1880年代

汽車に触る【1889.4.27 都】

東京へ向かう東北鉄道の汽車の行く手を向こうからも汽車が走ってきた。上り列車の機関手が衝突覚悟で進むと、車輪に何か触れた衝撃とともに目前の汽車は消えた。翌日、調べると、大狸2匹が轢死していた。

●汽車に触<ふれ>る  東北鉄道の汽車が一昨日<をとゝひ>の夜<よ>に入り東京<とうけい>の方<かた>へ勢ひよく進行せしに<こ>は如何に東京の方<はう>よりも亦汽笛を鳴<なら>して走り来る汽車があるゆゑ機関手は驚き急に運転を緩めたるに先から来た汽車も亦運転を止<とゞ>めし容子<ようす>なれば此方<こなた>では不審に思ひ、「此辺にて行逢ふ筈はないが如何なる事かとて一度<たび>は猶予したれど、「<かく>ては果<はて>と衝突する覚悟にて再び速力を強くせしに何か車輪に触たりと思ふ間<ま>に今までありしと見えし下りの汽車はかき消す如く失<うせ>たるにぞ後は滞りなく無事に着京せしが昨日になつて彼<か>の容子を聞けば前夜車輪に触たのは年経<としふ>る大狸が二疋にて何<いづ>れも寸断々々<ずだ/\/\>になつて死んで居た由這は如何なる理由のある事かは知らねど兎に角聞得たる儘を

都新聞 明治22(1889)年4月27日・3面

古狸の圧死【1889.4.27 東京日日】

上野発の汽車が桶川の手前で前方から来る列車に出会った。向かってくる列車が朦朧としているので、思い切って走り抜けたら、雲散霧消した。線路には2頭のタヌキが轢死していた。

○古狸の圧死  此程の事とか上野発の汽車が夜に入りて桶川の手前に差掛る時前面より汽笛を鳴らして同線路を進み来る列車あり 此方の機関手は驚きて急ぎ運転の速力を緩め烈しく汽笛を鳴らしたるに先の汽車も同様の事を為し頻りに汽笛を鳴らしたりされども目に近く見ゆる列車は遂に此方に近寄らず猶目を定めて熟く〔よく〕視れば其車有るが如く無きが如く糢糊朦朧の裏〔内〕にある如くなれば〔さて〕こそと汽力を速めて先の車に衝突する如く駛り〔走り〕掛しに彼の車忽ち煙の如く消て迹方〔跡形〕もなくなりぬ〔/〕

然るに其跡にて線路を見るに大さ狗〔犬〕程なる古狸二頭軌道に引れて死してあり 忌々しき奴かなとて其皮を剥ぎ肉は狸汁にしてシテ遣りたりとか何やら昔噺に有りさうなる話なれども実説なりとて同地より報知の儘を記す

東京日日新聞 明治22(1889)年4月27日・6面

〔幽霊を人力車に乗せる〕【1883.9.5 朝日】

大阪・安治川で夜、人力車夫が若い女性客を拾い、目的の家に着くと、客の姿が消えた。家族に代金を請求したところ、娘が先々月に投身自殺し、遺体が安治川に漂着したと言われた。

<き>を一車に載すとは易〔『易経』〕の辞<ことば>なれど是は幽霊を人力車<じんりき>に載すといふ近頃の怪談〔/〕

梅田停車場<すていしよん>〔大阪駅〕辺の車夫<くるまや><それ>が二三日前の夜<よ>十時頃安治川〔大阪市〕まで客を送りて帰路<かへりみち>年の頃十八九の娘のヒヨロリと現はれて車夫さん老松町迄やつておくれといふので十銭に直段<ねだん>を極<き>ゴロ/\/\と挽<ひい>てゆき程なく老松町三丁目の某<ある>家に着くと、「何卒<どうぞ><はゞかり>ながら門戸<おもて>を開けて下さいといはれて車夫ヘイ/\畏りました」、ドン/\/\と家<うち>の人を起して後振顧<ふりかへ>れば不思儀や今迄居た娘の影さへ見えざるにぞ家の人に向ひ斯々<かく/\>と告げて車代を請取<うけとり>たいといふに家人<うちのもの>も驚き、「吾家<わがうち>の娘は先々月栴檀木橋<せんだんのきばし>より投身<みなげ>して安治川へ漂着せしことは其頃の新聞に出て人の知る所今ごろ家に帰る筈はないと聞て車夫も亦吃驚<びつくり>されば全く其亡魂の迷ふて此世に在りしが吾車に乗つて家に帰りしものかと思へばゾク/\身の毛も慄立<よだち>ながら猶<なほ>家人<うちのひと>に其娘の年格好より脊〔背〕の長短<ながひく><きもの>の縞柄までを聞くに<す>べて今乗せて来りし通に寸分違ひなきまゝいよ/\怖気<おぢけ>のさして堪<た>へられぬより早々<さう/\>車を拽<ひ>いて遁帰<にげかへ>りしといふことを態々<わざ/\>報じ来<こ>したる人あれど<かゝ>る奇怪の事のあるべきやうなし定めし何かの間違ならん

朝日新聞 1883(明治16)年9月5日(水)3面

〔知らぬ間に東寺五重塔に登った男〕【1884.7.27 朝日】

京都・東寺の五重塔の最上階に男が座っているのを巡査が発見。扉の錠は閉まっており、どうやって侵入したか分からず、男に尋ねたところ、三重県三重郡小古曽村の自宅にいると突然、一人の僧が現れ、誘われるまま夢心地になり、目覚めたら、塔の上にいたという。

○近来<ちかごろ>怪しくも亦疑<うたがは>しき咄<はなし>といふは去<いぬ>る廿三日の午后〔午後〕三時頃京都東寺の寺内にある五層<ぢう>の宝塔<たふ>の一番上に一人の男が西に向ひて坐を占居<しめを>るを偶々<たま/\>通掛りたる巡廻の査公〔巡査〕が認め<すこし>く不審に思はれしか早速同寺務所へ赴き平生<へいぜい>塔の上に登るを免<ゆるし>あるや否<いなや>を問れしに、「決して免<ゆる>しあらずとの答なれば査公は弥々<いよ/\><これ>を怪<あやし>むの余り右の訳を語り<す>ぐ三人の役僧を伴ひて塔の傍<ほとり>に到り見れば平生の如く堅く錠の箝<おろし>ありて又入<いる>事能<あたは>ざれば、「<そ>も何処<いづこ>より上<あが>りしにやと早速錠を外して塔の上に登り<かの>者の傍<そば>に行<ゆき>て熟々<つく/゛\>見るに猶彼男は驚く色なく泰然<たいねん>として香を焚き<まなこ>を閉ぢ<しづか>に念珠を爪繰<つまぐり>居るにぞ査公は急に是を咎め住所姓名を尋ねしに<くだん>の男は頓<やが>て眼を開<ひらき>て此方<こなた>に向ひ、「私は三重県下伊勢国三重郡<ごほり>小古曽村〔現・四日市市〕の農藤田和助(三十年)と云<いふ>者にて昨日家に在<あつ>て用事を仕て居ました処忽然<こつねん>一人の僧が入<いり>来り、『拙僧に従<したがふ>て彼所<かしこ>迄来<きた>るべしと誘<いざな>ひ行<ゆか>るゝに更に夢とも正気とも弁<わきまへ>ませず暫時<しばらく>してフト眼<め>を覚<さま>四辺<あたり>を見ますれば高き塔の上なる故、『<そも><こゝ>は何処にて在るやと尋ねしに彼僧は更に答へず懐より珠数と香を出<いだ>して自分に与へ、『西に向ひて此香を焚き暫時眼<まなこ>を閉<とぢ>て念誦<ねんじゆ>せよ<さ>すれば後程伴<ともなひ>に来るべしといふかと思<おもへ>僧の姿はあらずなりし故私も不審ながら僧の教示<おしへ>し通り斯<かく>はして居りますと答<こたへ>しにぞ役僧は元より査公は益々<ます/\>奇怪に思ひ塩小路分署へ拘引の上猶能<よく>取調しかど前の答の如くにて外<ほか>に別段疑はしき廉<かど>の有<あら>ざれば程なく放免して帰されしよし近所の風説<うはさ>にては世に云ふ天狗抔<など>の為業<しわざ>ならんといへど<かゝ>るものゝ有<あり>としも覚<おぼえ>何にもせよ最<いと>不審<いぶかし>き咄にぞある

朝日新聞 1884(明治17)年7月27日(日)2面

幽霊【1884.4.25 読売】

東京府南葛飾郡柳島村に住む資産家が叔父とともに身延山に詣でた帰途、富士川に流されて行方不明に。資産家の家では妻がそうとは知らずにいると、出かけた叔父が家の前に立っていた。妻が家の中に招くと、叔父の姿は消えていた。その後、警察から資産家と叔父が溺死したとの知らせが届いた。

○幽霊 怪力<くわいりよく>乱神を語るは記者の本分に背き<このま>しからぬ事ながら報知のまゝを記さんに府下南葛飾郡<ごほり>柳島村〔現・東京都墨田区・江東区〕の飯倉新兵衛(三十五年)は高持<たかもち>の部に数へ入れる程に有らねど田畑も相応に有<あり>て可なり暮して居る処、「今年は甲州〔山梨県〕の身延山詣<まうで>の年番にて是非とも参詣せねば成らぬに付<つい>ては誰か旅馴<たびなれ>た人に一途<いツしよ>に行<いツ>て貰ひたいものと近所の者を聞合<きゝあは>せると同人の叔父にて同じ番地に居る飯倉松五郎(五十年)といふ者が是まで幾度も旅をして身延山へも行<ゆ>旅の事情はよく心得て居るを幸ひ同道を頼むと早速承知して<わし>が一途に行く上は道中の事は少しも心配するに及ばぬと受合<うけあツ>て呉<くれ>るに新兵衛は悦び<やが>て支度を調へ同村の桶屋志摩為次郎(四十五年)を始め同行<どうぎやう>十三人にて今月四日柳島を発足し道中滞りなく身延山へ参詣し同月八日鰍沢<かじかざは>〔山梨県南巨摩郡富士川町〕より富士川の川船に乗り駿河路へ出る途中俄に空が時雨<しぐれ>て水面に山靄<もや>が満ち先が少<すこし>も見えぬ上此川は名に負ふ急流にて処々<しよ/\>に岩石が突出し毎度難船の有る処なれば船頭は殊のほか心配の体<てい>を見て乗組の者は一同色を失ひ、「是は御難と口々に題目を唱へ祖師〔日蓮(1222-82)〕の加護を祈ツて居るうち其日の暮方に船は漸く駿州〔静岡県〕安倍川〔「富士川」の誤りか〕の上流<かはかみ>なる天神ケ滝字鰻ケ淵といふ処まで来たが此処<こゝ>にて船頭が誤ツて棹をさし損ひザンブリ水中へ落ちると舟は忽ち横さまに側<そば>なる大岩へヅシリ衝突<ぶつか>ると均<ひとし>メリ/\と砕けて乗組一同水中へ落ち入りしが其うち志摩為次郎ほか六人と船頭二名丈<だけ>は辛くして岩に縋りて這ひ上<あが>救ひを求めしにぞ<すぐ>に近所の者が数名<すめい>馳せ寄りて厚く介抱の上此由を鰍沢警察署へ訴へ出たにつき同署にては早速人夫を駆り催し跡の七名を救助に参られたれど<はや>何処<いづく>へ流れ失<うせ>たか死骸さへ見えねば是非なく其まゝに成りしとの事なるが<かく>とも知らぬ柳島の飯倉新兵衛方では女房おあいが最早<もはや>帰る頃なるに<どう>したかと心配して去る十三日の夜<よ>一途に行た桶屋志摩次郎方へ様子を聞きに行<ゆ><うち>の門口まで戻ツて来ると誰やら家の前に立<たツ>て居るを側<そばへ寄<よツ>てよく/\見れば、夫新兵衛が一途に行て貰ツた松五郎なれば、「オヤ松五郎さんお帰<かへり>ですかと言葉を掛<かけ>てもシヨンボリと彳<たゝず>みしまゝ急に挨拶もせず其うち左も気<きの>毒さうな顔をして私はお前さんに対し気の毒でならぬ事をしたから面目なくて家へ入る事が出来ぬといふをマア其様<そん>な事を云<いは>ずとお入りなさいとおあいは先へ立て家に入<い>行灯<あんどう>を点<つけ>などして松五郎を何時<いつ>まで待<まツ>ても更に来ぬので、「ハテ変だと表へ出て見<みる>誰も居らぬゆゑ松五郎方へ尋<たづね>に行<ゆく><ま>だ帰らぬとの事にます/\怪<あやし>み居る処へ甲州鰍沢警察署より新兵衛松五郎とも今月八日富士川にて溺死したとの報知<しらせ>が有<あツ>たので、「<さて>は此間逢ツたのは松五郎さんの幽霊で有たかと驚きながら親類の者に頼み程経て川下へ流れ寄た二人の死骸を引取りに行て貰ひ其趣きを一昨日<をとつひ>吾妻橋警察署へ届け出たといふ

読売新聞 1884(明治17)年4月25日(金)2面

〔死後も気になる夫の乱行〕【1881.12.15 読売】

東京・飯田町に住む士族の男は隣家の愛人のもとに入りびたっている。男の妻は意見したが、聞き入れられず、病死。その後、隣の愛人が男の亡妻の幽霊を見て気絶した。近所ではその家に毎晩、幽霊が出ると噂している。

○飯田町〔東京都千代田区〕六丁目十二番地士族清水忠寛(五十六年)は女房お直(三十六年)との中に十五になる娘お葉を頭に子供が四人も有る薬缶<やくわん>〔はげ頭〕親爺<おやぢ>のくせに隣家の武田八百治は出商売にて家<うち>に居る日は稀なのを付け込み深切〔親切〕ごかしに女房おみね(三十二年)を口説落<くどきおと>し、八百治の不在<るす>には亭主気取で隣りへばかり行ツて居るのをお直は心憂き事に思ひ、「貴君<あなた>も若い身ではなし娘や悴<せがれ>の前も有れば何卒<どうぞ>身持を直してと泣<なき>つ託<かこ>ちつ諫めても空吹く風と聞流します/\募る乱行を苦に病みて今年の七月其事を云ひ死<じに>に死んだ跡は誰憚からずおみねの家へ入り浸ツて居たが先月の下旬<すゑ><いつも>の通り忠寛が泊りに来た夜の二時ごろ小便<てうず>に行かんと手燭<てしよく>を灯してお峯は厠<かはや>へ行き雨戸を明けて手を洗はんと柄杓を取るとき何処<どこ>ともなくお峯さん/\と微かに呼ぶ声がするのは不思義〔不思議〕と植込の暗い方を見ると靄か霧か朦朧と人の形が見えるのでアツト云つて手燭を投げ出し気絶した物音を忠寛が聞き付けて水など与へて介抱し様子を聞けば、「お直さんの幽霊がと云ひさして戦<ふる>へて居るに忠寛も気味が悪くなり今迄はお直の為<ため>に念仏一ツ申さぬ親爺が頻りと仏いぢりをして居るのを聞伝へお峯の家へは毎晩幽霊が出るとて近所の者は評判して居るといふが死んだお直は兎<と>も角<かく>も生<いき>て居る亭主が旅から帰ツたら幽霊より怖からう

読売新聞 1881(明治14)年12月15日(木)2面

〔猿が深山に婦人を幽閉〕【1882.3.12 読売】

陸前桃生郡雄勝浜村近辺の猟師が山奥で1人の婦人に遭遇。婦人は渡波町の宿屋の娘で、母娘2人山に迷い込んだところ、猿の大群に娘は食べられ、自分は幽閉されて7年が経ったという。

○数多<あまた>の年を経たる猿は人にも勝る業をなすと古き書にも見え人口に膾炙する処なれど<ま>の当りに見たるは珍らしとて此程陸前〔宮城県・岩手県〕より態々<わざ/\>知らせ越したる話は同国桃生郡<ものふごほり>雄勝浜村<をかつはまむら>〔現・宮城県石巻市〕近辺の猟師三四名が先月二十日猪狩<しゝがり>にとて程遠からぬ山路へ踏入りしに<さし>たる獲物もなければ、「是は人里に余り近くて鳥獣の栖<す>み兼る故なるべしと各<おの/\>山を越え谷を渉<わた>りて奥深く分け入りけるに遥か向ふの谷間に一人の婦<をんな>が彳<たゝず>み居るにぞ<いぶか>りつゝ近よりて御身は何しに此恐ろしき深山<みやま>の中に只一人居らるゝぞと問掛<とひかく>れば婦人は潜然<さめ/\>と涕<なみだ>をこぼしながら語<つぐ>るやう、「<わらは>は牡鹿郡<をじかごほり><わた>ノ波町<はまち>〔渡波町〕の旅人宿<りよじんやど>内海惣治郎が娘しの(三十六年)と申す者にて候ふが兼て娘のきはを同郡石の巻へ奉公に遣<つかは>し置きしを暫時<しばし>借受て連帰らんとする途中或る松原へ来かゝると一天俄に掻曇り篠突<しのつ>く雨と諸共に身も飛ぶかと疑ふ斗<ばか>りの大風吹出し親子は之<これ>に途を失ひ兎やせん角やせんと猶予<たゆた>ふ中<うち><うつゝ>ともなく夢ともなく終に此深山へ迷ひ入りしが夜明けて四方<あたり>を看廻<みまは>せば<す>千の猿妾が身の周囲<まはり>を護り娘をば数多の猿共集りて情なや喰ひ殺しぬ<そ>を眼の当りに見る苦しさは我身を劈<さ>かるゝより千百倍も勝れども如何にせん此身は籠の鳥も同じく只悲しや痛ましやと歎くの外<ほか>は泣く/\も涕にくれて見て居る内に娘が体は骨さへ余さず喰はれたるに益々驚き逃げんとすれば数多の猿之を遮<さゝ>逃るゝに道なく止<とゞま>りて猿と共に穴居し仇し月日を送ること<こゝ>に七ケ年なれども猿の首長<かしら>といふは其長<たけ>六尺〔約152-182センチ〕もありて能<よ>く人事を解<げ>妾に人間の衣食を与ふること終始一日も怠らず今に此深山に住めど病に罹りし事もなく去りながら故郷の恋しさは何と譬ん物もなく朝な夕なに故郷の天<そら>を望<なが>むるのみ御身達もし渡ノ波に行かるゝ事のありたらば此一言<ひとこと>を我父母<ちゝはゝ>に伝へ呉れよと口説<くどき>しうへ、「此深山に住める猿は凡そ六七百疋もありて首長は四五疋なるが<とて>も御身達三四人にて打留<うちと>むべき猿にあらねば毛を吹<ふい>て疵<きず>を求めんより疾<と>く/\立去り玉へかしと猟師共に帰宅を促すの情切なるにぞ猟師共は憫然と思ひながらも婦人を伴ひ帰りなば災難に遇<あは>ん事の恐ろしとて其深切なる心を謝し早々<さう/\>に谷間を出て各家に帰りし後<のち>斯くと惣治郎に告げたるにぞ同人は夢かと斗り驚くは理<ことわ>。「七年前に娘も孫も行衛<ゆくゑ>しれずと成ツたまゝ今に便りも〔原文「便<たよ>もり」〕あらざれば死んだ事と諦めて仏事さへ営みしが<さて>は猿の仕業であツたかと一度は驚き一度は喜び昨今は其娘を取返さんと頻りに工夫中であるといふ

読売新聞 1882(明治15)年3月12日(日)3面

〔亡夫が恋しい余り〕【1880.5.27 読売】

夫に死なれ、悲嘆に暮れる東京・神田の未亡人の夢枕に亡夫が現れ、遺産の隠し場所を教えた。かえって亡夫が恋しくなった未亡人は精神に異常をきたしてしまった。

怪力<くわいりよく>乱神を語らずといふ本文<ほんもん>もあり今の世に幽霊話しとはチト不向なれど聞込<きゝこん>だまゝ書き載せるは神田松富町〔東京都千代田区〕の松浦おぶん(四十二年)は去年の秋睦ましくせし亭主に死なれ其時、「共に死んでしまふとまで歎き騒いだのを親類の者が漸やく諫め諭して押し止めた後<の>おぶんは亭主の位牌に向ツて念仏申すを何よりの楽<たのし>みにして後家世帯<じよたい>を張て居ると或夜夢ともなく現<うつゝ>ともなく亡き夫が枕辺に立顕れ、「我が存生中非常の時の用心と思ひ金十五円を戸棚の破目裏<はめうら>へしまひ置いたれば取り出して資本<もとで>の足しにせよと云畢<いひをは>ツて掻き消す如く失せたのでおぶんは不思議の事に思ひ翌朝早く起き出でゝ夢の告の如く戸棚の裏板をはがして見ると其通り襤褸裂<ぼろきれ>に包んで銀貨が十五円有ツたゆゑおぶんは一度は悦び一度は歎き、「是ほど私の事を思ツて跡々までも心配して呉れる深切〔親切〕な亭主がまたと両人<ふたり>此世に有るものか亡夫<なきつま>恋し懐しと夫<それ>より少し神経が狂ひ出し、「隣家の何某は亭主に面影が似て居るから是非彼<あの>人と夫婦になりたいとて其事ばかり云ひ続け昼のうちから枕をかゝへて是から彼人と楽むのだとて家中<うちぢう>狂ひ廻るゆゑ此ごろでは一家<いツけ>親類の者も困り切ツて居るといふ

読売新聞 1880(明治13)年5月27日(木)

〔土左衛門の執念〕【1880.9.28 読売】

東京・品川である夜、若者が突然、自分は溺死した武士で、近所の猟師が腰に杭を打ち込んだから、成仏できないと言って騒ぎだした。親類が猟師に尋ねると、桟橋の杭を打ったと言うので、それを抜いた途端、若者は全快。杭を打ったところからは骨が出た。

○ハテ恐しい執念ぢやなアといふ怪談ばなしは寄席でさへ跡を絶ち最早<もはや>函根〔箱根〕から此方<こちら>には其様<そん>な野暮をいふ者は有るまいと思ひのほか五日跡〔4-5日前〕に南品川〔東京都品川区〕の車屋木村長七の悴<せがれ>藤次郎(二十五年)が海苔麁朶<のりしび>〔のりひび、のりを養殖するために海中に立てる木や竹の枝〕を建てに行た晩の夜中に勃然<むツく>と起き上り、「拙者は元歴々の武士なりしが<すぎ>しころ網船にて漁に出しとき小便をするとて誤ツて水中へ落ち入り土左衛門と成ツて流れ寄りしを藤次郎と外<ほか>三人にて死骸を引上げ海岸へ埋めて呉れヤレ嬉しやと草葉の陰で喜んで居た処何の怨も情なや同所の猟師木村源次郎といふ奴めが拙者の腰へ杭を打ち込み<それ>ゆゑ今以て成仏もせず此娑婆に迷ふて居る悲しさアラ苦<くるし>や/\と座敷中を這ひ廻るは狐狸の仕業か気が違ツたか<いづ>れにしても唯事では無いと家内一同肝を潰し早速親類へも知<しら>大勢打寄ツて評議をするうち八年前<ぜん>に品川の海岸へ男の溺死人が流れ寄<よツ>たのを藤次郎が引上げて同所四丁目の河岸<かし>へ埋めた事が有るから其死霊が附たので有らうとて彼<かの>源次郎を呼んで其由を話し、「何か心覚えは無いかと尋ねられ同人も吃驚<びツくり>して先ごろ四丁目の河岸へ桟橋の杭を打ツたが大方其処<そこ>がお士<さむらひ>を埋めた処で有りましやうと身慄<みぶるひ>をして恐しがり早速其杭を抜き取ると忽ち藤次郎は正気附きケロ/\と虚<うそ>の様に全快したと聞いて猟師の源次郎はます/\恐しく思ひ念の為<た>め彼杭を打ツた場所を堀り〔掘り〕起して見ると骨が幾つも出たので残らず取り集めて同所の長徳寺へ埋めたとは何だか虚らしい話しだ

読売新聞 1880(明治13)年9月28日(火)

〔深夜の皇居に怪しい女官〕【1881.11.19 読売】

深夜の皇居に3人の女官が立ち入ろうとした。不審に思った番兵が呼び止め、押し問答になると、急に女官の姿が消えた。薄気味悪くなった番兵は気絶。翌日、隊の飼犬が古狸を捕まえたので、昨夜の女官は狸の仕業だろうという話になった。

○化鳥<けてう>を射て獅子王の剣<つるぎ>を賜りし頼政〔源頼政(1104-80)〕の美談には似ぬ失策話しは此程の事とか皇居〔赤坂仮皇居(現・迎賓館赤坂離宮・東宮御所)〕内東御庭の入口なる御門を守衛の兵卒が夜<よ>の一時ごろ士官が巡察の時刻なればとて番小屋を立ち出<いで>し折からサアベルの音がするゆゑ<さて>は士官が参られたかと思ひのほかしづしづと歩いて来る人をよく/\見ればコワ如何に士官には有らで雪を欺く艶顔に緑の黒髪地に垂るゝ程の美しき女官が三名<かた>の如き緋の袴を着して時ならぬ深更<よふけ>に通行されるは近ごろ合点の行<ゆか>ぬ事と番兵も不審がツて姓名を尋ねると三名とも何典侍<てんじ>と名乗り、「急御用なれば早く門を開いて通すべしと門鑑まで所持して居られるからは、「よも間違ひは有るまじとは思へど深更<しんかう>の事なれば追附<おツつ>け士官が巡察に参られるまでお待ち下されたしと容易に通行を許さぬを女官は押して通らんとするにぞ番兵は其無法を咎め、「拙者が申す事をお聞入れなく左様に不作法なお挙動<ふるまひ>が有<あツ>ては女官とは云<いは>さぬと鉄砲の剣先を差向けたと見たは番小屋に仮寝<うたゝね>の夢なりしか今まで見えし三人の女官は掻き消す様に姿は見えねば番兵は薄気味悪く身内がゾツとしたまでは覚えて居たが其まゝ倒れて気絶して居る処へ巡察の士官が来合<きあは>抱き起して介抱の上様子を聞けば云々<しか/\>とは軍人に似合ぬ臆病至極と厳<きびし>く叱られた上廿日間の禁錮を言附<いひつけ>られたは飛んだ目では無く飛んだ女官に出逢<であツ>たと同隊の者も気の毒に思ふ折から飼犬が大きな古狸を一疋<くは>へて来たを見て偖は夕べの女官は此狸の仕業で有らうとの評議で有たが其翌晩よりは二名づゝにて番兵に出る事に成<なツ>たので其後<そのご>は何の変も無<なか>ツたところ昨今はまた小御所の南のお庭辺へ怪しい物が顕れる抔<など>と頻りに噂が有るにつき物好な兵卒達は女官にても有れ大入道にても見附け次第引縛<ひツくゝ>り化<ばけ>の皮を顕してやりたいと腕に綯<より>を掛<かけ>て待構へて居るとは虚<うそ>らしい話し

読売新聞 1881(明治14)年11月19日(土)