1920年代

伊香保のお化【1929.9.7 読売】

6代・尾上梅幸と15代・市村羽左衛門が伊香保に行った。2人と懇意の婦人も行きたがったが、重病で同伴できなかった。梅幸や羽左衛門らがいる伊香保の旅館の部屋に婦人が姿を現したが、無言のまま出ていった。どこに行ったか旅館の中を探していると、東京から婦人の死を知らせる電報が届いた。

伊香保のお
梅幸羽左が麻雀の最中
戸を開けて返事せぬ人

伊香保〔群馬県渋川市〕にゐる梅幸〔6代・尾上梅幸(1870-1934)〕の部屋にお化けが出た凄話?がある、お化の本家音羽屋だからお化も親類つき合だらう位に笑つてもゐられない実話毎年梅幸や羽左衛門〔15代・市村羽左衛門(1874-1945)〕が伊香保に行く時に必ず誘ふ武桑といふ婦人がゐる

ところが| 今年は七月の半<なかば>頃から身体の具合が悪く音羽やの一行と同伴することが出来なかつた、羽左が、伊香保は不便だから俺の別荘にでも来てゐたらどうだと暗に沼津行<ゆき>を勧めたが、武桑さんは市村さんと寺島〔尾上梅幸の本姓〕さんと揃つて遊んでゐる所でもう一度遊びたいと大変心細いことをいつたり、年が年だからね、と大分悲観してゐるので力づけて別れ、八月となつて羽左が伊香保に行くといふ事を聞いて武桑さんは大変行きたがつたが病が段々重くなるので行かれず羽左に

言伝やら| 梅幸に土産物を届けるやらして病床に伊香保からの画<ゑ>ハガキを列<なら>べて自ら慰めてゐた、すると廿四日に容態が急変して死んで終つた、そんなことゝは知らないで千明では梅幸羽左、孝次郎など、麻雀大会を催してゐると障子が明いて〔開いて〕武桑さんが無言の儘元気のない顔で這入つて来た、梅幸が目敏く見付て、やあよく来たね、と言へば羽左が顔色が悪いぜ、と言つても一向に返事をしない、さうしてスウツとまた障子を閉めて廊下に

出たので| 梅幸夫人のお藤さんが後を追ふともう影も形も見えない、家中探してゐる所へ東京から電報で武桑さんの死を知らせて来たので一同は、ウムでは先刻のは……に女連は桑原々々と慄上<あが>つた音羽好みの湯治場の怪

(写真は梅幸)

読売新聞 昭和4(1929)年9月7日・10面

うたの殺しに絡はる不思議な因縁話【1925.4.10夕 東京日日】

尼崎の女学生殺しの犯人が東京・中野署に逮捕された日の夜、被害者の母親の夢枕に娘が現れて「東の方で憎い奴が捕まった」と告げた。当時、犯人逮捕はまだ尼崎署にも知らされていなかった。

うたの殺しに絡はる
不思議な因縁話
犯人の捕つたその晩に
……夢枕に立つた娘

既報、中野署に捕へられたうたの殺し犯人桐野徳治(二六)はその後も連日同署で取調べを進めてゐるが何しろ警視庁関係だけの犯罪が廿一件もある事とて取調べに相当時日を要するが逮捕した去月廿四日にとり敢ず拘留廿一日に処してあるから来たる十三日の

◇…拘留期 明けまでには東京方面の調べを終り十四五日ごろ兵庫県警察部に護送する事に決定した、八日中野署に達した尼ケ崎〔尼崎〕署及び県警察部の情報によると殺されたうたの母すえ(四二)は惨事後いつまでも犯人があがらずいつ娘のうらみが晴れべくもないので爾来警察を嫌ひ呼び出しがあつても出頭しない位であつたがその

◇…母親が 去月廿五日突然尼ケ崎署に出頭係官に面会の上、「前夜(即ち桐野が中野署に逮捕された廿四日)五年前<ぜん>に死んだうたのが夢枕に立ち、『東の方で私の悪<にく>い奴が捕まつたと知らせがあつたからどうぞ調べて下さいと申し出でた、尼ケ崎署では当時まだ中野署から何等<なんら>の移牒〔通知〕もなかつたので唯子を思ふ親心の迷ひとばかり宥<なだ>めて引とらせたが母親はそれでもなほあきらめ切れず更に兵庫県警察部にも出頭

◇…同じ話 をくりかへしたさうで中野署の係官もこの因縁話しに今更ながら奇異の感に打たれてゐる

東京日日新聞 大正14(1925)4月10日夕刊・2面

『あゝ悪い日だ……』と口走つたが運の尽き【1925.4.7 東京朝日】

5年前に尼崎で女学生を殺した男が東京・中野署で捕まった。男は窃盗犯として逮捕されたが、その日が女学生が殺された日と同月同日。思わず「悪い日だ」と口にしたことから5年前の犯行も発覚した。

『あゝ悪い日だ……』と
口走つたが運の尽き
うたのを殺害した同月同日
捕縛された桐野の因果物語
『海老茶がこわい』と口癖のやうに

阪神沿線尼ケ崎〔尼崎〕在の女学生うたの殺し犯人嫌疑者として中野署で捕縛した桐野徳治(二六)については六日午前十時から此朝着京した尼ケ崎署の木村刑事部長、県警察部の小野部長をはじめ警視庁の出口警部、吉野署長等の手で更に厳重取調べるところあつたが、うたのを殺した

短刀や 其他の物的証拠と犯人の自白並びに犯行当時の模様等全然符合し、こゝに全く真犯人に相違ないことが判明した、中野署では尚引続き今日までの桐野の行動並びに五年前<ぜん>の兇行動機等について取調を行つた上、一両日中に尼ケ崎へ護送することとなつた、桐野徳治が捕縛されたのはうたのを殺した大正九年三月二十四日から満五年目の同月同日で、彼は中野署に引致された際『あゝ悪い日だ』と

思はず 口走つたのが運の尽きとなつた、同人は去る二月二十五日中野町〔現・東京都中野区〕三六六四山脇新聞店へ拡張員と称したづねて行<ゆ>き、同家妻女と傍<かたはら>にゐた鮮人〔朝鮮人〕配達夫とを欺き現金百九十円入りの手提金庫を掻払<かつぱら>つて逃走したので、中野署では犯人は新聞関係者との見込みの下<もと>に全市にわたつて捜査を続けた結果、府下蒲田〔大田区〕の某新聞店にゐた白井寿雄なるものゝ

挙動に つき調査した処同人は偽名して去る一月末来新宿遊郭金波楼の娼妓人本(二二)の許<もと>に通ひつめてゐる事をつきとめ、三月二十四日夜<よ>九時頃登楼中を踏込み遂に捕縛するに至つたものである、桐野が通つてゐた新宿金波楼の娼妓人本は語る『白井さん(桐野の偽名)が始めて〔初めて〕

登楼し たのは一月末で一週一二回位づゝ来ましたがいつも沈みがちでした、しかし金遣ひも荒いといふではなし変つた様子もありませんでした、たゞ今思へば口癖のやうに『海老茶〔女学生が殺されたときにはいていた袴の色〕が何よりいやだ、海老茶がたたるよ』とわけのわからぬ事を言ひながら極端に海老茶色を嫌つてゐました、二十四日の晩捕まつた時は十四円程持つてゐました』

東京朝日新聞 大正14(1925)年4月7日・7面

解放される魔の神域【1925.1.24 読売】

東京・武蔵新田の新田神社の裏にある新田義興の墳墓は垣根の中に立ち入った者が発狂したり自殺したりすると恐れられている。神主は迷信を払拭するため、墳墓の境域を開放することにした。

解放される
魔 の 神 域
『神霊矢口の渡』で知られた
—新田義興の墳墓

平賀源内〔(1728-80)〕「神霊矢口ノ渡〔神霊矢口渡〕」で知られる府下武蔵新田〔東京都大田区〕府社新田神社の裏にある新田義興〔(1331-58)〕の墳墓は足利時代のむかしから

新田の 荒れ山又は荒墳と云ひ伝へ一町〔約109メートル〕ばかりの周囲に垣根を囲らして神職といへども断じて出入<しゆつにふ>せず椿竹など雑木茂るに任せ一種神霊の気に打たれるやうな処とし何人かこの墳域内に入<い>ると病気或は発狂して死ぬといふので覗き見る者さへない位附近の人々には未だに恐れられてゐるがかゝる

伝説が 更でだに一種の先入思想となると見え最近茅場町〔中央区〕某株式店主人が郊外散歩に出でてこの墳域内に入り何等<なんら>の原因がないにも係はらずその儘自殺した事や近所へ引越して来た日雇取りの妻女が焚木を折りとつてその日から病気になり玉川砂利取人夫が竹一本持ち去つてその夜<よ>から発狂死亡したなどの

故意か 偶然か昔の伝説を力強めるやうな事件ばかり起きるので現神主は科学の進歩せる今<こん>そんな事があるべき筈がないといふので近くこの境域内を開放し古事を叙した碑を建てゝ何人も自由に出入させる事とし目下その準備を急いでゐる、これによつて足利時代以来の一種の恐怖境も明るくなる訳である。神主語る

『義興公の死体をあの沈められた舟と共に埋めたところで江戸のはじめにはその舟のみよし〔船首〕が出てゐた事があるといふ話です刀剣なども出てゐますがあの墳域のすぐ後が矢口の渡だつたのです。どうも私が来てからも所謂荒山の気に打たれたといふ変事を度々目撃します、先日自殺のあつた時入つた巡査などもどうも目まひがしてならなかつたなどゝ云ひます。神域ではありますが碑でも立てゝ何人も自由に参拝出来るやうにし出来るものなら当局に願つて一度発掘してみたいとも思つてゐるのですあの森へ入れば、目くらになつたり気狂になるといふ伝説は江戸時代からのものですが大正の今日かゝる一種の恐怖境をその儘としておくのはむしろ神意に悖るものと思ひ発掘の結果は何等か歴史上の有益な効果を得まいかと思はれます』

同所の頓兵衛地蔵などは怪しいが蒲田の女塚と共に戯曲的な一種の古趾として面白い物語りを持つ場所にも追々文明の風が吹いて行く

(写真は新田義興の墳墓) 

読売新聞 大正14(1925)年1月24日・3面

「うなされ」の三七連隊にからまる因縁話【1926.7.25 大阪朝日】

兵士が毎夜うなされて騒ぎになっている歩兵第37連隊では、営庭の樹木が「化ける」とか、夢枕に立った厄除慈童のお告げどおり慈童の像が掘り出されたとかいう話がある。

「うなされ」の三七連隊に
からまる因縁話
怪談のやうな化銀杏や
掘りだされた厄除慈童

第四師団歩兵第三十七連隊の各中隊のつはものどもが夏草ならぬ営舎に夢を結びかねて昨今夜毎に奇怪な「うなり声」をたて日増に加はる暑気と相まつて不安と悲鳴にとざされてゐることは昨夕刊既報の如くであるが、こんなことは同連隊ではこれで三度目で、その最初は大正六年の猛暑のころに起つて三個中隊の者が急に営舎を飛出したりした、特別な環境がつくつた「兵隊病」としてうなづけぬこともないが、調べて見るとかうした「うなされ」の裏には夏の夜に相応<ふさは>しい怪談めいたものが絡<から>みついてゐる、元来同隊四、五、六の三中隊の営舎は南西詰のいづれも階下で建物が古めかしく、高台ではあるが妙にジメ/\として陰気臭くこの各舎が面した営庭には化銀杏<ばけいてう>と呼ばれる銀杏の樹が繁り合ひ更に槐<ゑんじゆ>の樹が植わつてゐる、そして蝙蝠<かうもり>が巣をかけたりしてゐて地下からは古めかしい九輪が掘り出されたこともある

槐の樹は古来から「化ける」といふ伝説があり徳川時代の物語りには青白い小坊主が夜半胸を圧するといふことがのつてゐる支那〔中国〕でもこんな伝説は沢山のこつてゐる、これが迷信の一

それから厄除<やくよけ>慈童がある夜夢枕にたつての宣告を怪しみながら営庭を掘つたところ果して同営庭の一隅から慈童の像が出たといふ話もあり、なほ今から十五六年前四中隊の中尉が自宅で切腹したこと五中隊の一兵卒が実弾を窃<ぬす>み出して自殺したといふこれは実際あつたことだがこんなくさ/゛\の噂がパツとたつて過労に疲れてゐる兵卒の神経を刺激し、いはゆる兵隊病を醸<かも>しだしたのではなからうかといはれてゐる

大阪朝日新聞 大正15(1926)年7月25日・9面

奇怪な『うなされ』で不安と悲鳴の三七連隊【1926.7.25夕 大阪朝日】

大阪の歩兵37連隊の営舎で消灯後、召集兵がうなされて連隊全体の騒ぎになることが何度も続いている。対策として営舎全体で終夜点灯したり不寝番を増やしたりした。

奇怪な『うなされ』で
不安悲鳴三七連隊
召集兵から現役兵まで伝播して
気味の悪い消灯後の各営舎

大阪第四師団歩兵三十七連隊に、去る五日から召集した召集兵約千名の間に、この五日程奇妙な騒ぎが続いてゐる、といふのは前記千名は各中隊に分れ四十個班ばかりになつてゐたが、最初の晩ある班の数名がうなされて悲鳴をあげ大騒ぎとなつたことあり、それから次々と殆ど全部の班に及び、消灯後の午後十一時ころから一時間おき位に交替のやうにうなされ、その度に神経の尖<とが>り来つた兵士達は『わあーつ/\』と営舎も轟くばかりの叫声<けうせい>をあげるもの、悲鳴をあげるもの、この時ならぬ大騒ぎが営舎外の民家にまで響いて不安を駆つたが、更に信太山〔和泉市〕に演習に行つてゐた現役兵が帰隊してこの怪事を聞き知り、気の小さい初年兵にうなされがうつり、二十二、三の両日のごときは連隊あげてこのうなされとそれにつゞく大騒ぎが繰返される始末となつた、この有様に高田同連隊長は『気の小さい者共だ!』とおこり出し各中隊に厳命して右の騒ぎをしないやう注意し、普通なら午後九時に消灯するのを暗くしたらうなされるといふので営舎全体徹夜点灯するやら、不寝番を増してうなされ者の看視につとめた、右について週番将校は語る

敵を殺して戦地から帰つた兵士はうなされるといふ迷信的な話は聞いてゐるし、迷信でもなく夕凪がひどくむし暑い熊本連隊でもこのことがあつた、この連隊にも大正九年頃この騒ぎがあつた、恰度〔ちょうど〕今召集してゐる兵は当時の兵であるところから見ると、昔を思ひ出してこんな精神状態にひき入れられたのではないだらうか、原因といふのは昼間の演習で疲れ切つてゐるところへ夜むし暑くて眠られないためらしく、沢山の兵士が小さい部屋にぎつしり寝てゐるため一種の兵隊病だらう、うなされた当人は夢を見てゐる調子で決して故意や真似事ではないのだ

大阪朝日新聞 大正15(1926)年7月25日夕刊・2面

青い火の燃える怪しい家を捜索【1926.4.25夕 大阪朝日】

大阪で青い火が燃えると評判の家を警察が捜索すると、缶に入った人骨と脳が出てきた。人間の脳を梅毒薬として売っていた疑いで、警察は家の主を追及している。

青い火の燃える
怪しい家を捜索
押入の中から発見した
鑵詰の人骨や脳味噌

大阪浪速区新川町仲仕〔荷役〕 佐々木伝吉〔ママ〕方の裏庭で先頃から青い火がもえ上るので附近の評判となり、芦原署は二十三日夜同家を包囲し家宅捜索をすると、押入中のブリキ鑵とミルク鑵の中〔ママ〕人間の骸骨や脳味噌が出て来たので健吉を引致取調中である、〔/〕

同人の申立によると先年同人の実父仙矢(七十二)が病死した際阿部野〔阿倍野〕火葬場で火葬し、それを拾つて来たものであるといつてゐるが自分が梅毒に罹<かゝ>つたさい人間の脳味噌で治療したことがあり最近附近の清川佐一に梅毒の薬として与へたこともあり梅毒薬として専門に売つてゐるのではないかと同所〔同署〕で追究中である

大阪朝日新聞 大正15(1926)年4月25日夕刊・2面

供養しても、仕事の進まぬ『魔の工事場』【1925.6.25 読売】

東京・内幸町の下水工事現場で作業員3人が崩れた土砂の下敷きになって死亡。以来「魔の工事場」と作業員が恐れ、工事が進まないので、業者が供養塔を立てた。現場は底なし沼だったといわれる場所で工事中に骸骨が発見されている。

供養しても、仕事の……
まぬ『魔工事場』
惨死した鮮人の亡魂の祟りだと
尻込みをする……恐怖の人夫
虎の門土橋間の工事は廿万円の損

虎の門〔虎ノ門(東京都港区)〕から土橋<どばし>雨水吐き下水工事は最も難工事とされ去る三月七日には内幸町<うちさいはひちやう>〔千代田区〕三番地先で鮮人〔朝鮮人〕土工朴鶴伊(三六金大振(二九除万祚(四三)の

三名は くづれ落ちた砂の下敷となつて惨死を遂げた此の工事は昨年九月に始め今年の三月十日にスツカリ出来上る予定で大丸組で作業して来たものであるが溜池から流れ込む水は吸み〔汲(く)み〕上げても/\一ぱい、如何しても工事が進まぬ、市の下水課では当時竣工期限を三月十日と届出でたがその後小刻みに工事を延ばして居るので日比谷署と三田署では

取締上 警視庁交通課の指揮で交通主任が毎日出張して見廻つて急がせてるが思う様に運ばないのでご幣をかつぎ出したのは大丸組の磯谷支配人で惨死鮮人が祟つてるのではあるまいかと其の供養塔を立てることになり去る廿一日麻布六本木〔港区〕の乗泉寺の住職田中清鑑〔清歓、日歓(1869-1944)〕師を招んでお経を上げて貰つたが早めに見て

七月末 まではかゝる見込みで<これ>が為<ため>に約二十余万円の予算超過だと云うが調べて見ると遅れた原因は水のせいもあるがも一つはみんな死人のたゝリを恐れビク/\もので仕事をして居ることで人夫等<にんふら>はこゝを『魔の工事場』と云つて恐れをなして居る

工事場にからむ
底無因果噺
骸骨が二つも掘出された

現場監督の大丸組配下奈良亘皓君の曰く――

魔の工事場と供養塔………………

『鮮人の死する前迄は順調に進み丁度鉄筋を組む許りになつて居たのをやられたのです、あの事件があつて以来殆んど一ケ月位は人夫等も仕事が手につかず今でもオド/\して居る始末なので供養塔を建てました、こゝはもと沼で附近には松の木立が繁つて首縊りがしば/\あつたそうで又其沼に落ちたら決して助からぬ底なしだと伝えられて居たと云う事です、私達は別段御幣をかつぐ訳でもありませんが工事を始めてから最近まで骸骨が二つ発見されました、兎に角ここは縁喜〔縁起〕の悪るい土地であつたらしいのです』

読売新聞 大正14(1925)年6月25日・3面

渋谷の高台に家の不思議【1922.4.20 東京朝日】

東京・渋谷町の高台にある家は大正5年以来、6人の人が住んだが、そのうち4人が皆、15日に死んでいる。中でも2人の軍人が死んだ前日には、邸内の鬼門に当たる厩で主人の愛馬が亡くなっており、呪われた家と噂されている。

渋谷の高台に
家の不思議
住むものは死ぬ
忌日も同じ謎の十五日
馬にまつはる因縁話
うまく逃れた筑紫将軍

階上の窓には島津邸の森が迫り遥に都会の姿が一眸<ぼう>の中<うち>に集<あつま>つて居る市外渋谷町〔現・東京都渋谷区〕字下渋谷一一七吉和田秀雄氏の家は此高台の立派な住宅である、主人の吉和田氏は去る十五日脳膜炎で死に昨日は麻布笄<かうがひ>〔港区〕の大安寺に

法要が営まれ

たが、この高台の家を中心として奇怪な風評がパツと起つた大正五年から今年迄此家に住む程の人は殆ど死霊に取憑れたやうに眠つて終<しま>ふ、而<しか>もその死ぬ日は月こそ違へ皆十五日である、呪はれた家の最初の犠牲者は歩兵大佐中川幸助氏で、参謀本部に勤務し少将に昇進し豊橋旅団長を拝命の辞令を得た歓びの五月十五日に倒れるやうに永眠した、昨年六月十五日に死んだ会社員武藤武全氏が

引越して来る前

にも二人目の犠牲者があつた、この界隈では当時既に迷信的な噂が起つて居たが、武藤氏は頗<すこぶ>る強健な人で、『噂や迷信を担<かつ>いで居ては都会生活は出来ない』実際武藤氏は住宅難の渦中へ飛込んで苦しんだ揚句担ぎやの夫人を励<はげ>まして風評の中<なか>へ飛込んだ偉大な体格で而も強健な武藤氏の家庭はこだわりのない生活が続いたが、或る日勤めの帰途広尾橋の電車停留場で下車する時

電車に跳ねられ

て酷<ひど>い打撲傷を負った、手術に依つて家族も全快の時を楽しんだが、その期待は裏切られて遂に排血疾といふ病名の下<もと>に死んだ、二人目の死亡者は東宮武官として聞こえた陸軍少将小川健之助〔賢之助〕氏、内臓の故障でやはりまた五月十五日が忌日に当る、中川、小川両氏の忌日は五月十五日、その上また別に両氏の死に愛馬の死との因縁話もまつはつて居る、両氏が死ぬ前日二頭の愛馬が何<いづ>れも主人公に先だつて斃<たふ>れた

主人の死を予報

したやうな此愛馬の厩<うまや>は邸内裏門に接した北の恰度<ちやうど>鬼門に当つて居た、住宅は堂々たる構へで何等<なんら>不快な感じを与へる箇所はない、階上に寝室、書斎、客間など起居の部屋があって階下は応接間と食堂、台所、書生部屋に当られてある、南向きの総二階で日射の加減も陰欝でなく明かるい、そこに宿命の影の翳<かざ>す気配もない、中川少将が参謀本部詰の際、三井社員の住宅を買つて材料とした建築である、爾来中川少将

未亡人の持物で

あつたのを昨年秋吉和田氏が買つて住んだ、吉和田氏は京橋区〔現・中央区〕宗十郎町の店に電気機械販売を営んで居る、病弱な為<た>保養を目的に芝区〔現・港区〕神谷町の住宅から越して来たので、当時は庭いぢりや小鳥飼ひを楽しんで居たが、死ぬ両三日前不図<ふと>病床に臥<ふ>した儘<まゝ><た>たなくなつた、中川少将以来この家に住んだ人が六人ある死んだ四人の外<ほか>に陸軍技術本部長の筑紫〔熊七(1863-1944)〕中将、台湾銀行監督課長有田勉三郎両氏がある、呪はれた四人の運命に比べて

二人は祝福され

た、筑紫氏は此家で中将になつた、有田氏は支配人に栄進して去つたのである、歓びから悲みの二つの運命を包んだ此家に呪ひの因果が絡<から>んで居やうとは思へないが住宅難に悩まされる都会の人が家に対する考へに無造作な処から生れる事実には迷信以上のものもある現にこの家の堀井戸も雨の為に増減し高い家の便所や

塵芥捨場とも接

して居る筑紫中将はそれが為め直ぐ引越した死んで終<しま>つた四人と馬二頭の悲劇を語る呪はれた家の物語りが都会の人に家に対する考を深くすれば都会の家はそれ程よくなって行くであらう

東京朝日新聞 大正11(1922)年4月20日・5面

登川校幽霊問答(下)【1920.3.19 北海タイムス】

北海道夕張町の小学校では会議の結果、宿直室に現れる亡霊と問答をすることに。戸を叩く回数で問答した結果、供養を求める無縁仏だというので、僧侶を呼んで供養を行ったところ、幽霊は現れなくなった。古老の記憶では、学校の敷地はかつて工夫が殺され、死体を捨てられた場所だった。

不可思議極まる
登川<のぼりかは>校幽霊問答
亡霊宿直の教員を脅<おびや>かす
科学の力では解けぬ謎
(下)  深夜訪<と>ひ来る者は誰<た>

亡霊が夜な夜な現れて宿直教員の脅かされた夕張町<ゆうばりちやう>〔現・北海道夕張市〕登川尋常高等小学校では二月二十八日の教員会議を開いた結果其夜<よ>三名の宿直

◇教員は 亡霊と問答を開始することゝなつた、夕張川の水は刻々として更行<ふけゆ>く冬の夜の調子を取つて、冷い風は咽<むせ>ぶが如き声して枯薄<かれすゝき>の上をわたる真夜中となつた頃、例の如く宿直室の戸を拳を以て叩<はた>くものがある、桑島訓導、佐藤代用教員、中村准訓導は胸を躍らせつゝも息を凝<こら>して耳を欹<そばだ><きも>を据へて茲<こゝ>に問答に取蒐<とりかゝ>つた『汝狐狸妖怪なるや、若<もし>

◇亡霊な らば五ツ戸を叩<う>つべし』と問へば『五つ叩つた』<しか>らば『女ならば六ツ打<うつ>べく、男なれば七ツ打つべし』と問へば、直<たゞち>に『七ツ』叩つたので、更に進んで『其人数<にんず>だけを叩てよ』と問へば『三ツ』打つ、怨みを呑<の>むものかと問へば音なきに、重ねて『無縁仏のため供養を欲するものならば五十叩<はた>くべし』と問へば、相違なく五十叩いたので流石<さすが>の三教員も戦慄して心臓の鼓動が早鐘<はやがね>を鳴らすやう、呼吸は益<ますま>す烈しく迫つて来る、斯<か>くてはならじと、胆<たん>を据へて最後の問として『必ず名僧を迎へて供養せしむべきに付き、今後現れざるに於ては百打つべし』と云へば一つだに誤らず一気呵成に百を打たので

◇流石に 三教員も詮すべなく其夜は満足に寝もやらずして、翌朝松本校長に前記問答の顛末を逐一報告したのである、松本校長も之<これ>が判断に苦<くるし>夕張町<ゆうばりまち>三丁目実相寺住職柴田信龍師を訪問し三月一日午後四時を期し供養を頼む約束をして別れ之を秘密に附して、二月二十九日の夜は中村主席訓導を初めとして十三名の男教員は宿直室不寝番研究に着手した、然るに其夜は戸を叩かなかつたが夜色陰々と更けて一時頃

◇凄愴の 気は漂ふたと思ふと佐藤代用教員は背中に水を浴せらるゝ様な気持がすると謂<い>ふて、其許<そこ>にウタヽ寝をすると間もなく『我等<われら>三人も明日の四時には成仏が出来るから今晩からは出ない』と妄語<たわごと>を云ふたので、揺り起すと佐藤教員は冷汗<ひやあせ>をビツシヨリ掻<か>いて何の夢も見なかつたと語つた、明日の四時を期して柴田住職に供養を頼んだことは松本校長は誰にも秘密にして居たのに此奇異の現象を一同は目撃したのは全く理外の理たる不思議な事実であつた三月一日午後四時教員一同参列して柴田住職によりて供養は行はれたが<それ>より十有余日を経過した今日此幽霊は現れないが

◇歴史を 辿れば右学校敷地は往時炭礦鉄道の敷設<ふせつ>の当事殺伐の気漲<みなぎ>つて土工は三人惨殺されて死骸を捨てられた所であると古老の記憶に朧気<おぼろげ>に存して居るのみで、市街地続きで狐狸河獺<かはをそ>の現れぬ場所なので、今猶<いまなほ>市街地の不思議話としてそれからそれへと喧伝されて的確な判断を下すものがない(以上は松本校長の談話と記者の調査せし真相である)(完)

北海タイムス 大正9(1920)年3月19日・4面