻に歩哨に立つた他の兵が同様の報告をした、それも一人ではない、三人も確かにその姿を朧げながらも見たし、白砂を踏む音を聞いたと主張した、一同水をかけられたやうにぞつとして押し黙つてしまつた、この噂はだん/\拡まり、司令官の耳に入つた、司令官は何もいはず、或る部隊名を書いた墓標を立て部下一同と共に黙祷を捧げられた、われ/\は何だか判らなかつたが黙祷した、それつきりこの幽霊部隊は出現しなくなつた、恐らくはこの島へ上陸作戦をやつた部隊かまたはこの海岸の沖合で憎いメリケン〔アメリカ人〕に撃沈された船に乗つてゐた部隊なのであらう、魂となつて進軍を続けてゐたのである、魂の進軍!それは北に南に続けられてゐることであらう

半裸で飛立つ海鷲

敵は嘗て我が戦闘機をペーパー・プレーン、即ち紙の飛行機といつてゐた、これは彼等の間に恐怖心を起させぬためだつたかも知れない、今では同じ戦闘機をブラツク・モンスター、即ち黒い怪物といつてゐる、我が戦闘機を見た敵機は一定の間隔をあけて近づけまいと苦心惨憺してゐるやうである、敵が難攻不落と誇る「空の要塞」さへも烈々たる闘志に燃える我が戦闘機乗りの敵ではない、それは日本兵にして初めて行ひ得る体当りといふ奥の手があるからだ、但しこゝに自爆一機といふ尊い犠牲が記録されることを忘れてはならない、暑い太陽は遠慮会釈なく照りつけ、機体に触れれば火傷するかと思はれるばかり赤白の吹流しは重くだらりと垂れてゐる、戦闘機操縦士は最高の能力を発揮せんがため分秒と雖<いへど>も睡眠しておかうとする、ふき出る汗、某見張所からの報告

「○時○分、○○の南方海上に敵三六機○○を通過北上せり」

伝令が幕僚及び搭乗員に伝へる、敵は近い、さツと漲る殺気、がばとはね起きた搭乗員は片手に飛行帽、片手に上衣と拳銃を持ち、愛機の方へとまつしぐらに駈けてゆく、南を指して真一文字に全速をかけて滑走を始めた、機上に飛行帽は被つてゐたが、上半身は裸体のまゝだつた、今日もまた若桜は文字通り赤裸々の全身を敵にぶつけにゆくのだ

羊羹は兵器でない

懐中電灯は一種の兵器であり、羊羹は菓子である、現在上陸した敵は必ず殲滅する、但し敵の後続部隊を遮断して貰ひたい、この悲痛な電報を発したのは某島を守備する〔原文「すする」〕数十名の陸戦隊である、この外弾薬を送れとも食糧を送れともいつてこない、飛電に接して既に三日、附近の友軍と遮断されてしまつた同島の陸戦隊に弾薬、食糧は最早ない筈である、強行補給を行ふべきである、しかし同島の四周には敵の艦隊が蟠踞し、絶えず敵機が哨戒してゐる、夜陰に乗じ島に乗上げてしまふより外に手はない、船は使へなくなり、人は負傷するであらう、しかしこれ以外の方法はないのだ、遂に強行手段は決行された、友軍の危急を救ふ、誠に男子の本懐、弾薬の補給を受けた守備隊員は涙を流して喜んだ届けられたものの中に丸い筒のやうなものがあつた、一同は懐中電灯かと思つて喜んだ、ところがこの懐中電灯にはスイッチを入れるボタンがない、淡い月光にすかしみれば押出し式の羊羹であつた、守備隊員の手からこの羊羹がぼとりと落ちた

羊羹はうまい、しかし兵器ではない

友軍機来援に泣く

○○島の飛行場にはほんの少数の地上勤務員がゐるだけである、そこは敵と目と鼻の間にあつた、それに敵が連日連夜爆撃にきた、木で飛行機を作つて飛行場に出しておくと、敵は好餌御座んなれとばかりに猛爆をしたといふ、某月某日我が航空隊の一部は夕闇を利用してこの飛行場に進出し、翌払暁本隊と合して対岸の敵に猛攻を加へることになつた、この作戦は大成功であつた、敵の寝込みを襲つて艦船廿数隻を撃沈破し、基地を炎上した、先発した〔原文「炎上した先発した、」〕搭乗員の帰来談

搭乗員の一番心配してゐた飛行場は連日連夜の爆撃にも拘らず、穴もなくきちんと整備されてゐた、飛行機は無事着陸した、地上整備員及び守備隊員は飛行機の周囲にかけつけた、中には機体をさすつて泣いてゐる兵もある、彼等は数ケ月友軍の飛行機をこの飛行場に迎へたことがないのだ、そして彼等の一人は泣きながら呟いた「まだ日本にも飛行機があつたのか」

参謀神色自若たり

艦爆、即ち艦載爆撃機を主体とする第○○航空戦隊のK航空参謀は絵筆をとれば玄人はだしであり、戦況の苦しい時も微笑を浮べ、いかなる報告に接しても泰然としてゐる、スケッチ・ブックには仏桑華、飛行場、飛行士の顔、住民の姿態等が鉛筆で書いてある、参謀はこれに着色すべく辷々しく筆を運んでゐる、爆撃の成果が編隊長機から無電で送られてくる、伝令が即刻幕僚室に報告する

その間K参謀の手はばたりと止つてゐる、自爆か未帰還の機数が報告されると、参謀の絵筆はあらぬ所へ色を塗つてしまふ。仏桑華の花弁の赤色は、花弁を越えて画面一面に拡がる、飛行場は褐色一色になつたりする、かくてK参謀の絵が完成することは極めて稀となる

参謀もまた人の子であり親である、頃合を見ては飛行場へ若鷲を迎へにゆく、年の頃廿二、三の若い編隊長たるS中尉が、戦果についても損害についても至極簡単に報告する、今日は未帰還が一機あつた、司令官も幕僚も押黙つたまゝ報告に基づいて何かを地図に書き込んでゐる、S中尉は我々の所へきた、ぽつりと一言

「ひどい火の海だつたからなあ」

敵の防禦砲火についていつた言葉だ、夕闇はだん/\濃くなつてゐる

「あれは多分○○島に不時着してゐるだらう」

夜間敵潜水艦の巣となるといふ○○島、S中尉は還らぬ部下の鞄を手にしたまゝ身じろぎもしない、誰もかういふ時にいふ言葉はないK参謀が明早朝○○島へ救援にゆくことについて指令を与へてゐた、誰にともなく中尉は

「明日は火の海の下に出るぞ」

と唇を噛んでいつた、若々しい紅顔の両頬には、涙が筋をひいてゐた

以上は前線において見聞したことどもをありのまゝにお伝へしたまでである、これによつて如何に考へ、如何に処理すべきかは各人各様のことである、現在前線の闘魂と銃後の闘魂に径庭のあらう筈はない

毎日新聞 1943(昭和18)年9月19日(日)

魂魄北辺に留つて皇軍撤収を加護【1943.8.24夕 毎日】

天候が味方したり米軍艦隊が同士討ちをしたりしてキスカ島の日本軍守備隊は無傷で撤収に成功したが、それはアッツ島で玉砕した英霊の魂が加勢したからだと大本営陸軍報道部長は語る。

魂魄北辺に留つて
皇軍撤収を加護
あゝ・アッツの二千英霊

キスカ島のわが守備部隊は大本営発表の通り一兵も損することなく七月下旬撤収を完了、勇躍新任務についてゐるが、この撤収が天候気象等と悉くわれに幸したことは全く聖戦の使命達成に敢闘する皇軍への天佑神助に他ならぬ、撤収後の無人島に対して盲爆、盲砲撃をしたのみならず同士討ちまで演じて二週間余も血迷つた攻撃をしたことは米海軍も自ら馬脚をあらはして公表してゐるが、大本営陸軍報道部長谷萩〔那華雄(1895-1949)〕少将は廿三日『実に神秘的と思はれるほどの撤収であつた、撤収部隊よりの情報でも、まさにアッツ島の玉砕勇士の英霊が米軍に対し魂魄北辺に留まり英霊部隊として彼に挑戦したに違ひないと思はれる』と前提して当時起つた神秘的な事象をあげて左の通り語つた

『まことに戦ふ英霊に潰走自滅した米兵こそ神罰を受けた亡者どもといへよう、その一つは七月廿六日のこと、キスカ島守備隊の電波には東方より、また西北方から互ひに接近しつゝある鉄塊群のあるのを感じてゐた、と俄然、濃霧の中に殷々たる砲声が数十発以上轟きわたつた、そして間もなくこの砲声とともに鉄塊群の感応が消滅していつた、これは敵艦隊が同士討ちをしてお互ひに大損害を受けたことを科学的に証拠だててをり当時キスカ部隊は、この現象を日本艦隊と敵艦隊の遭遇戦が海上にあり双方全滅的な死闘を北海の荒波と濃霧の中に行つたものと思つてゐた、ところがわが艨艟〔軍艦〕は堂々その後キスカに姿をみせた、皇軍はむしろその姿に当時唖然としたほどであつた、またわが艦隊が入港した時は哨戒監視中の海空の敵が東北方に遠く退避し附近には一片の敵影もなかつたといふ情況であつた、これこそアッツの魂魄が海上に遊撃して敵艦隊を誘ひ錯覚に陥らしめ同士相討つの悲劇を演ぜしめたと判断せざるを得ない、〔/〕

その二つは、わが艦隊が到着したのは七月下旬の某日で白昼であり当時濃霧は海上五米〔メートル〕から七米の高さに垂れ下り、その間はクッキリと海面の見透しが利いてゐた、この間に自由な行動が出来、また海面上は常に波荒き北海が東京湾のやうに波静かな情況であつた、これはアッツ島における一年以上の経験で天候日誌や陣中日誌にもなかつたことで、これがためわが行動は迅速静粛のうちに行はれたのである、これには将兵はいづれも戦友の英霊が協同作戦をしてゐる結果であると信じてゐる

第三はこのやうにして全員が乗艦を終了、出発したがアッツ島南方海上通過毎に小舟に乗つた将兵が日の丸の旗をかざしてわが引揚げをおくつてゐたことをみた兵隊がありまたはるかアッツ島の彼方に霧を通して万歳の声を聞いた将兵も多数ある、撤収部隊将兵中にはアッツ島はその後わが部隊によつて奪回され、わが守備隊が引続き守備してをりキスカの部隊を収容するものだと真に信じてゐる将兵が多数ある、二千数百の英霊が、わが部隊を掩護したものと思はれる

第四は七月下旬から軍用犬、鳩に至るまでキスカには何もゐなくなつたわけだが、これに代つてアッツの英霊部隊が上陸して米軍を悩ましたのだ、それは米軍はこの英霊部隊を一週間余にわたつて攻撃し、しかも米側の公表によると八月八日が日軍反撃の最後であるとなし、しかもある筈のないわが高射砲の反撃があつたなどといひ不時着した敵機があつたほどで、わが英魂に悩まされたといはざるを得ない、最近ガ島〔ガダルカナル島(ソロモン諸島)〕守備の米兵が得たいの知れない病魔に冒され神経衰弱のため同僚を殺傷したり、どんな褒美を貰つてもガ島の守備はコリ/\だと暴動を起してゐることもあり、わが英魂はいかなる地にあつても皇国を守護してゐるのだ

毎日新聞 1943(昭和18)年8月24日(火)夕刊

より以前の記事一覧