1930年代

無縁仏が姿を現はす【1930.9.29夕 読売】

東京・京橋で地蔵を保管していた米屋の子どもが重病に。近くの洗い張り屋でも不幸が絶えないので、行者に見てもらうと、無縁仏に祟られていると言われた。そこで、近所の空き地に地蔵と水神石を祀る祠を建てると、そこに無縁仏が現れると噂が立ち、見物人が押しかけるようになった。

『お姿』を見に……地蔵さまの祠の人だかり
無縁仏が姿を現はす
◇……東京の真中京橋の地蔵様ナンセンス

京橋〔東京都中央区〕の佃島渡しに近い舟松河岸<かし>に汐見神社と云ふ地蔵さまの祠が出来た、ところがこの地蔵さまに毎夜無縁仏の姿が現れる……と云ふので毎晩大変な人だかりで馬鹿々々しい騒ぎをやつてゐる

――◇―― 

事の起りといふのは、同河岸一番地の米屋中村鹿蔵方で震災〔関東大震災(1923)〕問題の地蔵さまを預つてゐたのだが一ヶ月ほど前、突然子供の豊(六ツ)が発熱して瀕死の状態に陥つたので深川黒江町〔江東区〕のある女行者にみてもらつたところ『それは地蔵さまのお祭りをしないから無縁仏の祟りだ』といつたといふのと、今一つは船松町一の洗張屋田中録吉方で妻君のよしが病弱な許<ばか>りか不幸が絶えないのでこれ又行者に見せたところ『床下に無縁仏の祟つてる水神石が埋つてゐるからだ』といはれサテこそかついで付近の人とも相談し水神石とお地蔵さまを祭る事になつて十八日空地に祠を建てたのだが、誰が言ひ出したのかこの祠に無縁仏の姿が現れるととんだグロ・ナンセンスを生んでしまつた。

――◇―― 

昨夜記者も人だかりの中に混ぢつて見てゐると一人のお婆さんが、『ホーラ/\姿が見えるでせう』と『見える/\』の押売りをしてゐたが記者の眼には一向それらしいお姿は見えなかつた。

読売新聞 昭和5(1930)年9月29日夕刊・7面

首相官邸へ珍客尼僧【1936.6.12夕 読売】

新潟県の学林に学ぶ尼僧20名が首相官邸日本間の前に現れ、犬養毅ら凶変に斃れた人々の回向かたがた悪魔退散を祈った。

首相官邸へ珍客尼僧
例の日本間に“悪魔退散”の誦経


十一日の十一時半ごろ、三たび〔原文ママ〕衂られていま廃屋となつてゐる首相官邸の日本間の鉄扉の前に飄然とうら若い尼僧廿名があらはれておどろいて飛出した守衛や巡査を尻目に『爾時無尽意菩薩』と珠数つまぐりながら約卅分間、お経をあげ『悪魔退散!』を祈つてひき揚げた、この尼僧群は新潟県小出町〔現・魚沼市〕にある曹洞宗尼僧学林の生徒達で、廿歳前後の尼さんの卵この朝世田谷区深沢町の宿舎を出で林長中村嶺道尼(五一)につれられて訪れ、兇変に斃れた犬養〔毅(1855-1932)〕首相、松尾〔伝蔵(1872-1936)〕大佐以下殉職警官の回向かたがた悪魔退散を祈つたものであつた

【写真はその尼さん達】

読売新聞 昭和11(1936)年6月12日夕刊・2面

”やどかり“首相に漸く安住の官邸【東京朝日 1936.4.29】

五・一五事件、二・二六事件と凶変が続く魔の首相官邸日本間を避け、広田弘毅首相が外相官邸を占領。その余波で外相は外務次官官邸を占領、次官は官邸に入れない羽目に。問題を解決するべく、首相官邸日本間は事務室に改装、官邸構内に首相居宅を新築することにした。

“やどかり”首相に
漸く安住の官邸
重なる血の記憶を葬り
日本式に建直し

五・一五から二・二六に続く嵐で血に染んだ魔の首相官邸を避けて、外相官邸に借家住ひの仮寝をしてゐる広田〔弘毅(1878-1948)〕首相のために、安住の居をどうする?といふ問題は政府の悩みだつたが、いよ/\来る特別議会に十万円の官邸建設予算が提出され、現在の首相官邸内の一隅、眺望絶佳の場所に瀟洒な日本風の首相居宅を新築しようといふことになつた【写真は首相官邸あかずの日本間】

 

奇観 ところてん街
外相から次官へ順々に押出し
仮寝の嘆きも久し

非常時内閣の広田総理があわたゞしかつたあの組閣の当初から住み慣れた三年町〔東京都千代田区〕の外相官邸にどつかと腰を据ゑてからといふもの、あの一角に当然捲起つて来たのがトコロテン的『官邸難』の

問題 だつた、つまり外相官邸を首相に占領されて仕舞つた有田〔八郎(1884-1965)〕外相は、つい間に合せに外務次官官邸を占領したが、外相就任には付きものゝ公式な大レセプシヨンは手狭な次官官邸ではとても出来ないとあつて未だにそれもやらないでゐる始末一方新たに次官になつた堀内〔謙介(1886-1979)〕前アメリカ局長はこれ又自分に当然あてがはれてゐる次官官邸の桜も今年はつひに鑑賞せず終ひで、やむを得ず私邸にくすぶつてゐるといふわけ

そこでこの間に立つて一番官邸難を気にしてゐたのは総理自身で、自分の経験からしても『一国の外務大臣をあんなちつぽけな所へ押し込んでおくのは済まん/\』といつてゐたが、いままでの永田町首相官邸日本間は

再度 の兇変で縁起も悪くそれに『陽当りは悪いし風も通らんし……』とハタから反対されてそのまゝ開かずの間、とにもかくにもいつまでもやどかり生活もしてをれぬのでいよ/\予算十万円で日本間官邸を新築することになつたものである、場所は現在の首相官邸構内東南隅<ぐう>の新緑も美しい築山を切り崩し、そこにモダーン味を加味した瀟洒な日本間数室と洋間二室を建築、特別議会後直<たゞち>に工事に着手する段取りとなつてゐる

尚いま迄の不吉な日本間は近く畳をすつかり取除き、内部を少しばかり事務室風に改造して、内閣の一部がこゝに引移ることに決定した

永久的に建造
秘書官語る

〔倉松(1878-1968)〕総理秘書官は語る

首相も早く家の方を何とかしなくては……と口ぐせのやうに仰言つてましてね……いよ/\造ることになりましたが、大体建物に五、六万はかける予定です、場所の問題ですが現在の官邸の裏門から入つてすぐのところ、眺めが非常にいゝので永久的に使へませう……

東京朝日新聞 昭和11(1936)年4月29日・11面

因縁の首相官邸日本間【1936.4.5 読売】

五・一五事件、二・二六事件と2度も殺人のあった首相官邸日本間は、陽当たりや風通しが悪いとの理由で取り壊しが決定。広田弘毅首相は外相官邸を住居とすることに。

因縁の首相官邸日本間
妖雰無用の長物
遂に取潰し
“陰気で不経済だ”が表面の理由
総理は外相官邸住ひ

<かつ>ぐわけではないが“殺し”のあつた家はいゝ気持がしないし縁起が悪い、だから麻布〔東京都港区〕の女中殺し〔前年11月に露文学者の家で女中が殺された事件〕の家も巣鴨〔豊島区〕の若妻殺し〔この年1月に銀行員の妻が自宅で殺された事件〕の家もとかく“殺し”のあつた家は取壊しになつたわけだが、さて五・一五事件〔(1932年)〕、二・二六事件〔この年〕と再度の不祥事が繰返された永田町〔千代田区〕の首相官邸はどう始末されるか担ぎ屋連中の頭痛の種であつたがいよ/\その解決をつけられることになつた

いかに剛毅な広田〔弘毅(1878-1948)〕首相でも同じ人間であれば二度も凄惨な“殺人”が行はれた官邸に常時寝起きすることはあまり気色のいゝものではない、兇変のあつた邸内の日本間は二・二六事件のまゝ放置されてゐるのだ『早くどうとか始末をつけなければ…』といふ声が広田首相の身辺や

官邸 の内外に喧ましく起つてゐたが、では内部を徹底的に改装して広田首相の住居にするかといふ案も出たが、内部改装だけではどうも屋内にこもる妖気はやはり抜けないので誰一人この案には賛成するものが無い、いかに外観や内部が立派でも首相が住んでくれないとあつては結局無用の長物となるので勿体ないが思ひ切つて日本間全部を取壊してしまふことに決定し、広田首相は三日午後、記者団との会見の際に『少し広すぎるやうだし、殊に日本間は陽あたりが悪いし風も通らないし…』と取壊しの表面的理由を説明した

広田首相の説明を待つまでもなく不祥事件は別として同日本間の建築は非常な失敗で田中〔義一(1864-1929)〕内閣時代〔1927-29年〕、“オラガ・カフエー”と謳はれた華麗な建物もライト式の欠点で天井が甚だ低く、陽の光の入らないところに持つて来て

東南 に開けた庭は築山に邪魔されて風も入らないといふ陰気なものであつたそこで日本間取壊しの結果、現在の官邸は閣議や一般会議をはじめ内閣の事務局とし、その向ひ合ひの外相官邸を日本間代りの首相並にその家族の寝泊りする住居とし外相官邸は別に新築しこれで永田町官邸を包む無気味な雰囲気を一新しようといふのである、右について横溝〔光暉(1897-1985)〕内閣書記官は語る

『あんなところをあのまゝ使へるものぢあなし、早く

復旧 しなければならないと思つてゐる、それは今計画中で総理も早くどうにかしなければといふ希望を持つてゐる』

【写真は空から見た首相官邸、点線内が問題の日本間】

読売新聞 昭和11(1936)年4月5日・7面

くさつた大家さん若妻殺しの家取壊し【1936.3.31夕 読売】

東京・巣鴨で若妻が殺された家では被害者の幽霊が出るという噂が広まった。事件のあった家や他の借家も家賃を下げろとの声が出たので、家主は当の家を取り壊すことに。解体工事はたたりを恐れて引き受け手がないので、親戚に頼み込んだ。

くさつた大家さん若妻殺しの家取壊し
他の店子曰く『縁起が悪いゾ値下げしろ』…………
………坊さん曰く『月五円なら借りて上げませう』

巣鴨〔東京都豊島区〕の若妻殺し〔この年1月に銀行員の妻が絞殺された〕のあつた“呪ひの家”が卅日朝から取りこはしをはじめた、事件発生以来ご難つゞきだつた、毎日々々『見物人』の山近所では幽霊が出る、真昼間登志子〔上記殺人事件の被害者〕さんのすゝり泣きの声が洩れるのと噂が拡まりそのうへほかの借家の店<たな>子たちは“どうも同じ家主では縁起がわるくていけない、き賃を下げればよし、それでなかつたら立ちのきますぞ”とのつぴきならぬ家賃値下げの強談判まで起つて家主商売はアガツタリのかたちになつた

家主の田島喜太郎さんはどうにかガマンをしてゐたが、最近は某巡査が登志子さんの夢にウナされるとか数日前には坊さんが三人やつて来て『この家にはタヽリがある、月五円の家賃ならば住んであげるがどうぢや』と縁起でもない借家の申込にすつかりクサツてしまひ喜太郎さんはとうたう家のブチ壊しを決心したそこで取りこはしの人夫をさがしたが誰もタタリをこはがつて引受け手がない

とうとう遠縁にあたる滝野川区〔現・北区〕滝野川町一九五三榎本長三郎さんををがみ倒して卅日朝からガツチヤン/\が始まつた次第である【写真はその家】

読売新聞 昭和11(1936)年3月31日夕刊・2面

話の港〔首相官邸日本間の修築案〕【1933.8.24 読売】

五・一五事件で犬養毅首相が横死した首相官邸日本間は事件後1年余りたっても誰も使わない。堀切善次郎内閣書記官長は洋間を新築、その上の2階に日本間を乗せる案を出したが、国費をかける理由がないと大蔵省に拒絶された。

話の港 ■…故犬養〔毅(1855-1932)〕首相が殃死を遂げた首相官邸の日本間、一ヶ年余<よ>を経過した昨今でも誰も使ふ人がなく昼なほ暗く鬼気迫る

堀切翰長

■…堀切〔善次郎(1884-1979)〕書記官長、いろ/\頭を悩ました末『あれを空<あき>部屋にして置くのはどう考へてももつたいない、床をコルク張りにして洋間にし、現在の日本間を二階にしてそのまゝ乗せて見たらどうだ』吾れながら名案と、この修築方<かた>を早速大蔵省営繕管財局へ持込んだ

■…ところが大蔵省頑として応じない『そんな理屈にならんことで国費はかけられません』と剣もホロヽ〔原文「ホロ/\」〕、堀切さんつく/\嘆じて『俺が元ならこんな修理なぞ立ち所だが、アヽ昔が懐かしい』註に曰く堀切さんは元復興局長官を勤めた身、そこでつい昔が恋しくなるわけ――

読売新聞 昭和8(1933)年8月24日・7面

首相官邸修祓式【1932.6.12夕 読売】

五・一五事件で犬養毅首相が殺害された首相官邸は、後任の斎藤実首相も気にしてか居住せず、自宅から通勤している。そこで、事件から1か月を機に官邸で修祓式を行った。

首相官邸
修 祓 式
兇変から一月目

◇去る五月十五日夕故犬養〔毅(1855-1932)〕首相が兇手に従容としてれて以来、かれこれ一ヶ月になるがこの五・一五事件のため血ぬられた官邸を斎藤〔実(1858-1936)〕現首相は気にしてか未だに四谷仲町〔東京都新宿区〕の自宅から出勤してゐるほどそのため宏壮な首相官邸には現に住む主がないわけで暴漢闖入当時の蹂躙の跡はそのまゝとなつてゐる、そこで十一日午前九時同官邸内の修祓式を行ふことになり、西野〔宮西惟助(1873-1939)の誤り〕日枝神社宮司以下の神官四名は村瀬〔直養(1891-1968)〕内閣官房会計課長、新居〔善太郎(1896-1984)〕首相秘書官等参列の下<もと>に厳そかに執行

◇まづ故首相が最後の息を引とつた奥庭に面した日本間十五畳に祭壇を設け

祭祀後血に汚された廊下から故首相が最初の一弾を受けた食堂田中巡査が射たれた室、総理大臣室、書記官長室等大ホールの隅隅まで修祓し十時終了したが

同官邸詰めの守衛、小使までが『これでやつと清浄な気になりました』と喜んでゐた【写真は修祓式】

読売新聞 昭和7(1932)年6月12日夕刊・2面

鶏のなき声で死体発見【1933.5.19 東京朝日】

東京・向島で職工が行方不明に。周辺住民の習慣で鶏をたらいに載せて北十間川を流し、鶏の鳴いた場所の川底を探すと、職工の死体を発見した。

鶏のなき声で死体発見

十八日午後二時頃、向島区〔現・東京都墨田区〕吾嬬町東洋モス工場前の北十間川から、去る十五日夜<よ>泥酔して墜落した同町東一ノ一〇七日東製氷職工樫野加藤治(四七)の溺死体を発見した、同人の家族は妻と二十歳になる息子、十六日から行方を捜索中だつたがどうもこの川筋が怪しいといふので河岸<し>に住む人達の習慣で十八日タラヒの中に鶏を一羽載せ、これを川に流して鶏のないた下に死体があるものと捜してゐると、丁度ないた下の川底から死体を発見したものである

東京朝日新聞 昭和8(1933)年5月19日・11面

『八幡の藪知らず』に入りたちまち気違ひとなる!【1930.9.20 読売】

神戸から来た男が千葉県八幡町の「八幡の藪知らず」に入り、竹を切って出て来ると、大声で訳の分からないことを叫んで暴れ出した。

『八幡の藪知らず』に入り
たちまち気違ひとなる!
昭和の世にテモ奇怪なグロ物語

【船橋電話】 水戸黄門記で馴染の深い例の千葉県八幡町〔現・市川市〕の竹藪『八幡の藪しらず』入<いり>込んで忽ち気違ひになつて仕舞つたと云ふグロテスクな物語――

▽……

主人公は神戸市菅原通り二ノ一四浅野銀二(四五)と云ふ男、十九日午後五時ごろ突然藪前の茶店に現れて『入らずの藪だなんてソンナ馬鹿/\しい事があるものか、俺が入<はい>つて見せてやる』と折柄<をりから>付近町民が『祟りが恐ろしいから止<や>めよ』と止<とゞ>めるのも聞かず、手斧を片手に七五三〔しめ〕縄を切って入<い>り込み十四五本の竹を斬って間もなく出て来たと思ひきや、急に頓狂な声を張り上げて『ヤイ誰だ、入らずの藪なんかへ入<はい>り込む奴は』と付近の田中勝次方へ駈け込み大声で訳のわからない事を呶鳴りながら暴れ出すと云ふ有様

読売新聞 昭和5(1930)年9月20日・7面

歩兵一連隊の稲荷祭り【1934.4.21夕 読売】

東京・赤坂歩兵第1連隊の営庭にある池は乾かすと神罰があるとされる。昨年に水を抜いて掃除すると、富士裾野で演習中の隊員が日射病に罹患。連隊では神意を鎮めるため、営庭内の稲荷神社の祭りを盛大に行った。


歩兵一連隊の
稲荷祭り
お赤飯に兵隊さん大喜び

□=そのむかし毛利公の屋敷であつた当時からいろ/\の伝説を秘めて赤坂歩兵第一連隊の営庭にある稲荷さまと厳島神社のお祭りを桜ざかりの廿日、兵隊さんの相撲や『さくら音頭』の余興つきで賑々しくやつた

□=このお宮の池は『神の水』と呼ばれて水を汲んだり渇かしたりすると必ず神罰があたる、昨年夏は池を乾して掃除をしたところがたちまち富士裾野の日射病騒ぎ〔1933年7月裾野で演習中の第一連隊で日射病が発生、8名の死者が出た〕を惹き起した、それ神罰だとばかり恐れをなした連隊では早速鯉をはなして神意を鎮めたといふ歴史つき―

□=で、今年は特に武運長久を祈つて盛大にやらうといふところから兵隊さんは調練を休んでお赤飯に頭<かしら>つきの御馳走、営門は午後一時から四時まで開けツ放し、市民にも景気よくお賽銭を投げてもらつたが兵隊さんたち、ちよつとお宮を拝んでは桜を仰いで『毎日お祭りをやつてもらひてえ』【写真はお祭り】

読売新聞 昭和9(1934)年4月21日夕刊・2面

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