〔夜の厠で髪切りに遭う〕【1874.3.22 東京日日】
東京・本郷の袋物屋の下女が夜、便所に入ると、髪が切れ、隣家へ逃げ込んで気絶した。話を聞いた人々が調べると、切られた髪の房が地上に落ちており、俗にいう「髪切り」の仕業と分かった。
○府下本郷〔東京都文京区〕三丁目一番地に住せる嚢物〔袋物〕渡世、鈴木米次郎の下婢ぎんと云る者、本月十日夜九時過、其裏なる惣雪隠へ至らんとし、既に入らんとする時、慄然とするや否や、頭上の毛髪、面上に散じ、散髪となれり。ぎん、大に驚愕のあまり、傍に住する愛智県〔愛知県〕士族、曲淵某の宅へ駈け込み、喝<アツ>と叫びし儘気絶せり。〔/〕
衆人、其謂をしらざれば、種々介抱して薬用なさしめ、漸く我に復るに及んで事の顛末を尋るに、有りし次第を語りけるにぞ、直ちに厠の近傍を捜索せしかど、かはれる気色も見へず。唯彼の髷の達广〔達磨(だるま)〕がへしとか云へる者〔物〕、依然として地上にわだかまるのみ。是に於てはじめて俗にいふ髪きりなるを知り、大に懼れ〔恐れ〕て其後は婦女子等、白昼と雖も此厠に入るものなきに至れり。〔/〕
此事、過日、浅草〔台東区〕金龍山内にもあり。且一老人の話に、今を拒る〔去る〕四、五十年前にも此事ありて其頃、一般女子の簪に小短冊をつけ、一首の歌を書したりと。其歌に「かみきりや姿を見せよ神国のおそれをしらばはやくたちされ」。この事、折々ありてめづらしからねども、件の下婢は其後、病に侵され、親里へ引取りて療養最中なるよし。是、婦女の狭き心より有まじき事に遇ひたると苦に病みて事の茲〔ここ〕に及べるならん。試みに見よ、風は眼にも見へぬに物を散らし、或は虚空に吹揚げ、甚敷〔はなはだしき〕は家を倒し、木を抜く。是、常住眼に馴れ、毎に吹くべき物と覚悟をなすを以て怪しまねど、初めて斯る物、吹出でば、衆庶、必ず驚愕なすべし。其他千万造化の妙工、奇とせば、奇ならざるなし。彼髪切のごときも未だ原因をしらずと雖も、事の稀なるを以て疑惑を生じ、遂に病、生ずるに至る。請ふ、本文の婦人も此理を察して迷ひを解き、貴重の性命を誤らざらん事を。