1900年代

大嘘吐の拘引【1909.8.28 大阪朝日】

9月28日に灰が降り、世界が終わるとの風聞が大阪・九条界隈に広まり、騒ぎになっている。警察は大道で世界滅亡を説く浮浪者を引致、取り調べたが、噂の出所は白状しなかった。

●大嘘吐の拘引
灰が降る/\▲今日が世界の終り▲馬鹿の骨頂▲名残に飲め食へ唄へ▲大道演説

<こん>二十八日が世界の終りなり、天上より夥しき灰降りて人間皆忽ちに死ぬること弘法大師様がチヤンと見抜いて云ひ遺されし通りなれば人々其の覚悟あつて然るべしと誰<た>れいふとなく市中一般に布<ふ>れ廻りたり迷信家連中斯くと聞いて喫驚<びつくり>何れも夫<そ>れ/\厄払ひの呪ひ、祈祷に余念なき様子は阿呆らしくて話にもならぬ次第なるが中にも九条〔大阪市〕界隈は其の騒ぎ最も甚だしく二十七日となりてはいよいよ今日一日の寿命なり金も道具も要るものかと隣近所誘ひ合して料理屋へ上り、鱈腹<たらふく>飲食するものもあれば、「モウ商売する気にもならぬとて「今日<こんにち>より休業」の貼札する向きも沢山あり此の暑さに有りだけの衣類を重ねて苦しみながら<これ>が現世<このよ>の着納めぢやと渋面<じふめん>作るもあるかと思ふと小料理屋では「おまじなひの粥」といふ看板出して白米に榧<かや>、小豆を交ぜた粥を丼一ぱい十二銭で販売するをセメテもの頼みにとて食べてゐる者もあり、松島の天満宮お旅所をはじめ九条茨住吉神社境内の如き二十六日の夜<よ>よりお百度参りの男女引きも切らず界隈何となくザハ/\と物騒がし、〔/〕

されば九条署は手を尽して説諭に努めゐたるが<こゝ>に一人の怪しき男が同町繁栄座附近の道路に立ち世界滅亡灰降りの一件を真実<まこと>しやかに披露してゐる由聞えたれば二十六日の夕方より徹夜して張込みゐたれど早くも悟つて姿を見せざりしより尚も捜査中二十七日の朝七時頃同町二番道路にて洗ひ晒しの浴衣がけに頬髯を蓬々<ばう/\>と生やしたる物凄き男大道の中央に立ちはだかり「皆さん世界の果はいよいよ来ました吾輩の生命<いのち>はモウ十五六時間に迫りました、有りだけの金は今日<けふ>中に使ひなされ」と演説してゐるを多数の男女が取囲んで感心し「えらいこツちや」、「情ないこツちや」と騒ぎゐるを同署の堀警部が発見し、「<につく>き奴めと引捕へて本署へ引致し厳重に取調べたるに此奴<こやつ>は日頃南区日本橋筋五丁目辺をうろつきゐる浮浪人にて大山五郎(四十年)といひ、「今日はじめて世界滅亡の事を聞き人民の為<ため>捨て置き難しと心得たれば即ち市内の各所に出張し演説したる次第なりと左<さ>も豪<えら>相に陳述し警部は其の説の出所を厳しく訊問したれど容易に実を吐かねば尚取調中なるが多分此奴は大嘘を吐き歩いたる廉により警察犯処罰令に則り三十日以下の拘留又は二十円未満の科料に処せらるべし〔/〕

尚今日<こんにち>以後又々期日を延期して大嘘を吹き立て人心を惑乱せんとする馬鹿者あるに相違なければ同署にては昼夜警戒し<かりそ>めにもかゝる妖言を吐<は>きて愚民を惑はす者は見附け次第厳罰に処する方針なりとぞ

大阪朝日新聞 明治42(1909)年8月28日・9面

弘法大師の出現【1909.8.23 大阪毎日】

大阪・本田で人々が競うように搗栗を買い求めている。警官が事情を尋ねると、弘法大師の再来が現れ、今年明治42年は「死に年」で、灰のように降る悪虫に触れた者は死ぬ。それを防ぐには、搗栗ともち米を混ぜた粥を食べることと言って消えたからだという。警察では自称・弘法大師の再来を厳重捜査中。

●弘法大師の出現
本田九条附近の大騒ぎ

去る二十一日朝西区〔大阪市〕本田<ほんでん>巡査派出所警官が花園橋市場を巡廻せしに其処の乾物店<みせ>の軒頭<のきさき>に客人黒山の如く群集<ぐんじう>何れも口々に勝栗を早く売て呉れと叫びながら双手を突出し<ひし>めくさまの如何にも不審なるより取敢ず仔細を訊<たゞ>し見ると、「五日前本田の某醤油店に一人の老僧入来り味噌越笊〔原文「笟<ざる>」、以下同 〕を差出してこれに醤油一合〔約0.18リットル〕を入れくれよと云へるにぞ番頭は打驚き、『味噌越笊に醤油を入るゝは底なき桶に水を盛ると均<ひと>しく一堪<たま>りもなく洩<もれ>尽すべしと諭すが如くに言聞け〔言い聞かせ〕たるに老僧は呵々<から/\>と打笑ひ、『<もれ>ば洩るにてもよし<と>も角量りて入れよとて聞入れざるより、『<さて>も強情の僧なるかなと打呟きつゝ量り込むと不思議にも紫色なす醤油は笊の中に波々と盛られて一滴の洩り溢るゝ様子もなきを老僧悠然と見やり、『ソレ此通りならずやかゝる行力<げうりき>は俗人の見て訝<いぶ>かしともなさんが吾にありては毫<つゆ>ばかりも訝かしからずかく申すは高野山弘法大師〔空海(774-835)〕の再現なり、方々<かた/゛\>注意あれ来ん二十八日こそ一大天変地異の襲ひ来<きた>る日なるぞよ、吾はこの災害を未前〔未然〕に防ぎ止<とゞ>め得させん為<た>遥々降天し来たれるものなり、見よや方々わが言ふ二十八日こそ一天遽<にはか>に搔曇り空よりは灰の如きもの一面下界に向つて降り来るなりこの灰の如きものこそ真実<まこと>は灰にはあらで恐るべき悪虫<あくちう>なれば一度其悪虫に触れんか全身忽ち灰色と変じて病死すべし然しそを防ぐには勝栗と糯米<もちごめ>とを一合宛<づゝ>混じ合せ粥にして食せば無事息災なり構へて疑ふ事なかれと言ふかと思へば怪僧の姿は掻消す如く消失せたる此不思議の取沙汰は洪水の如く町内に伝はり偖こそかくは勝栗と糯米の売れ行く訳にて現に今まで一合三四銭位の勝栗が一躍廿銭に騰貴猶それでも品切の有様なりとの答へに巡査も意外の感に打たれつゝ其旨九条本署に報告したるが同署にては打捨て置かれず兎も角も各派出所の巡査をして戸毎に注意を与ふると同時に、「ソノ再現の弘法大師とか自称する怪僧を引つ捕へよと捜索中大師は又も九条町に姿を現はし、「四十二年は死<しに>(四二)年と称し人々の全滅する年なり古来申、酉の両年は災害必ず多し<も>し死年の厄難を免れんとするには此杖に縋<すが>れよ丈け一丈二尺〔約3.6メートル〕余の錫杖を大地に突立ると附近の町民は蟻の如くに集まり来り銘々土下座しては先を争ひ<くだん>の杖に縋り五銭十銭と喜捨する現場を認め、「素破<すは>こそ弘法大師出現せりと警官<は>せ寄つて引捕へんとせしに怪しむべし大師は隠身<おんしん>火遁風遁の術にても心得居るか現在今其処にありたる姿が見えずなりたるも、「<それ>位にて凹むべきにあらずと目下引続き厳重捜査中なり

大阪毎日新聞 明治42(1909)年8月23日・7面

迷信から他人の娘を殺す【1908.12.26 東京日日】

横浜に住む少女が奉公先で病気にかかったが、迷信家の主人は祈祷を受けさせるばかり。母親が連れ帰ったときには治療は手遅れだった。少女は突然、自分は「おちか稲荷」だと名乗り、母に作らせた握り飯をつかんだまま亡くなった。

●迷信から他人の娘を
△握飯を掴んで絶息

横浜市神奈川青木町三千六百十七番地駒形辰五郎内縁の妻道正おまさの連子<つれこ>お園(十六)は同市花咲町五丁目七十三番地成瀬お豊(四十一)方へ五ケ年の年期〔年季〕奉公を為し去る八月にて年明<ねんあ>けとなりしかば明年<みやうねん>一月十五日までのつもりにて礼奉公を為し居たるに本月十二日頃より不図<ふと>病気に罹りしに主人お豊は大の迷信家にてお園も何時<いつ>しか其の感化を受け居<を>る為<た>病気に為りても医師に診て貰はんとは為さず日頃信仰せる中山鬼子母神<きじぼじん>に詣<もう>でゝ祈祷を受けたるが一向御利益なきよりお豊は大<おほい>に心配し<かね>て懇意にせる相生町五丁目人力車夫森田力蔵妻お鹿(三十三)に相談せるに同人は日頃信仰せる妙法経弁財天を守護神に戴かせ更に弁財天様の御託宣なりとて柳の枝、松の枝、艾<もぐさ>、燈心〔燈心草、イグサ〕、土筆<つくし>外二品<しな>を五合〔約902ミリリットル〕の水に煎じ詰めて飲ませ居<ゐ>たるが<こ>れ亦一向御利益なかりしかばお豊は十九日に至りて親元に知らせ遣<や>りたるに母のおまさは大に驚き<たゞち>に見舞に来りお園の窶<やつ>れたる姿を見て之れは容易ならざる事なれば一刻も捨て置く可<べ>からずと無理からお園を連れ帰りて平沼町の女医太田繁子に診察せしめたるに、「肺結核、腎臓結核、盲腸炎等を併発し居<を>りて最早治療<ぢれう>期を失したりとの事に尚念の為め最寄の平松医師にも診察を請ひたるが之れ亦同様の見立にて折角の治療も其の効なく遂に廿二日午後十時頃死亡したるがお園は死際<しにぎわ>に臨み俄に声を立て「我はおちか稲荷なるが只今帰る故梯子<はしご>の下に握り飯十個と菜漬を供へて呉<く>れ」と言ひしかばおまさは薄気味悪く思ひながらも「お飯<はん>は冷飯<ひやめし>でなければ無い」と言ひしにお園は「冷飯でも可<よ>し」と強いて頼むより余儀なく言ふが儘に握飯を作りて梯子の下に置きたるに斯くと見たるお園は俄破<がば>と起き上がりて二間〔約3.6メートル〕<ばか>り距<へだゝ>りたる梯子の下に駈行き握飯を両手に一個宛<づゝ>掴みたるまゝ敢なき最後を遂げたる由にて此の事遂に戸部署の耳に入<い>係官出張して一応お園の死体を検案し死因に就きては他動的の疑はしき点なかりしもお豊お鹿の両人は迷信よりお園の治療期を失せしめたる廉に依り本署に召喚して目下取調中なりと

東京日日新聞 明治41(1908)年12月26日・7面

累々たる髑髏【1909.4.25 大阪毎日】

人骨を混ぜた薬を製造販売している疑いで熊本県長洲町の売薬商を警察が捜査した結果、長崎に共犯者がいることが判明、隠した大量の人骨が発見された。骨を保管していた者は毎晩、幽霊の夢にうなされていた。

●累々たる髑髏
人骨製の売薬=夢中の幽霊

熊本県玉名郡長洲町売薬商長谷川折吉の製造販売する売薬楽寿丸には人骨を混ぜ居<を>るやの疑<うたがひ>あり、同地警察署にて捜査の結果長崎に関係者ありて多くの人骨を貯へ居<ゐ>ることを探知し同地梅香崎警察にて探索の結果北村寅吉(水上警察の元小使)七迫孫太郎(強盗前科者)道上作太郎(長崎ホテル元ボーイ)田光喜作(肴小売人)の四名の関係者及び叺<かます>四俵に詰めある人骨(頭蓋骨<とうがいこつ>十九、下肢骨二十)其の他合せて百二十斤〔72キロ〕余を前記七迫方裏の物置小屋より発見し猶別に長洲海岸共同墓地の西の隅にも髑髏百余個を埋葬しある事を発見したり。その中には生々しきものもありし由なり〔/〕

長谷川は三十五年〔明治35(1902)年〕頃より売薬製造を企て当地にて人骨売買の利益多きを聞き長洲海浜墓地が砂地にて発掘に便利なるより北村と謀り<ひそか>に発掘にかゝり田光をして支那人〔中国人〕に売り込ましめんとせしも<うま>く行<ゆ>かず其儘と為<な>しありしに昨年当地県庁敷地にて髑髏発掘事件あり田光は以来恐怖心を生じ毎日幽霊に魘<おそは>発狂せんばかりとなりしより七迫に情を明し骸骨の保管を托したるに不思議にもその家族等<ら>毎夜<まいよ>骸骨の夢を見て眠る事出来如何なる悪徒も困<こう>じ居たる内今回の検挙に遇ひし旨を自白したり昨年県庁敷地より出<いで>しものも長洲地方より持ち来りしとのみにて関係者不明なりしが今回の事件によりその出所を明かにするを得<う>べし(長崎来電)

大阪毎日新聞 明治42(1909)年4月25日・11面

古家の入口に人骨発見【1906.10.1 東京朝日】

東京・本所に化け物が出ると噂の家があった。その家をただ同然の値段で買った豆腐屋が入口に井戸を掘ると、人骨が出てきた。

●古家<ふるや>の入口に人骨発見  本所区〔現・東京都墨田区〕元町十六番地に一軒の古家あり五年前より住居するものは一ケ月と続かず他へ移転するを人々不思議がりて化物が出るとの評判を立てしを抜目<ぬけめ>のない回向院前細小路の豆腐屋堀内といふ男が聞付け、「化物長屋結構と只同様に買取り此程改造に着手し入口へ営業用の井戸を掘ると噂に違<たが>はず人骨の腕の部分が三箇現れたので、「化物の正体はこれなるべしと早速其筋へ届出でたり

東京朝日新聞 明治39(1906)年10月1日・6面

踏めば音するお勝山【1908.7.5 東京日日】

西濃赤坂にお勝山という丘がある。関ケ原の戦いで亡くなった将兵を埋葬し、その甲冑が地中にあるので、この山を踏むと、地下から太鼓を打つような音がするという。

●踏めば音するお勝山

大理石産地として無尽蔵の宝庫なりと伝へられたる西濃赤坂山(一名金生山)裏手に一小丘あり松杉欝蒼として山点より四顧すれば南方に杭瀬川を隔てゝ大垣城と相対し風光絶佳なれば四季共に杖を曳<ひ>く者多し此の山は慶長五〔1600〕年九月十四日徳川家康〔(1543-1616)〕西上して赤坂に入り同山に陣地を布きたる旧趾にて家康の戦捷に因みお勝山(本名勝山)と俗称し頂上は南北凡そ六十間〔約109メートル〕東西約卅間〔約55メートル〕にて今猶幾分陣趾の形を存せる由にてその昔<かみ>の役に敵味方の死屍累々たりしを戦捷後家康令して悉く之れを同所に埋葬せしめたるより戦歿将士の甲冑等地中に夥しき為め此の山を踏めば遥かの地下にて太鼓を打つが如き音を発すと伝へられたるが其の原因は他に何等かの理由あらんも一足毎に一種の音響を発するは事実なりと<ちなみ>に同山中には旧大垣藩士小原鉄心〔(1817-72)〕の碑及び江馬細香〔(1787-1861)〕の埋筆塚等ありと云ふ

東京日日新聞 明治41(1908)年7月5日(日)7面

島の迷信【1902.1.7 読売】

伊豆諸島で旧暦1月25日は海難亡士という厄日とされる。200余年前の1月25日、島民が代官を謀殺。それから毎年その日の夜に代官一行の亡魂が島を徘徊するとして、家に籠り、消灯して静かに過ごす。

●島 の 迷 信

田舎にては今尚昔よりの習慣を逐ふて随分馬鹿々々しき事の行はれ居るものなるが、伊豆の大島、新島、神集島<かうづじま>〔神津島〕などにては、旧暦の正月廿五日に海難亡士と云へる事を行ふといふ、〔/〕

其の起因<おこり>は昔<むか>し年々幕府の代官が年貢取収めの為<た>め伊豆諸島へ来りしに今より二百余年前代官に残忍の者ありて、一方<かた>ならず島人<たうじん>を虐げたれば、島人はこれを蛇蝎の如く恐れ、何卒<なにとぞ>この代官を除きて苦痛を免れんものと、一同申合せ居たるに、其の代官は斯<か>くとも知らず、例の如く島地の検分に来り、先づ大島を廻り、正月二十五日泉津村〔現・東京都大島町〕より新島へ渡らんとせしが、漁師等<ら>は予め代官の乗る舟の底へ穴を穿ち置きて其の舟を海中に沈め代官一行の主従<しうじう>五人を海底の藻屑と為したる事あり、〔/〕

これより後毎年正月廿五日には島中<たうちう>に種々の凶変あり、夜<よ>に至れば代官主従の魂魄島中を徘徊し、若しこの亡魂に遇ふ時は疫病<やくびやう>に罹ると称して島人は日没後決して外出せず、日の暮るゝと共に固く戸締を為し、戸の隙間にはサクナギと称する木の枝を挟み、火を消し一切の灯火を滅<け>して喫煙せず、談笑せず、只管<ひたすら>謹慎して夜を明し、この日を海難亡士と呼びて年中の大厄日となし居る次第なるが、近年島中には裁判所、学校等<とう>の設けられてより、島民の智識漸次に進みて、此習慣を打ち破らんとする者次第に殖<ふ>へ、神集島の如きは稍<やゝ>智識のある人々が尽力して漁師等<ら>を説き伏せ漸く一昨年<さくねん>より海難亡士の事を止<や>めたり、然<しか>るに偶然にもこの年島中に火事ありて人家の過半灰燼となりしかば迷信深き島民等はこれ即ち海難亡士の祟なりとて、又々翌年即ち昨年より之<これ>を再興したりといふ、〔/〕

尚大島の漁師七兵衛といふ者の家に、此海難亡士の像を祀り在る由にて、海難亡士といふは代官主従五名に擬したるもの、五体あり共に上下<かみしも>を着し、頭に大<だい>なる釜を冠<かぶ>りし奇形の木像なるが何故に釜を冠せあるものなるやは、島人も記憶する者なしと

読売新聞 明治35(1902)年1月7日(火)4面

不可思議なる種族【1908.8.14 大阪朝日】

岐阜県吉城・大野両郡とその周辺に「牛蒡種」と呼ばれる種族が点在する。この種族の人ににらまれると、精神に異状をきたす。しかし同種族間や目上の人には奇怪な作用は及ばないという。

●不可思議なる種族
牛蒡種<ごばうだね>の如き人間◎睨まれると病む◎婚姻は禁物◎約一万人の種族

岐阜県飛騨国吉城<よしき>〔現・飛騨市・高山市〕、大野〔現・高山市・白川村・下呂市〕の二郡全部と益田郡<ごほり>〔現・下呂市・高山市〕及び東濃恵那郡〔現・恵那市・中津川市・瑞浪市・愛知県豊田市〕の一部に散在し、更に信州〔長野県〕西部に点在する俗に牛蒡種といふ種族がある。これは人に憑くと離れぬこと牛蒡種の如くであるから称するのださうな、久しく同地に居た岐阜警察署松岡警部の実地談に拠るとこの種族は一種不可思議の作用を持つて居るとの事で、鳥渡<ちよつと>聞くと事実とは思はれぬ程である、〔/〕

といふのは此の種族は男女を問はず不可思議の作用を以て<たちどこ>ろに他人<ひと>を魅して終<しま>ふ、例へば此種族の者が他人<たにん>を見て憎い人とか嫌な人だとか思つて睨むが最後、その睨まれた者は忽ち発熱する、頭痛が起<おこ>る、苦悶する、精神に異常を来す、果は一種の瘋癲患者の如くなつて病床に呻吟する、幸い軽ひ〔原文ママ〕者は数<す>十日で恢復するが<もし>重いものになると、それが原因<もと>で遂に死んで終ふといふ実に恐ろしい作用である、処で此の種族の人は他人を斯様に悩ましながら自分は更に何等の異状もないさうだ、何故<なぜ><そ>んな恐るべき作用を有<も>つて居<を>るかといふ事はまだ研究した者もないので<たしか>な説明は出来ぬが或は例の催眠術同様に精神作用が知らず識<し>らずの間に斯<かく>の如き現象を示すのではあるまいか、〔/〕

大野郡上宝村〔吉城郡上宝村(現・高山市)〕大字双六<すごろく>といふ部落は残らず此の種族であるから、他部落から排斥され<あたか>も蛇蝎の如く忌み嫌はれて居る、之<これ>に次いでは恵那郡坂下村〔現・中津川市〕字袖川地内であるが若し此の種族の女を妻に娶ると其の夫は妻に対して何等の命令をも下すことが出来ぬ、妻が嫌だとか腹が立つとか思ふと例の作用で忽ち夫は病人になる、それゆゑ此の種族の女を娶つた夫は一生洗濯もする、針仕事もするといふ風に妻の為に奴隷同様な悲惨<みじめ>な境遇に陥るさうだ、現に此の愍<あは>れな夫は松岡警部が目撃した事がある、〔/〕

<しか>るに茲<こゝ>に可笑<をかし>いのはこの種族は約一万人からの部落であるが同種族の間には此の奇怪なる作用を失ふのみならず、自分より目上の人<すなは>ち郡長とか警察署長とか又は村長とかに対しては更に此の作用を施すことが出来ぬさうである、同地方は山間の僻地で文化も開けて居らぬから当時の催眠術を学んだ訳ではなく昔から自然に伝はつて居<ゐ>る一種の魔力とでも言ふべきものであらう

大阪朝日新聞 明治41(1908)年8月14日(金)9面

稲生の妖怪槌【1908.4.21 大阪朝日】

広島・尾長村の国前寺の宝物に「稲生の妖怪槌」がある。住職によると、この槌は備後三次の武士・稲生武太夫がその豪胆に感心した魔王・山本五郎左衛門から与えられたものだという。

●稲生の妖怪槌

広島の尾長村〔現・広島市〕に東練兵場に接近して国前寺と云ふ日蓮宗の寺がある往昔は暁忍寺と号したが其の後<のち>国前寺と改め敷地建物一切を浅野家の加賀御前〔加賀藩主・前田利常の娘で広島藩主・浅野光晟の室・満姫〕が寄附されたので、同宗の中<うち>では階級のよい寺院である、此の寺には宝物<はうもつ>が非常に多いが中にも「稲生の妖怪槌」と云ふのは頗る面白いお伽話的由来のある槌で、二十七八年の戦役〔日清戦争(1894-95)〕の際大本営を広島に進転遊ばされて間もなく、浅野侯〔浅野長勲(1842-1937)・侯爵〕の手を経て天覧に供したこともあるがそもそも、其の槌の由来は代々の住職に言ひ伝へになつて居つて詳細に物語ればなか/\長く三十日間昼夜話しても尽きぬ位ぢやと現住職の疋田英思師はいふ、故に極く簡単に聞くと次の如くである、〔/〕

備後の三次に稲生武太夫と云ふ武士が居つた、幼名<えうめい>を平太郎と称して幼少の時から奇変を好む大胆者で十六歳の時即ち寛延二〔1749〕年七月一日の夜<よ>、三次の北方<ほくはう>にある比熊山の絶頂の千畳敷と云ふ原に友人と共に登つた、此処<ここ>で百物語と云つて化物話を百度すると妖怪が現れると伝へて居<ゐ>るから果して事実か否かを確<たしか>めんと妖怪の事を百度話した、ところが妖怪は更に出て来ぬから家に帰つて寝処<ねどこ>に入<い>ると<たゞち>に妖怪が現れた、夫<そ>れから三十日間も夜々〔原文「夜々々<よ/\>」〕種々様々に形を変化<へんげ>して出る、けれども大胆不敵の武太夫は少しも恐れない、妖怪もとうど降伏して同月の晦日<つごもり>の夜身の丈<たけ>が六尺余<あまり>もある大男となつて、浅黄小紋の裃<かみしも>〔原文は<衣へん+上>と<衣へん+下>の2字〕に帯刀の姿にて現れ武太夫に向つて云ふには、我れは三千世界の魔王であつてこれまで諸国を横行し日本<につぽん>には此度で二度渡り諸人を悩ましたが当家に来てから、いろ/\化け変つて出ても貴殿は一向驚く模様がない貴殿には勝つことが出来ないから、今晩は永々狼藉をした御断りをして立ち退く、自分の名は山本五郎左衛門と申すが、自分と同じ妖怪の王に信野<しなの>悪五郎と云ふものが居る、もし此の者が当家に来て禍害<わざはひ>する時には此の槌を以て西南の縁を三度叩かれよ、自分は即座に来つて悪五郎を退治して見せる又何時<いつ>でも貴殿の一身が危<あやふ>いときは北方を三度叩かば多数の護妖怪が現れて貴殿を守護すべし、今此の槌を貴殿に与へて帰るから自分の帰る模様をよく見られよと云つて、庭に下りたと思ふうと異類異形の怪物が数<す>百匹にて轎<のりもの>を舁<かつ>いで来た、大男はそれに乗るや否や其内から大なる毛足をぬつと出した、数多<あまた>の怪物はこれを舁いで向ふの家の屋根の上から雲中に去つた、〔/〕

右の槌が即ち妖怪槌と云つて武太夫が生存中は片時も身辺より離さなかつた、ところが此の武太夫は日蓮宗の信者であつたから死する時、三次の妙栄寺と云ふ国前寺の末寺の住職に遺言して其槌を国前寺に納めたので宝物として永く保存されてゐるとの事である、今回同寺にては鐘堂<つりがねだう>を改築した上棟式の祝<いはひ>に十六日より二十三日迄開帳して諸人の縦覧を許して居るが、毎日千人余の縦覧人で中には五里六里〔約19.6-23.6キロ〕の遠方からわざ/\縦覧に来る人も少<すくな>くない、広島近辺では非常な評判である

大阪朝日新聞 明治41(1908)年4月21日(火)9面

死体棺中に立つ【1908.9.19 大阪毎日】

三重県鈴鹿郡坂下村の大工の妻が亡くなり、葬式を済ませて墓地で埋葬しようとしていると、棺桶の中から死人が立ち上がって笑った。驚いて逃げ出した会葬者が墓地に戻ると、遺体が蘇生した形跡はなかった。

●死体棺中
埋葬刹那の怖ろしき事実=葬式の延期=多くの保証人

<みだり>に怪力<くわいりよく>乱神を語るべからずとは疇昔<いにしへ>の聖人も誡め置き玉ひたる事ながら次に記す出来事は全くの事実にして現に多くの土地の者が均<ひと>しく保証する事柄なれば兎も角も聞<きゝ>得たる儘を報ぜんに三重県鈴鹿郡阪の下〔坂下村(現・亀山市)〕字沓掛三十七番戸住大工職山下金兵衛(四十二)といふ者あり妻は紀州南牟婁郡入鹿村〔現・熊野市〕字矢川の生れにて桐山吉左衛門三女きん(四十)といひ今を去る二十年ばかり以前に金兵衛方に嫁し爾来夫婦中〔仲〕は人目羨ましきほど睦まじく暮し居たるに此程に至りおきんは弗<ふ>とせる病気に取<とり>つかれ五日寝たる此月十二日午前八時突然大熱を発して死亡したれば、「真誠<まこと>に夢のやうなと亭主の金兵衛が嘆きは一方<かた>ならず村の誰彼始め親族の者等<ら>も急を聞きて駆着<かけつ>け来り、「死ぬにしても余り呆気のない死様<しによう>をしたものせめては半月か一月位は寝て居ても可<よさ>さうなものをと悔みやら慰めやら男泣<をとこなき>に泣き沈む金兵衛を漸く撫<なだ>めて偖<さて>打捨<うちすて>置くべきにあらねば手伝の連中が手を別<わか>其筋へも届出<とゞけい>取敢<とりあへ>ず野辺送りの用意あらまし整へ<こえ>て翌々日の十四日近親及び村の知己<ちかづき>四十名の会葬者に送られ葬式を出<いだ>したるが此辺<このあたり>の土地の習慣とて出棺は必ず日没以後との定めなるより金兵衛方にても又其例に習ひ出棺を報知する鐘打鳴<うちなら>いよ/\行列の動き始めたるは其夜<そのよ>(十四日)も更け初<そめ>たる九時前後にして棺<くわん>が金兵衛方とは十余丁〔千数百メートル〕を隔てし埋葬場所同村林雨寺の墓地に着したるは十時三十分頃なりしが誰が悪戯か昼の間に掘置きたる墓地の穴には石塊<いしころ>土くれなど打込<うちこみ>ありて<あまつさ>へ子供にても其中に入<い>りたりと覚<おぼ>しく小さき人の足形などが印し居り穴の底極めて浅くなり居るにぞ、「それではならずと金兵衛始め親族の者二三名急に寺の庫裡より二三挺<てう>の鍬を借<かり>来り棺桶は横手に差置き朧ろに照<てら>す月光を便り〔頼り〕にセツセツと埋れし穴を掘り深め居たる折しもあれ不思議やなま<ぬる>き一陣の風墓地の裏なる竹藪の梢をかすめてざわざわ/\と吹き来りしと思へば地上に据<すゑ>たる棺桶急に蠢<うごめ>き始め見る/\其上を十文字に結び固めし新らしき三条の荒縄ぷツつと切断<きれ>桶の蓋は彼方に飛<とび>去りその中よりは現在二日以前に死亡したる妻のおきんが額の角帽子に経帷衣<けうかたびら>死出の装束その儘すつくと立上<たちあが>夫の金兵衛を見やりつゝ、「ホヽと打笑ひし不思議の有様見るより金兵衛は勿論今しも読経の最中なりし同寺の住職前田賢音師も小僧も親族も会葬者もきやつとばかり腰抜<ぬか>さんほどに仰天し棺も何も打捨<うちすて>置き一時に本堂に逃込<にげこみ>たり〔/〕

然しものがものだけ其儘に打捨て置<おか>れねば金兵衛は親族一同に頼み恐る/\打連れ墓地に取<とつ>て返し見ると棺を縛りし縄の切断<せつだん>され居ると棺の蓋の墓石<ぼせき>の間に飛散り居るとは今の先見たると其まゝ相違なきも死体はその棺中にグタリと押込<おしこめ>られて更に蘇生したる痕跡もなかりしが<さり>とて此屍体が棺中に立上り、「ホヽと打笑みたる事実は独り金兵衛だけが見たる訳ではなく親族も村の者も当寺の住職も見たる事とて如何に今死人は蘇生せる模様なしとは言へ何分此儘に埋葬する事は如何にしても忍び得ぬ事なればと一同は協議の上兎も角棺桶には蓋をなし葬儀は一時中止となし再び金兵衛方に担ぎ戻り其夜<そのよ>は一同通夜をなしたるも一向に異<ことな>る事もなく屍体よりは臭気をさへ発し出せしに翌十五日改めて葬儀の出直しをなし此度は火葬に附しつ荼毘一片の煙とは化し去<さら>しめたり、〔/〕

事余りに奇怪なるも以上凡<すべ>て事実なるは当日会葬せる数十名の村人が保証する処なり(伊勢通信)

大阪毎日新聞 1908(明治41)年9月19日(土)9面