海外

美人の生埋【1893.7.30 読売】

アメリカに新妻を亡くした男がいた。ある夜、男の夢に亡妻が現れ、夫の友人に生きたまま埋葬されたと告げた。翌朝、妻の墓をあばくと、棺を中から必死に開けようとした形跡があり、生き埋めにされたことは明らかだった。

●美人の生埋  今は昔にもあらずつひ此頃の事にて亜米利加<あめりか>にチヤーレスバウワー〔Charles Boger〕となん呼べる若き男住みけりこの男ひとゝせ前に日頃恋ひしたひける艶女<たをやめ>と浅からぬ契<ちぎり>を結びやう/\父母<ちゝはゝ>に請ふて晴の夫婦となり、「死なば諸共と誓ひしことも仇<あだ>となりまだ九ケ月も経つや経たぬ中<うち>妻は可愛<いとをし>の夫を残してあらぬ世の旅人となりければ夫の歎きやる方なく花鳥の音色も面白からず仇に月日を過しけるが夢現<ゆめうつゝ>にも亡妻<なきつま>の面影身に添ひて日夜心を悩ます余り果ては気狂ひ心乱れて浅間<あさま>しき振舞をぞしける或る夜<よ>のこと枕辺に悲しげなる女の声するに不図<ふと>目を醒<さま>せば亡妻の姿悄然と打しほれ物言はまほしき風情を怪しみて其の意を問へば、「御身の友達は情なき人々かな<わ>れ此世には何<いか>なる罪業ありてかまだ生<しやう>あるもの<あはれ>とも思はず闇路の人となしけるよこれを知り給ぬは返す/゛\も怨めしき御身の心かなとて打歎く夫は呆れて<そ>はいかなる故ぞと問ふまもあらず亡霊の姿は消えて夢は醒めけり〔/〕

男はつく/゛\と我が妻の亡くなりて友達の手に葬られける次第を思へば今のはよしや夢なりとも正しく神の告ならんと一心に思ひ込み夜の明くるを待<まち>もあへず飛起きて人々を集<つど>其の由をかたりて亡妻の墓を掘<あば>きければ<ひつぎ>の中<なか>なる鏡は粉微塵に打砕かれ蓋も片々<ばら/\>となり足は多く筋々を砕きて手はおどろに振乱せる髪をしつかと攫<つか>み居たる様浅間しといふも愚かなり、男はみてこれぞ確かに生きながら埋められける証拠なり昨夜<ゆふべ>の夢は夢ならず神の御告<みつげ>の有りしこそ嬉しけれと涙片手に妻の亡骸<なきがら>を改葬して香花<かうはな>を手向<たむ>、「心安かれ我が妻アーメン/\と礼拝して家に帰りければこの男其の日より心も清々<すが/\>と気も安らかになりけるとかいと怪しくもまた無惨なる話なり

読売新聞 明治26(1893)年7月30日・3面

 

高射砲に兵の幽霊【1956.7.19 朝日】

日本からニューギニアに来た遺骨収集団に地元住民が高射砲陣地跡に毎晩日本兵の幽霊が出ると訴えた。収集団の僧侶が読経したことで、地元住民は安心した。

日本兵の幽霊が出るという高射砲=ハマデの丘で=入江特派員撮影
高射砲に兵の幽霊
ニューギニアで遺骨収集団ねんごろな供養

【西部ニューギニアで入江記者】幽霊というものがあるかないか、その判断は別として、これはニューギニアの戦跡で聞いた日本兵の幽霊の物語――

四日、ホーランディヤ〔現・ジャヤプラ〕近くの海を見おろすハマデ岬の丘で、大成丸でやって来た遺骨収集団は慰霊祭を行ったが、その直前、一行にかけこみ訴えるパプア土人がいた。

パプアの話はこうだ。村落の横に元日本軍の高射砲陣地があって、いまでも一門がさびついたまま残っている。ところが夜そこを通りかかると、戦闘帽をかぶりゲートルをまいてやせた日本の兵隊が物すごい形相で、砲身をグルグル回しながら空をにらんでいる。その幽霊は毎晩出るというのである。土地のパプアはこわがって家を棄てて逃げ出し二、三戸しか残っていない有様。恐くて困るから、あの大砲を日本に持って帰ってくれ……というのだった。

すぐ私たちは行って見た。日本軍がよく使った高射砲だ。潮風に赤くさびてすぐそばに爆弾を受けたらしく砲身の下側に穴があいていた。遺骨収集団が調べると、そこは高射砲第六十四大隊がいたところで金谷少尉ら十五人が直撃弾で戦死している。ただ一門だけ残った高射砲には、ここで死んだ兵たちの亡霊が必死にしがみついているようにも思われた。

一行を代表して鶴見〔横浜市〕総持寺の松田亮孝師が高射砲の前で般若心経を唱え成仏を祈った。「大砲をのけなくても大丈夫。もう幽霊は出ないから」この言葉にパプア人たちは安心したらしい。波の青いハマデ岬に日本兵の歯を食いしばった幽霊は、もう現われないことだろう。

朝日新聞 昭和31(1956)年7月19日・9面

西洋の狐狗狸さん【1903.5.17 読売】

近頃イギリスの霊魂信者の間で「プランシェット」という器具が流行している。この器具に指を置き、質問すると、器具がひとりでに動き、回答を文字に書くという。実際に汽船の遅延、説教で引用された聖書の箇所、手紙を出した相手の本名、舞踏会の同伴者、受験の成否などを的中させた事例が報告されている。

西洋狐狗狸<こつくり>さん
(霊界の使命を伝ふると称する器具)

拝啓此頃の英字新聞に別紙の如く「コツクリ」の記事有之<これあり>、日本の「コツクリ」と大同小異なるも外国の「コツクリ」は多少興味有之候事と存<ぞんじ>候間御報知致<いたし>候也

二月二十八日    在英国 井上 円了〔(1858-1919)〕

近頃プランシエツト〔planchette〕とて精霊的試験に従事せる精霊信者の熟知する小器具に付<つい>て公衆の注意を惹くに至れり此簡単なる設計は脚車及<および>鉛筆を有せる槲樹<かいじゆ>の心臓形滑板より成り斯道の言ふ所によれば予言力を有して現在過去未来の三界に関する質問に応じ恰も死せる魔術者とも謂ふべく実に秘密の性を帯ぶといふ

此使用法は別図に見るが如し

即ち一人<にん>二人<もしく>は三人が其指頭を軽く器械の上に置き、答案を要すべき件の疑問を考察すかくて数分<すふん>を経て器械は自動し始め鉛筆に由り紙上に歪形<ゆがみなり>の文字<もんじ>を漫書す此文字は秘怪なる使命を伝へ文字亦判読し得<う><し>かも懐疑派は之<これ>を嘲笑すと雖もプランシエツト信心者は此器具の記せる吉凶の指導告知の語に信を措けり<た>だ一二試験者の手が平面板に置かるゝ時に文字を書することに付ては毫も疑<うたがひ>あることなし

現に記者は魔術的能筆にて器具の動くを見受け斯くして書かれたる文字を解するを得たり<しか>し如何なる活動により書かるゝや又斯<かゝ>る予言に対し充分注意を払ふこと果して正当なりや否やは寧ろ世人の判断に任<ま>かすを可とす本文<ほんもん>は単にプランシエツトが事実を現示したる場合を明<あきら>かにせば足る

リバプール市エ、ダニエル氏の語に拠れば<かの>子息当年十七歳なるが<つね>にプランシエツトの顕著なる結果を得たり即ち先方の新消息がリバプールに電達する以前既にプランシエツトに由り某汽船が西印度島のセントトマスに於て不慮の原因の為<た>め数日間滞在せし事実を現示したり又此具に由り其児<こ>の為に或重要なる秘密会の通りの言葉を教え又数人の朋友間に交互計算を済<すま>各自正当なる配布を受くるを得せしめたりと尚言へらく、「我児は毎に之を以て唯一の忠告者とし彼にとりては平居座側の珍玩なり。「又嘗<かつ>て二婦人が此器具を持し疑問を要する諸客を延<ひ>くを見しかば<さいはひ>、当時余は過日スパージヨン〔Charles H. Spurgeon(1834-92)〕の説教を聴聞せし時其教文の句に感動したりしが其文句は記憶せしかど其出処を忘れたりしかば早速之をプランシエツトに尋問せり<やが>てプランシエツトは之に応へてコリント後書〔新約聖書の「コリントの信徒への手紙二」〕の節目<せつもく>を示せしかば之を験せしに全く之に符合し従て該婦人に教文の句を示<し>めす必要もなかりし云々尚同氏は一婦人と此具に手を置き婦人の夫たる少佐某氏を要して疑問を掛けしめしが少佐先づ問ふて謂<いへ>らく、「今朝<こんてう>は誰に書状を送りしか<よつ>てプランシエツトは直<たゞち>に書き始めたるが先刻より凝視し居たる少佐俄に謂らく『止<やめ>卿は既に余の問<とひ>に応えたり』されど試<こゝろみ>に其姓名を書<しよ>せしめたるが少佐又謂<い>『可なり、そは或は然<しか>らむ綽名<あだな>其に相違なし併し対手<あひて>が本名ウヰリヤムなりしや否やは余の知らざる所なりき』と因て試に軍人簿を探りしに果してウヰリヤムなりしといふ

此器具は初め白色<はくしよく>の一大片紙上に置かれ二人の者其指頭を図示せるが如くに置き其答解を要すべき疑問を考ふ数分間の後<のち>プランシエツトは運動し始め外見上任意に左右し<これ>に附着せる鉛筆もて紙上に不規則なる線を引くなり或場合に於ては字体明画なることあり。此活動こそ多数の信者は斯くして秘密なる使命を受理し著名なる予言の的確に応ずることを信ずるものなり

又或知人プランシエツトに疑問を掛<かけ>某氏は嘗て富みたるか器具は直に答へて決して<ネバー>然らずと書せしは図に於て見る所の如し

次に述ぶる所も亦其関係者の事実として証する所なり

或妙齢の二貴婦人問ひけらく『我々は来<きたる>廿五日舞踏に行くを得んか』とプランシエツト即ち応へて『然り』『さらば何人<なにびと>と伴ふや』応へて『チヤールステイー氏』と此チヤールステイ―氏は此妙齢婦人の兄弟なりしかば直に彼女はいふ『オーそは無根なりチヤールスは目下亜弗利加<あふりか>に在り』此問答に付き事実を験せしにプランチエツトの言ふ所正当にして此二婦人こそ之を知らざりしなり当時、チヤールスは亜弗利加より帰国中に在るものにして案の如く廿五日は正<ま>さしく舞踏会に此二婦人と相伴ひしといふ

或他の場合に疑を掛けて『S氏は試験を無事に通過し得べき乎<か>』と受験者の姉妹及朋友の問に応へて此の奇妙なる器具はいふ『然り』。「然らば順位は何番なる乎」。

応へていふ、「十七番なり」。斯くて不思議にもS氏は試験を通過し其順位も亦十七番なりき

以上プランシエツト不思議の例百を以て数ふロンドン市霊魂信者同盟会にては此器具を以て霊物と相通ずるの手段と為し之に注目せり

猶注目すべきは行使者の意向は件の器具上に向けしめ其目的に萃注<すゐちう>〔集中〕せしめざるを要す之を為すの方便として其手の器具上に置<おか>るゝ間は或書物を読みつゝあるなり

<かく>器具の活動が果して霊物の勢力に起因するか<は>た不可思議なる神経的の発作より生ずるかは記者の与り知る所にあらざるも要するに一二少数者之を信用し大方<たいはう>の者之を疑ふは固<もと>より其所なり

読売新聞 1903(明治36)年5月17日(日)4面

長期戦〔亡父の霊の導きで奮戦〕【1940.4.7 大阪毎日】

学生時代に野球選手として活躍した堺市出身の上等兵が中国・山西省で戦闘中、目の前に現れた父の手招きで砲撃を免れた。上等兵は間もなく父の死の知らせを受け取った。

長期戦 元浪商〔浪華商業学校(現・大阪体育大学浪商高等学校)〕野球選手、堺市二条通出身平古場正巳〔正己〕上等兵は昨年六月廿二日夜山西省緯県〔絳県〕附近で奮戦中目の前へ父が笑つて立つてゐる姿が現れ“お父さん危い”と思はず叫ぶと“こつちへ来い”と父は手まねきをするので夢中で敵弾中へ飛び込んだが、そのとき今までゐた場所に迫撃砲弾が炸裂“アツ”と後を振り返つた瞬間父の姿は消えてしまつた

戦闘後間もなく父伊之助さん死亡の便りがもたらされ続いて妻も失つたが以来同上等兵は幾多の討伐戦に必ず亡父の霊の導きで奮戦をつづけてゐる(安邑にて尾島特派員)

大阪毎日新聞 1940(昭和15)年4月7日(日)

魂魄留まる英霊よ正に見た『幻の進軍』【1943.9.19 毎日】

南方のある島で海岸の警戒に当たる歩哨の間で、夜の決まった時刻に軍旗を先頭に砂浜を通過する部隊がいるとの話が広まった。噂を聞いた司令官が部隊の墓標を立てて部下と黙祷すると、幽霊部隊は現れなくなった。

魂魄留まる英霊よ
正に見た『幻の進軍』
鉄と戦ふ南の血肉篇

【南方前線基地にて吉田一次海軍報道班員十五日発】 山本〔五十六(1884-1943)〕元帥は南の空に、アツツの将兵二千五百有余は北海の涯に闘魂の極致を遺憾なく発揮して散華<さんげ>された、現在われ/\はこの方々の闘魂を承け継ぎ戦場に、銃後に、天人共に許さぬ野望を遂げんとする米英を殲滅すべく一億総進軍の真最中である、以下南の決戦場に於て見聞した若干の事実をありのまゝにお伝へして、われ/\銃後の者の闘魂を愈々〔いよいよ〕固めるよすがとしよう

分秒争ふ飛行場整備

南の決戦場では空中は勿論地上においても連日連夜血みどろの戦ひが行われてゐることは、すでにわれわれの知る通りである、わがジヤングル内の陣地を攻撃してくる米濠軍は、絶大の物質力を頼みとし、まづ空から無数の爆弾を投下して昼なほ暗いジヤングルを丸裸にする、次に常に必ず廿倍以上の兵力を以て極めて緻密な計画の下に徐々に近づいてくる、彼等の持てる兵器は世界最新である、わが果敢なる夜襲にあへば悲鳴をあげて逃げ出す彼等、決して真<しん>底からの勇士ではない、夥しい鉄の量によつて物に物をいはさんとするに過ぎない、しかし皇軍勇士とて身は鉄石ではない、鉄に対するに血肉を以てするわが軍の筆舌につくせぬ労苦はこゝに始まるのである爆撃にあへば敵機を睨んで切歯扼腕するより外に仕方のない地上勤務員、日々敵の盲爆のため若干づつ戦友を失つてゆく地上整備員、彼等は敵の飛行場爆撃が済むや否や飛行場の整理に忙殺されるのである、まづ爆弾による穴埋めをして友軍飛行機の着陸を可能にしなければならない、飛行場の穴埋めは分秒を争ふ、しかも附近には投下後五分か十分たつと爆発する時限爆弾をばらまいてある、修理中にこれが爆発し鉄片が雨と降る一昼夜を経て爆発するしつこいのもある

機体と取組む整備兵 南方戦線にて
古川特派員(海軍報道班員)撮影=海軍省許可済第三二号
 
無念隊長機離陸不能

爆撃隊は一分と間隔をおかず次々と飛立つてゆく、その時突如、某隊長の一機は滑走路が将に尽きんとしてゐるのに飛揚しない、前方の海に突入か、その機の機附整備兵は帽で目を覆つてしまつた、機は左に急旋回し、滑走路を外して急停止した、抱いてゐた爆弾がどうしたはずみか爆発した、機は炎炎と燃えてゐる、搭乗員は一人も出てこない、爆弾は次々と引火してゆく、隊長機を失つた他の編隊機は、炎上する隊長機の傍らを轟然たる音と共に逐次離陸してゆく依然任務を続行せんがために……五分とたたぬうちに機は火達磨となり機銃弾が猛烈にはじけてゐるわれ/\は近づくこともどうすることも出来ない、上昇した爆撃機は編隊を組み誰かの機が一番機となつて一路南を指してゆく、われわれは手に帽を持つたまゝ上を見下を見てゐるばかりである

或る夜の歩哨報告

南方第一線の某島は、敵との距離が飛行機で僅か卅分である、前面には緑濃き大小の島々が点在し、瀬戸内海を偲ばす風景である、我々の踏む浜辺は、南海特有の眩ゆい陽光に輝く白砂である

海岸に沿ふ一条の道路には歩哨が絶えず海面及び上空を警戒してゐる、歩哨の前方には白砂の浜に続いて紺碧の海がある、この浜に敵の屍やたまには友軍の屍が漂着する

或る月のない夜十時から十二時まで、即ち横にねてゐた南十字星が真直に立つて本当の十字となるころ勤務についてゐた歩哨が、交代してから衛兵司令の下士官に報告した

「立哨中、異状なし、たゞ陸軍部隊の約一個小隊位が軍旗を先頭にして砂浜を通過したゞけであります」

こんな時間に軍旗を捧持する小部隊の通過、奇怪極まる話である

「おい、夢でも見たんではないか」「間違ひありません、はつきりは見えませんでしたが確かに軍旗を先頭にして砂をざく/\踏んで行く音が聞えました」

すると別の部隊もさういふ部隊を見たことがあるといひ出した、矢張り今夜のやうに闇の夜で、時刻も同じころであるといふ、衛兵司令は錯覚だらうと否定した、翌日勤務があけてから同僚の下士官に右の話をした、誰も一笑に附してゐた

しかるにその晩である、同じ時刻に歩哨に立つた他の兵が同様の報告をした、それも一人ではない、三人も確かにその姿を朧げながらも見たし、白砂を踏む音を聞いたと主張した、一同水をかけられたやうにぞつとして押し黙つてしまつた、この噂はだん/\拡まり、司令官の耳に入つた、司令官は何もいはず、或る部隊名を書いた墓標を立て部下一同と共に黙祷を捧げられた、われ/\は何だか判らなかつたが黙祷した、それつきりこの幽霊部隊は出現しなくなつた、恐らくはこの島へ上陸作戦をやつた部隊かまたはこの海岸の沖合で憎いメリケン〔アメリカ人〕に撃沈された船に乗つてゐた部隊なのであらう、魂となつて進軍を続けてゐたのである、魂の進軍!それは北に南に続けられてゐることであらう

半裸で飛立つ海鷲

敵は嘗て我が戦闘機をペーパー・プレーン、即ち紙の飛行機といつてゐた、これは彼等の間に恐怖心を起させぬためだつたかも知れない、今では同じ戦闘機をブラツク・モンスター、即ち黒い怪物といつてゐる、我が戦闘機を見た敵機は一定の間隔をあけて近づけまいと苦心惨憺してゐるやうである、敵が難攻不落と誇る「空の要塞」さへも烈々たる闘志に燃える我が戦闘機乗りの敵ではない、それは日本兵にして初めて行ひ得る体当りといふ奥の手があるからだ、但しこゝに自爆一機といふ尊い犠牲が記録されることを忘れてはならない、暑い太陽は遠慮会釈なく照りつけ、機体に触れれば火傷するかと思はれるばかり赤白の吹流しは重くだらりと垂れてゐる、戦闘機操縦士は最高の能力を発揮せんがため分秒と雖<いへど>も睡眠しておかうとする、ふき出る汗、某見張所からの報告

「○時○分、○○の南方海上に敵三六機○○を通過北上せり」

伝令が幕僚及び搭乗員に伝へる、敵は近い、さツと漲る殺気、がばとはね起きた搭乗員は片手に飛行帽、片手に上衣と拳銃を持ち、愛機の方へとまつしぐらに駈けてゆく、南を指して真一文字に全速をかけて滑走を始めた、機上に飛行帽は被つてゐたが、上半身は裸体のまゝだつた、今日もまた若桜は文字通り赤裸々の全身を敵にぶつけにゆくのだ

羊羹は兵器でない

懐中電灯は一種の兵器であり、羊羹は菓子である、現在上陸した敵は必ず殲滅する、但し敵の後続部隊を遮断して貰ひたい、この悲痛な電報を発したのは某島を守備する〔原文「すする」〕数十名の陸戦隊である、この外弾薬を送れとも食糧を送れともいつてこない、飛電に接して既に三日、附近の友軍と遮断されてしまつた同島の陸戦隊に弾薬、食糧は最早ない筈である、強行補給を行ふべきである、しかし同島の四周には敵の艦隊が蟠踞し、絶えず敵機が哨戒してゐる、夜陰に乗じ島に乗上げてしまふより外に手はない、船は使へなくなり、人は負傷するであらう、しかしこれ以外の方法はないのだ、遂に強行手段は決行された、友軍の危急を救ふ、誠に男子の本懐、弾薬の補給を受けた守備隊員は涙を流して喜んだ届けられたものの中に丸い筒のやうなものがあつた、一同は懐中電灯かと思つて喜んだ、ところがこの懐中電灯にはスイッチを入れるボタンがない、淡い月光にすかしみれば押出し式の羊羹であつた、守備隊員の手からこの羊羹がぼとりと落ちた

羊羹はうまい、しかし兵器ではない

友軍機来援に泣く

○○島の飛行場にはほんの少数の地上勤務員がゐるだけである、そこは敵と目と鼻の間にあつた、それに敵が連日連夜爆撃にきた、木で飛行機を作つて飛行場に出しておくと、敵は好餌御座んなれとばかりに猛爆をしたといふ、某月某日我が航空隊の一部は夕闇を利用してこの飛行場に進出し、翌払暁本隊と合して対岸の敵に猛攻を加へることになつた、この作戦は大成功であつた、敵の寝込みを襲つて艦船廿数隻を撃沈破し、基地を炎上した、先発した〔原文「炎上した先発した、」〕搭乗員の帰来談

搭乗員の一番心配してゐた飛行場は連日連夜の爆撃にも拘らず、穴もなくきちんと整備されてゐた、飛行機は無事着陸した、地上整備員及び守備隊員は飛行機の周囲にかけつけた、中には機体をさすつて泣いてゐる兵もある、彼等は数ケ月友軍の飛行機をこの飛行場に迎へたことがないのだ、そして彼等の一人は泣きながら呟いた「まだ日本にも飛行機があつたのか」

参謀神色自若たり

艦爆、即ち艦載爆撃機を主体とする第○○航空戦隊のK航空参謀は絵筆をとれば玄人はだしであり、戦況の苦しい時も微笑を浮べ、いかなる報告に接しても泰然としてゐる、スケッチ・ブックには仏桑華、飛行場、飛行士の顔、住民の姿態等が鉛筆で書いてある、参謀はこれに着色すべく辷々しく筆を運んでゐる、爆撃の成果が編隊長機から無電で送られてくる、伝令が即刻幕僚室に報告する

その間K参謀の手はばたりと止つてゐる、自爆か未帰還の機数が報告されると、参謀の絵筆はあらぬ所へ色を塗つてしまふ。仏桑華の花弁の赤色は、花弁を越えて画面一面に拡がる、飛行場は褐色一色になつたりする、かくてK参謀の絵が完成することは極めて稀となる

参謀もまた人の子であり親である、頃合を見ては飛行場へ若鷲を迎へにゆく、年の頃廿二、三の若い編隊長たるS中尉が、戦果についても損害についても至極簡単に報告する、今日は未帰還が一機あつた、司令官も幕僚も押黙つたまゝ報告に基づいて何かを地図に書き込んでゐる、S中尉は我々の所へきた、ぽつりと一言

「ひどい火の海だつたからなあ」

敵の防禦砲火についていつた言葉だ、夕闇はだん/\濃くなつてゐる

「あれは多分○○島に不時着してゐるだらう」

夜間敵潜水艦の巣となるといふ○○島、S中尉は還らぬ部下の鞄を手にしたまゝ身じろぎもしない、誰もかういふ時にいふ言葉はないK参謀が明早朝○○島へ救援にゆくことについて指令を与へてゐた、誰にともなく中尉は

「明日は火の海の下に出るぞ」

と唇を噛んでいつた、若々しい紅顔の両頬には、涙が筋をひいてゐた

以上は前線において見聞したことどもをありのまゝにお伝へしたまでである、これによつて如何に考へ、如何に処理すべきかは各人各様のことである、現在前線の闘魂と銃後の闘魂に径庭のあらう筈はない

毎日新聞 1943(昭和18)年9月19日(日)

魂魄北辺に留つて皇軍撤収を加護【1943.8.24夕 毎日】

天候が味方したり米軍艦隊が同士討ちをしたりしてキスカ島の日本軍守備隊は無傷で撤収に成功したが、それはアッツ島で玉砕した英霊の魂が加勢したからだと大本営陸軍報道部長は語る。

魂魄北辺に留つて
皇軍撤収を加護
あゝ・アッツの二千英霊

キスカ島のわが守備部隊は大本営発表の通り一兵も損することなく七月下旬撤収を完了、勇躍新任務についてゐるが、この撤収が天候気象等と悉くわれに幸したことは全く聖戦の使命達成に敢闘する皇軍への天佑神助に他ならぬ、撤収後の無人島に対して盲爆、盲砲撃をしたのみならず同士討ちまで演じて二週間余も血迷つた攻撃をしたことは米海軍も自ら馬脚をあらはして公表してゐるが、大本営陸軍報道部長谷萩〔那華雄(1895-1949)〕少将は廿三日『実に神秘的と思はれるほどの撤収であつた、撤収部隊よりの情報でも、まさにアッツ島の玉砕勇士の英霊が米軍に対し魂魄北辺に留まり英霊部隊として彼に挑戦したに違ひないと思はれる』と前提して当時起つた神秘的な事象をあげて左の通り語つた

『まことに戦ふ英霊に潰走自滅した米兵こそ神罰を受けた亡者どもといへよう、その一つは七月廿六日のこと、キスカ島守備隊の電波には東方より、また西北方から互ひに接近しつゝある鉄塊群のあるのを感じてゐた、と俄然、濃霧の中に殷々たる砲声が数十発以上轟きわたつた、そして間もなくこの砲声とともに鉄塊群の感応が消滅していつた、これは敵艦隊が同士討ちをしてお互ひに大損害を受けたことを科学的に証拠だててをり当時キスカ部隊は、この現象を日本艦隊と敵艦隊の遭遇戦が海上にあり双方全滅的な死闘を北海の荒波と濃霧の中に行つたものと思つてゐた、ところがわが艨艟〔軍艦〕は堂々その後キスカに姿をみせた、皇軍はむしろその姿に当時唖然としたほどであつた、またわが艦隊が入港した時は哨戒監視中の海空の敵が東北方に遠く退避し附近には一片の敵影もなかつたといふ情況であつた、これこそアッツの魂魄が海上に遊撃して敵艦隊を誘ひ錯覚に陥らしめ同士相討つの悲劇を演ぜしめたと判断せざるを得ない、〔/〕

その二つは、わが艦隊が到着したのは七月下旬の某日で白昼であり当時濃霧は海上五米〔メートル〕から七米の高さに垂れ下り、その間はクッキリと海面の見透しが利いてゐた、この間に自由な行動が出来、また海面上は常に波荒き北海が東京湾のやうに波静かな情況であつた、これはアッツ島における一年以上の経験で天候日誌や陣中日誌にもなかつたことで、これがためわが行動は迅速静粛のうちに行はれたのである、これには将兵はいづれも戦友の英霊が協同作戦をしてゐる結果であると信じてゐる

第三はこのやうにして全員が乗艦を終了、出発したがアッツ島南方海上通過毎に小舟に乗つた将兵が日の丸の旗をかざしてわが引揚げをおくつてゐたことをみた兵隊がありまたはるかアッツ島の彼方に霧を通して万歳の声を聞いた将兵も多数ある、撤収部隊将兵中にはアッツ島はその後わが部隊によつて奪回され、わが守備隊が引続き守備してをりキスカの部隊を収容するものだと真に信じてゐる将兵が多数ある、二千数百の英霊が、わが部隊を掩護したものと思はれる

第四は七月下旬から軍用犬、鳩に至るまでキスカには何もゐなくなつたわけだが、これに代つてアッツの英霊部隊が上陸して米軍を悩ましたのだ、それは米軍はこの英霊部隊を一週間余にわたつて攻撃し、しかも米側の公表によると八月八日が日軍反撃の最後であるとなし、しかもある筈のないわが高射砲の反撃があつたなどといひ不時着した敵機があつたほどで、わが英魂に悩まされたといはざるを得ない、最近ガ島〔ガダルカナル島(ソロモン諸島)〕守備の米兵が得たいの知れない病魔に冒され神経衰弱のため同僚を殺傷したり、どんな褒美を貰つてもガ島の守備はコリ/\だと暴動を起してゐることもあり、わが英魂はいかなる地にあつても皇国を守護してゐるのだ

毎日新聞 1943(昭和18)年8月24日(火)夕刊

敵陣に死の四日【1939.6.14夕 東京朝日】

中国の奉新・安義防衛戦で斥候に出た一等兵が敵陣に捕えられたが、脱出。夜のクリークに潜み、死を覚悟したとき、前年に戦死した兄が現れた。一等兵は亡兄に導かれて3日間無我夢中で歩き続け、援軍のもとにたどり着いた。

敵陣に死の四日
戦死した兄の英霊に導かれ
騎兵斥候苦闘の生還

【安義にて桑島特派員十日発】敵の重囲中に四日間彷徨し不思議や戦死せる兄の英霊に導かれ憔悴の身を無事生還した一等兵に絡まる戦場秘話がある、戦友達の温かい看護に漸く元気を回復した母袋部隊足立磨一等兵(大分県出身)が昨夏中支〔中国中部〕荻港の敵前上陸に壮烈な戦死を遂げた実兄の遺品双眼鏡を一入〔ひとしお〕なつかしさうに眺めながら語つたものである――断末魔の苦闘のうち戦場の闇に浮き上つた亡き兄の尊い姿、それは生死の境を幾度か突破した激戦参加の勇士のみ信じ得る世にも稀な奇譚であらう

奉新、安義を奪還すべく押寄せた数万の強敵を奉新南方十数キロ〇〇附近で阻止した四月下旬の大激戦の際少数の兵力をもつて大敵に巧妙な作戦を挑まうと宗像軍曹以下六名の騎兵斥候<せきこう>に敵状偵察の重要任務が与へられた、同月二十三日早朝折悪しく濃霧の中に姿を互に見失はぬやう連絡を密にしつゝ〔原文「つゝつ」〕馬上の雄姿はぐん/\進んで行つた、薄<うす>陽が射し霧が晴れ上て見ると<あたり>はすつかり敵陣地だ、驚愕する斥候兵の

頭上 を掠めて恐るべき敵の狙撃弾が容赦なく降り注いで来た

馬を降り素早く応戦したが弾丸は瞬く間に尽き「もうこれまで――」と肉弾を決意して無我夢中の奮戦を続け『わあツ!』といふ敵兵の鯨波の声を最後に耳にしたまゝ足立一等兵はすつかり気を失つてゐたのだ、それからどれだけの時間が経つたのか同一等兵は冷たい岩の上に倒れてゐた、漸く意識を回復すると戦友達の姿は見えず敵兵が近くに一名悠々と佇立んで〔たたずんで〕居る、わが身はと見れば疲労困憊の極にある、咄嗟に忘れてゐた重要任務の報告と生への愛着が激しく蘇つて来た

精神力といふものは偉大なもので力が勃然と起つて来た「何糞ツ!」と監視兵の頭部を銃の床尾鈑で一撃昏倒するのを見済まして岩影づたひに遁れようとしたが疲労のためふら/\の足を踏みしめながら進むと今度は珍しくも女監視兵がゐた、これも倒しこゝでも危機を脱したが、よく見ると五十メートル程の所には敵の

迫撃 砲が向ふを向いて据ゑられ一団の兵隊がゐる、彼は今敵陣の背後に唯一人潜入してゐるわが身を発見した、疲れ切つた身体<からだ>に死力を尽して脱出した、やつと敵影を認めなくなると大急ぎで鉄兜から靴の先まで木の青葉を千切つて擬装し地図を唯一の頼りに転びつゝ前進して行く、どこをどう彷つたか夜に入つた、空腹の身をぢつと三時間余り草の生ひ茂つたクリークの中へ浸つてゐると四面敵の声「もう駄目だ」といつた諦らめが起つて来る「どうせ助からぬなら手榴弾でも敵兵に投げつけてから」とかつとなつて闇を睨んだ儘構へてゐたその時だつた不思議にもぼうつと前方が明るくなるとそこには頭部を繃帯で巻いた歩哨姿の亡き兄がはつきりと足立一等兵の目に映つた「おゝ兄貴だつ」嬉しさに感極まつて夢中で後をつけて行つた「スイヤスイヤ」と誰何する支那〔中国〕兵の怒号、大勢の女軍の囁きなどはつきりと耳に聞きながらもこれには目もくれず無我夢中で兄を追ひ続けた、兄の姿は一の稜線に導くと更に次の

稜線 の上にぼうつと現れた、それを繰返す事幾夜を経過したか覚えぬがクリークを渡り岩壁を攀<よ>或は敵の歩哨線を巧に抜け敵陣を遂に脱出して三日目の夜<よ>田園中の一軒家まで来ると兄の姿はすつかり消え失せてしまつた

かくて敵中を彷ふ事数里同一等兵が精も根も尽き辿りついたところは母袋部隊救援のため出動してゐた落合部隊の歩哨線だつた、任務を帯びて出発以来丸四日目の明方近くだつた、歩哨から誰何されて「友軍です」と只一言最後の勇気を搾つて答へた儘倒れ込んだのである、足立一等兵は今は全く夢から覚めたやうな気持になり当時を思ひ出してはまだ帰らぬ戦友を気遣ひつゝ亡き兄の霊に感涙を絞つてる〔原文ママ〕

東京朝日新聞 1939(昭和14)年6月13日(火)夕刊

戦線・霊の交流 奇譚二つ【1937.10.25夕 東京朝日】

中国・江南地方で戦う部隊がある日の夕方、クリークに流れ着いた日本兵の死体を収容した。その夜遅く隊員の夢に死体となって収容された兵士が現れ、同じ場所にいる戦友も引き揚げてくれと訴えた。目覚めた隊員が再びクリークに行ってみると、そこにもう1体日本兵の死体が浮いていた。

戦線・霊の交流 奇譚二つ
有難や亡父の写真
胸にガツチリ・身代り

【〇〇にて平松特派員廿三日発】 今は亡き父の忘れ遺品<がたみ>として十四年間肌身離さず懐中してゐた父親の死の直前の写真が迫撃砲弾の破片をがつちりと食止めて勇士の肌に擦り傷一つ負はせず、あの世から今なほ愛児の身を庇ふ親心の戦線佳話――

滋賀県愛知郡稲枝村〔現・彦根市〕出身橋本隊上等兵青木市郎兵衛君(二八)は十五の時

実父 市郎兵衛さん(当時(四五))と死別したがそれから父の姿を寸時も忘れまじと十四年間父が死の直前撮つてくれた写真を懐中から離さなかつた、今度、上海戦線に出動する場合にもお守袋に深く秘めることを忘れなかつた

去る十四日〇〇激戦の時である敵に猛射を浴<あび>せてゐる時迫撃砲弾が同上等兵の直ぐ前で炸裂した、其破片が同君の左乳下に命中『やられた!』と一度は倒れたが不思議に意識がはつきりして居る、胸に手を当てると上着とチョツキに大きな空があいて居るが<かす>り傷一つない、激戦終つて蝋燭の光りで胸を調べて見ると父親の写真が破片をがつちりと食止め

写真 がぽくんと凹<くぼ>んでゐるではないか、同上等兵は早速塹壕内に土の祭壇を設け伏し拝むのであつた、戦友達も父の慈愛心の偉大さを讃へて「俺にも拝ませろよ」と塹壕内のあちこちから弾丸を潜つて集まつて来る、廿三日第一線から連絡のため後方へ来た同上等兵に記者が会ふと

今度こそ父の愛の偉大さを初めて知りました、父が守つてゐて下さると思へば、勇気百倍です

と語つた

死後の友情
夢枕に立つて「頼む」


【○○にて足立特派員二十三日発】 江南〔中国長江下流南岸の地域〕の戦野で鵜崎穣二郎部隊の小林正雄一等兵(東京市王子区〔現・東京都北区〕稲付町二ノ一九三)は二十日夕方クリークに漂着した戦友の死体を収容して迫撃砲の唸り声を聞きながら就寝した、深夜夢枕に立つたのは夕方収容したばかりの死体だ、その時のままの服装で

もう一人自分のゐた所にゐるからあげてくれないか

と囁く

今は迫撃砲がひどいから後でも宜いぢやないか

と答へると

自分の戦友だから是非頼む

と繰り返す中に本物の迫撃砲弾の音で眼が醒めたのだ、身体<からだ>は汗でびつしよりだ、「何だ夢だつたのか」と、念のため傍の角屋金太郎一等兵を呼起してクリークの岸に出て見るとそこには月光に照されて戦友の死体が浮いて居るではないか『この時程驚いたことはありません』と小林一等兵は報告してゐる

夢枕に立つたのは東京市杉並区馬橋一ノ四六益田建次君、第二の死体は埼玉県比企郡今宿村〔現・鳩山町〕赤沼、石井喜久治君であつた

小林正雄一等兵(三〇)は王子区稲付町二ノ一九三ヂヤパン・ケーシング川口工場技師独人ジー・フイシボン氏夫人小林久女子さん(三二)の弟で天津の福昌公司〔現・株式会社福昌〕北安鎮出張所に勤めてゐたことがあり匪賊討伐には馴れてゐたので、「是非戦争に出たいと勇んで出征したといふ【写真は小林一等兵】

元気な便り益田君


夢枕に立つた益田健次君は杉並区馬橋一ノ四六大工職甚蔵氏(六〇)の長男でこれも元気な大工さんだつた、一人子の嘉一ちやん(四才)を抱<いだ>いて

坊やがゐるからには心残りがない、思ふ存分働いて来るぞ

と勇躍○○部隊一等兵として出征して行つた

東京朝日新聞 1937(昭和12)年10月25日(月)夕刊

六年前の予言適中す【1912.6.6 読売】

タイタニック号と共に大西洋に沈んだイギリスの評論家は6年前、フランスの予言者から6年以内に海上で死ぬと言われており、予言どおりの最期を迎えた。

六年前の予言適中す
▲ステツド氏の水難

太西洋〔大西洋〕上に於てタイタニツク号〔この年4月に沈没した英国の客船〕と悲運を共にせし数ある人の中に英国評論の評論雑誌持主ステツド〔William Thomas Stead (1849-1912)〕氏に関して不思議の話しあり〔/〕

氏が今を去る六年前<ぜん>仏国に遊びし時同国有名の予言者なるデベス夫人〔Madame de Thèbes (1845-1916)〕に邂逅せし時夫人は御身は今後六年の間に不幸にも海上にて死する運命を有すと語りたりされどステツド氏は左のみ心にもかけず其後デ夫人にも数回会合せしかど何時<いつ>も物笑ひの種となりて分れ〔別れ〕たるが不思議にも六年目の本年遂に予言に適中するの不幸に際会したり〔/〕

而して尚夫人は本年は海上に事変の多き年なり海の東西を問はず今後も悲惨なる出来事は必<かな>らず繰り返さるゝならん<そ>れは来年の三月廿一日迄継続すと云へりといふ而して夫人は来年三月廿一日以後は何人より如何なる報酬にて予言を求めらるゝも一切口外せずと語り居れりと

読売新聞 1912(明治45)年6月6日(木)

日本武士道の情け【1942.5.4 読売】

バタビアで日本の占領に抵抗するラジオ放送を流したオランダ人が逮捕、処刑された。以来、その家では毎晩、泣き声が聞こえ、人影が見えるとの噂が立った。それを聞いた日本軍の通訳が花を飾って故人に哀悼の意を表すと、幽霊が消えた。

日本武士道の情け
幽霊も消える
バタビヤに綺譚の家

【バタビヤにて福岡特派員三日発】 バタビヤ市〔インドネシアの首都ジャカルタ〕ブアン・ヒツケ・ブリヤ街の六番地、丸いベランダのある二階建の瀟洒な洋館、広々とした庭園にはパパイヤがみのり芳醇な香りを放つてゐる、人呼んで“幽霊の家”夜な/\すゝり泣きが洩れやがて髪を乱した白い裸体が壁に浮ぶといふ

オランダ軍 全面降伏〔1942年3月9日〕後のある一夜突然オランダの国歌が放送された、軍当局では即座にその敵性放送の根城をつきとめ支配人グスタス〔J. P. W. Kusters〕四六同技術員グデイン〔V. Kudding〕二七同フツテ〔N. van der Hoogte〕二六)の三名を逮捕し断乎処分した、幽霊の家はそのグスタスの家であつた、彼がオランダ最後の愛国者であつたかどうかは兎に角として放送事件はこれで解決したが幽霊の件は毎夜グスタスの家からスリツパの足音とかすかな泣き声が響き二階寝室の窓硝子〔ガラス〕に白い裸体が浮ぶのを隣家のサマンといふ男が見つけ恐ろしくてしやうがないと引越してしまつた、この噂がパツと拡がつた

近所の人々 は妖怪を追払へとばかりに垣を壊し、窓ガラスに石を投げつけこれを軍属通訳浦丸徳一氏(元国際観光局事業課勤務)が聞きこみグスタスの生前がどうあらうとも故人に対し哀悼の意を表してやらうと同家の手入れをさせ各部屋に花を飾つて霊を弔つた、それ以来幽霊は姿を消し同時にこの家に乱暴するものもなくなつた、住民たちは日本武士道が幽霊を追払つたのだとまた噂した浦丸氏はこの噂をかう解説した

『余り噂が高いので接収して泊つてみたが気持は余りよくありませんね、私が乗込んで屋敷の手入をし花を飾るのを見たオランダ人が「何故そんなことをするのか、グスタスは日本人に敵性を持つてゐたのではないか」といふ、彼等には日本人の気持が判るまいと思ひ、「兎に角乱暴するのは仏様に対して無礼だと諭すと、「これが日本の武士道だと早合点してしまつたんですよ、幽霊はグスタスが生前深夜に限つて何か怪電波放送の画策をしてゐた姿ではないかと思ふ』

読売新聞 1942(昭和17)年5月4日(月)

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